ベートーヴェンの生涯と主要作品
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯と主要作品を音楽学者・沼口隆が解説!
文―沼口 隆(音楽学者)
ベートーヴェンの生涯
1.幼年時代
ドイツの作曲家。1770年12月,ドイツのボンに生まれる。17日の受洗には裏付けがあるが,誕生日は確定できない。同名の祖父はベルギーのメヘレン出身の優れたバス歌手であり,1733年に,ボンに居城を構えていたケルン選帝侯に雇用され,61年から楽長を務めた。その息子ヨハンはボンで39年ないし40年に誕生し,同宮廷でテノール歌手となった。67年,コブレンツ出身のマリーア・マクダレーナ・ケーフェリヒと結婚し7子をもうけたが,成年に達したのは第2子ルートヴィヒの他,カスパル・カール(1774-1815)とニコラウス・ヨハン(1776-1848)のみだった。前者は94年中頃,後者は翌年末に,兄ルートヴィヒに続いてウィーンに移り住んだ。
幼少期から父にクラヴィーアとヴァイオリンの手ほどきを受け,のちにオルガンも学んだ。1778年3月26日,クラヴィーア奏者として初めて公開演奏会に臨んだが,その際には6歳として周知された。ボン時代に最も大きな影響を与えた教師はネーフェで,師が82年に宮廷オルガニストに着任すると,遅くとも翌年にはその助奏者に任命されている。ネーフェが寄稿した83年の雑誌記事では,ベートーヴェンが「最も将来を嘱望される才能の持ち主」であり,順調に成長すれば「第2のヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトとなることは間違いない」と紹介されている他,前年に出版された最初の出版作品である鍵盤楽器のための《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 9 Variationen über einen Marsch von E.C. Dressler》WoO 63にも言及がある。83年には,宮廷楽団のチェンバロ奏者にも任命され,同時代の主要なオペラにも触れられるようになった他,3つのピアノ・ソナタ(通称《選帝侯ソナタ Kurfürstensonaten》)WoO 47も出版された。年末にはオランダに旅行し,数々の演奏の機会を得ている。
2. ボン時代の最後の4年間
1787年春,ベートーヴェンはウィーンを訪れたが,母の病状が悪化してボンへと帰ったため滞在は2週間程に終わった。モーツァルトに面会したかどうかについては,具体的な証拠に乏しい。同年7月,母が他界し,酒浸りだった父の代わりに一家の長としての役割を担うようになり,89年には父の給与の半分を管理する権利を承認された。家庭内に困難があった一方,ボン時代の最後の4年間は音楽的に充実しており,鍵盤奏者としてばかりでなくヴィオラ奏者としても宮廷礼拝堂や劇場オーケストラで経験を積み,優れた演奏家たちと親交を深めた。また,進歩的な貴族たちとの交友や読書サークルへの参加などを通じ,啓蒙思想とフランス革命への共感も育んだ。88年にウィーンからやって来たヴァルトシュタイン伯爵は,とりわけ重要な友人のひとりでありパトロンでもあった。この時期《皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ Kantate auf den Tod Kaiser Josephs II》WoO 87や《皇帝レーオポルト2世の即位を祝うカンタータ Kantate auf den Erhebung Leopolds II zur Kaiserwürde》WoO 88(いずれも1790)が作曲されている。
3. ウィーンへ
