バッハとアンナ・マグダレーナ~筆跡から見える音楽史上最高の仲良し夫婦
2021年は大バッハと妻アンナ・マグダレーナの結婚から300年。死別した前妻マリア・バルバラも含め、幸せな結婚生活を送ったと言われるバッハですが、伝わっている情報は多くありません。那須田務さんが、当時の手紙や楽譜の筆跡からその様子を浮かび上がらせます。
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...
絆を大切にするバッハ一族〜最初の結婚、死別
バッハの時代の音楽家はいわば職人のようなもの。とくにドイツでは別の町に住んでいても、音楽を生業とするいくつもの音楽家一族が相互扶助の精神のもとに連携して活動していました。そのため、結婚相手の出逢いもその中で生まれることが多かったようです。
バッハも同様です。1人目の妻のマリア・バルバラ(1684~1720)は、バッハの祖父の兄弟の孫、バッハの又従妹(はとこ)に当たります。やはり音楽家だった父は彼女の幼い頃に亡くなり、10年後に母が死去してからは2人の姉とともに、両親の出身地(彼女の父はかつて同地のカントルをしていました)アルンシュタットの市長の家に住んでいました。バッハは、その前年に同市の新教会のオルガニストを務めていました。18歳から20代の親戚の娘たちとの交際は楽しかったに違いありません。
2人はバッハがミュールハウゼンの教会オルガニストに転職した1707年10月に結婚。マリア・バルバラはバッハとヴァイマール(宮廷オルガニスト楽師・楽師長)とケーテン(宮廷楽長)で苦楽を共にし、7人の子どもをもうけ、そのうち4人が成人しますが、ケーテン時代の1720年7月、バッハが仕事で家を留守にしている間に亡くなるのです。そのときのバッハの心中はいかばかりでしょう。とはいえ、妻の姉が家政婦として手伝ってくれたのでバッハは宮廷の仕事に専念することができました。因みにこの女性は、バッハの再婚後も1729年まで一家と行動を共にします。一族の絆を大切にするバッハ家らしい話だと思います。
バッハ生前から人気があったドラマチックな「半音階的幻想曲とフーガ」は、成立年代(諸説あり)などからマリア・バルバラへの追悼曲と推測する研究者もいる。
きっかけは採用試験? 16歳年下、きれいなソプラノを歌う2番目の奥さん
そこへやってきたのが、当時18歳のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(1701~1760)でした。バッハ一族ではありませんが、同じテューリンゲン地方の音楽家一族の、宮廷トランペット奏者の娘でした。彼女の父がザクセン=ヴァイセンフェルス侯国の宮廷に務めていた頃に声楽の訓練を受けて、ケーテンの宮廷付歌手に雇用されたのです。ケーテンで採用試験があったとすれば、宮廷楽長のバッハもいたことでしょうから、その時が馴れ初めの可能性もあります。バッハは彼女の美声に惹かれたのかもしれません。というのも、その10年後に友人に宛てた手紙でバッハは妻のことを「とてもきれいなソプラノを歌う」人だと書いているからです。
先妻が亡くなっておよそ1年半後、バッハは36歳の1721年12月3日にケーテンで、アンナ・マグダレーナと結婚します。20歳の若さで4人の子どもの母親になって、さぞかし大変だったろうと思いますが、先妻の姉が家事を手伝ってくれたこともあって、しばらく歌手の仕事を続けることができました。しかも、宮廷楽長とまではいかないまでも、かなりの給料をもらっていたことから、優秀な歌手だったことがわかります。
奥さんへの愛情がたっぷりの音楽帳
さて、2人はバッハが亡くなるまで28年間連れ添い、13人の子どもをもうけ、そのうち6人が成人。結婚の2年後に一家はライプツィヒに移住し、アンナ・マグダレーナはトーマス教会のカントル、市の音楽監督、ライプツィヒ大学の学生からなるコレギウム・ムジクムの指揮者として超多忙な夫を支えることになります。家族はトーマス学校の校舎に住み、アンナ・マグダレーナは先妻の姉とともに家事や子どもたちの教育にと、忙しくも充実した日々を送ったに違いありません。
バッハは16歳年下の、歌の上手な奥さんが可愛くてしかたがなったようです。結婚の翌年に一冊の楽譜帳《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》をプレゼントしていますが、そこにはあらかじめフランス組曲の最初の5曲が記載されていて、その後もバッハは妻と子どもたちのために、さまざまな音楽を書き込みました。
《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》
それは1723年にライプツィヒに移ってから2冊目となり、歌曲やコラール、短い鍵盤曲、おそらくバッハ自身の手になると思われる詩などが加えられていきました。この2冊の音楽帳は、バッハ家の音楽に満ちた家族の団らんを想像させると同時に、家族どうしの愛情の深さを感じさせます。
アンナ・マグダレーナはどんな女性だったのでしょうか。肖像画が残っていたらと思うのですが、バッハの親戚で私設秘書を務めた人がある手紙の中で30歳代後半の彼女について、「おばさんは、園芸と鳥を飼うことが大好きな人です」と述べているので、きっと穏やかで優しい、家庭的な女性だったのではないでしょうか。
《無伴奏チェロ組曲》の楽譜から想像する夫婦仲
アンナ・マグダレーナは、ライプツィヒではもはや歌手として公的な場に出ることはありませんでしたが、パート譜を筆写するなど夫の仕事を手伝っています。たとえば《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》《無伴奏チェロ組曲》《平均律クラヴィーア曲集第2巻》、オルガン・ソナタ、ヴァイオリンとピアノのためのソナタBWV1021、チェンバロ協奏曲BWV1061、カンタータ13番、32番などです。
その中でも《無伴奏チェロ組曲》は、バッハの自筆の楽譜が残っておらず、アンナ・マグダレーナとバッハの弟子のケルナーによる写本以外、18世紀後半の2つの写本しかないので非常に貴重です。彼女の筆跡はバッハのそれに良く似ていると言われますが、とくにこの曲集は長い間バッハの自筆譜だと思われていたほどです。筆跡が似るというのはそれだけその人を敬愛している証といえるでしょう。
最後に、2年前に逝去したバロック・チェロの名手アンナー・ビルスマが渡邊順生著『アンナー・ビルスマは語るバッハ・古楽・チェロ』(加藤拓未編・訳、アルテスパブリッシング)で、《無伴奏チェロ組曲》の自筆譜が現存しない理由について、とても面白い説を述べているのでご紹介しましょう。ちなみに、ビルスマはこの筆写譜が2人の結婚後、間もなく書かれたと考えています(諸説あります)。
ビルスマいわく、チェロの無伴奏作品では最小の音符で最大限の多様性が求められます。そのためこの曲の作曲は試行錯誤の連続だったに違いなく、書き直しが多くて読めないところがたくさんあったのでしょう。そこでバッハは結婚したばかりの妻に清書を頼みました。夫はチェロのための楽譜の書き方を教え、妻も夫の希望に応えようと一生懸命写譜をしました。楽譜の仕上がりの美しさをとても気に入ったバッハは彼女に感謝し、汚い自分の楽譜を眺めて、「これはもう必要ないね」と暖炉の火にくべてしまった……。
もちろんこれはビルスマらしいユーモラスな想像ですが、丁寧に仕上げられた筆写譜に、若い妻の年長のバッハに対する尊敬の想いがひしひしと感じられます。憧れにも似た感情だったのかもしれません。いずれにしても、バッハとアンナ・マグダレーナは音楽史上、もっとも仲良しの幸福な夫婦だったのではないでしょうか。
《無伴奏チェロ組曲》アンナー・ビルスマ(バロック・チェロ)
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