ハイドンは,第1回のロンドン旅行に際し,往復ともにボンに立ち寄った。1790年12月と92年7月の,どちらの機会に何が起きたのか詳細は明らかではないが,上記のカンタータのうちいずれかを見て高く評価しベートーヴェンを弟子とすることを承諾した。2度目の来訪時にベートーヴェンと面会したことは確実であり,そこからウィーン留学が急速に具体化したようである。ベートーヴェンは,92年11月の第2週にウィーンに到着し,再び故郷の土を踏むことはなかった。ウィーンでの学習は作曲技術の基礎を成す対位法が中心となったが,ハイドンの指導には飽き足りず,ヨハン・シェンクにも師事した。ハイドンのロンドン再訪に際して,指導は対位法の大家であった聖シュテファン大聖堂楽長アルブレヒツベルガーに委ねられた。のちには帝室楽長サリエーリからイタリア様式の声楽の作曲法も学んでいる。
ボンの選帝侯マクシミーリアン・フランツは,時の神聖ローマ皇帝フランツ2世の叔父であり,ヴァルトシュタイン伯爵もまたウィーンの貴族と親交があったため,ベートーヴェンは到着当初から貴族たちの間で知られており,すぐに良好な関係を築くことができた。ウィーン時代最初期から最晩年に至るまで多くの貴族の後援を受け,生涯の大半を固定された職務を持たない自由な芸術家として生きたが,経済的な援助に依存しつつ精神的には完全な自立を渇望していたため,貴族に対する態度・心境は絶えず矛盾をはらんでいた。
4. ピアニストとして作曲家として大きな一歩を踏み出す
ピアニストとしては,とりわけ即興演奏に卓抜な才能を見せ,貴族のサロンで瞬く間に名声を広めた。1795年3月29日のブルク劇場における慈善演奏会で公式にデビューを飾り,ヴィルトゥオーソとしても作曲家としても大きな一歩を踏み出した。同年には,記念すべきop.1として3つのピアノ三重奏曲を出版。この作品の献呈を受けたリヒノフスキー侯爵は翌年2月,ベートーヴェンをプラハへと連れて行った。その後は作曲家ひとりでドレスデン,ライプツィヒ,ベルリンを訪問し,初めての本格的な演奏旅行を成し遂げ,各地で優れた演奏家たちと知り合った。御前演奏を行ったベルリンでは,フリードリヒ・ヴィルヘルム2世からルイ金貨の詰まった金のかぎタバコ入れを授与されている。同年3月出版のop.2は,3曲のピアノ・ソナタで,師ハイドンに献呈された。
1796年末には,プレスブルク(現ブラティスラヴァ)に演奏旅行に出ているが,翌年の活動の詳細は不明で,患っていた可能性も疑われている。98年後半には,再度プラハへと演奏旅行に赴いた一方,満を持してハイドンとモーツァルトが得意としたジャンルである弦楽四重奏曲の作曲に取り組んだ。98年には短期間に親友となったカール・アメンダ,翌年にはブルンスヴィク家の姉妹テレーゼとヨゼフィーネなど,生涯に大きな影響を及ぼす人々との出会いもあった。1800年4月2日,ブルク劇場で初めての受益演奏会を開き,新作の七重奏曲 op.20と交響曲第1番を披露。同年,バレエ《プロメテウスの創造物 Die Geschöpfe des Prometheus》のための音楽を委嘱され,翌年3月28日にブルク劇場で初演されたこのバレエは2年間で25回以上も再演され,ベートーヴェンが公的な場で大成功を収めた最初の作品になった。終曲に現れる旋律は,のちに《ピアノのための15の変奏曲とフーガ》op.35(1802)と交響曲第3番《英雄 Eroica》(1803)の終楽章でも用いられ,作曲家にとって重要な意味を持っていた可能性をうかがわせる。
5. 「ハイリゲンシュタットの遺書」
聴覚障害は,1798年頃には深刻なものとして自覚されるようになったとみられ,1801年6月29日付でボン時代からの親友ゲールハルト・ヴェーゲラーに,2日後にはアメンダに書簡で告白されるに至る。絶望的な心境の吐露と,それとは対照的な力強い意志の表明は,危機を超克しようとするベートーヴェンの姿勢に特徴的である。02年10月に弟たちに宛てて書かれた通称「ハイリゲンシュタットの遺書」でもまた,聴覚障害にまつわる苦悩が語られる一方で,自殺の衝動に打ち勝って芸術家としての運命を全うすることが宣言されている。この手紙は,生前に他者の目に触れることはなかったとみられ,死ぬまで自身で保管していた。
器楽では成功を手にしていたが,当時の中心的なジャンルはオペラであり,このジャンルを手掛けるのは時間の問題であった。1803年初頭,アン・デア・ウィーン劇場付き作曲家への就任依頼を快諾し,新しい劇場の3階に住まいを得ることになった。02年春以降のウィーンでは,ケルビーニらの「救出オペラ」がパリから輸入されて大人気となっていた。苦境にある英雄を「救出する」ことを中心に,登場人物たち自らの手で困難を克服して幸せを勝ち取るという筋書きには,フランス革命を経た新しい時代の求めるリアリズムがあった。ベートーヴェンも同時代人として大いに共感していたらしく,のちに成立する唯一のオペラ《フィデリオ Fidelio》もまた救出オペラである。劇場との関係は,まず演奏会として実を結んだ。03年4月5日,同劇場で初演されたオラトリオ《オリーヴ山上のキリスト Christus am Ölberge》は,劇的声楽作品を世に問う初めての機会となった。他に交響曲第2番と自身の独奏によるピアノ協奏曲第3番が初演され,交響曲第1番も併せて上演された。
6. 交響曲第3番とナポレオンへの複雑な感情
1803年夏は交響曲第3番の創作に集中的に取り組んだが,これは当初「ボナパルト」と題されていた。ナポレオンはベートーヴェンの僅か1歳半年長で,ある時期まではヨーロッパの未来を担う希望の星と目されていた。ある証言によれば,ベートーヴェンは,ナポレオンが皇帝になったことを聞いて激怒し「ボナパルト」と書かれた楽曲の表紙を「真っ二つに引き裂き床の上に投げ捨てた」という。自筆譜は消失しており話の裏付けは取れないが,現存する筆写譜のタイトル・ページには「ボナパルトに献呈された」という言葉を穴があくほど激しく消した跡があり,逸話には一定の信憑性がある。その一方で,同じタイトル・ページには「ボナパルトのために書かれた」との記載もあり,のちに出版社への書簡でも「この交響曲の表題は本当はボナパルトです」と述べている。晩年「以前はあの男を許しかねていたのだが,今はすっかり考えが変わった」と述べたとも伝えられており,ナポレオンに対する感情には一筋縄ではゆかない複雑な面があったようである。
オペラ《フィデリオ》の前身である《レオノーレ Leonore》の第1稿は1805年11月20日に初演されたが,折あしくナポレオン軍がウィーンに進駐した時期に重なり,後援者たちも不在の中で失敗に終わった。第2稿は,序曲も新たに作曲され(《レオノーレ第3番》),翌年春に初演されて成功を収めたが,作曲家が劇場監督ともめて楽譜を取り下げたため2回しか上演されなかった。しかし,その後の2年間は,創作において全盛というべき時期に入り,規模の大きい楽曲を挙げるだけでも,ミサ曲ハ長調,交響曲第4~6番,ピアノ協奏曲第4番,ヴァイオリン協奏曲,《コリオラン序曲 Ouvertüre zu Coriolan》などが生み出されていった。04-07年には,4人の幼子を抱えて未亡人となっていたヨゼフィーネ・フォン・ダイム(旧姓ブルンスヴィク)に熱烈な愛情を抱いていたことが,残存する書簡から推察される。ヨゼフィーネは友情を越える親密な関係を避けたとみられ,おそらくはそれが原因で2人の関係は破局を迎えたが,作曲家の感情に大きな起伏が生じていたことは確かだろう。
7. ルードルフ大公との《告別》ソナタ
常に解決すべき問題として残されていたのは,定収入の確保であった。1808年,ヴェストファリア王になっていたナポレオンの末弟ジェロームからカッセル宮廷楽長への就任を打診されると,ベートーヴェンは類似の条件をウィーンで得られるよう画策し,ウィーンに残ることを前提に,09年3月1日付でルードルフ大公とロプコヴィツ,キンスキー両侯爵の3名から,連名による年金支給契約を取り付けた。同年5月,ナポレオン軍が再度進駐し,知己が不在のウィーンで恵まれない時期を過ごしたが,疎開したルードルフ大公との別離と再会を織り込んだピアノ・ソナタ《告別,不在,再会 Das Lebewohl, Abwesenheit und Wiedersehn》op.81aの他,同じく大公に献呈されたピアノ協奏曲第5番(通称《皇帝 Emperor》),弦楽四重奏曲変ホ長調(通称《ハープ Harp》)などが生み出された。同年末から翌年6月頃には,ゲーテの《エグモント》のための付随音楽が作曲されている。10年5月2日には,ヴェーゲラーに頼んで故郷から洗礼証明書を取り寄せており,この頃に真剣に結婚を考えていたとみられる。相手は裕福な商人の娘テレーゼ・マルファッティで,彼女に宛てた書簡が1通残るのみだが,第三者とのやり取りなどから,拒絶をされて心に痛手を受けたことがうかがわれる。
8. 不滅の恋人への手紙
1812年の夏は,前年に続いてボヘミアのテプリツで過ごした。同地での7月6,7日の書簡は,遺品の中から発見され「不滅の恋人への手紙」として知られる。相手については議論があるが,現在最有力の説はアントーニエ・ブレンターノであったとしている。同地では,ゲーテと相まみえる機会もあった。11年秋からの1年間には,交響曲第7,8番が立て続けに成立している。
1813-18年頃には,創作の停滞が見られる。他方,図らずもこの時期に名声は一気に高まっていった。13年12月8日,交響曲第7番と共に初演された,いわゆる《戦争交響曲[正式名:ウェリントンの勝利,あるいはヴィットリアの戦い Wellingtons Sieg oder Die Schlacht bei Vittoria]》は,イギリスの将軍ウェリントンがナポレオンに戦勝したことを記念して作曲されたもので,ナポレオン劣勢の状況下,戦争の終結を願う聴衆たちは戦争を描写した派手な音楽を大歓迎した。翌年は,ウィーン会議の恩恵を被り,委嘱作品なども得て,称賛と名声からすれば「生涯最良の年」とまで言われる。オペラ《フィデリオ》の改訂には苦労を要したが,14年5月23日に初演されて好評を博し,26日には新たな序曲も加わって,唯一のオペラの現在に知られる姿が整った。
9. 甥カールの後見をめぐる法廷闘争と《第9》初演
1815年11月15日,弟カスパル・カールが没する。この後,当時9歳の甥カールの独占的な後見人の権利をめぐり,彼の実母ヨハンナとの間で4年半にも及ぶ法廷闘争を繰り広げ,その後も6年にわたって甥の教育と世話に心血を注いだ。こうしたことも,創作の停滞につながったとみて間違いあるまい。一方で,15年頃から健康状態が悪化し,20年頃には肝臓病の前兆である黄疸の症状も見られるようになった。聴覚の衰えも著しく,16年には補聴器が,18年には会話の補助となるいわゆる「会話帳」が導入された。
創作力は,1818年秋に完成したピアノ・ソナタ(通称《ハンマークラヴィーア Hammerklavier》)op.106の頃から緩やかに回復した。19年3月,ルードルフ大公がオルミュッツ(現チェコのオロモウツ)大司教となることが正式決定すると,翌年3月の戴冠式での上演を目標に《ミサ・ソレムニス》の創作が開始された。《ミサ》は式典には間に合わなかったが,様々な作品を手掛けるようになり,22年頃から創作力は完全に勢いを取り戻す。同年,《ミサ》やピアノ・ソナタ op.111が完成し,交響曲第9番にも本格的に取り組んでいる。24年5月7日,ウィーンのケルントナートーア劇場で《献堂式 Die Weihe des Hauses》序曲と《第9》交響曲が初演され,《ミサ・ソレムニス》も抜粋上演された。ベートーヴェンは,指揮者とは別に舞台上で楽譜を見ながら拍を打っていたが,聴力の衰えが著しく,出演者に促されて振り向くまで聴衆の喝采にさえも気付かなかったという。その後,5つの弦楽四重奏曲が集中的に作曲された。
没したのは1827年3月26日17時45分頃。享年56歳。21年頃から肝臓病,眼炎,肺炎,大腸炎などを患い,最後の数カ月はほとんど寝たきりだった。死因は肝不全であったとみられている。3月29日の埋葬式では,偉大な作曲家を送る大葬列を一目見ようと群衆が集まった。その数は1万以上,3万人に達したともいわれる。
10. ベートーヴェンの4期の創作区分
ベートーヴェンは,西洋芸術音楽の歴史において,最高の敬意を受け,最大の影響力を及ぼし,最も幅広く認知されてきた作曲家と言ってよい。彼に対する評価は,既に生前から極めて高く,その存在は19世紀を通じて神格化された。神格化の経緯・結果も必然的に歴史の一部であり,そうしたイメージそのものがベートーヴェン像の一面とみなされなければならない。
創作においては,伝統的な枠組みの拡張に特徴がある。ハイドンとモーツァルトによって代表される盛期古典派の様式を基盤とし,交響曲,弦楽四重奏曲,ピアノ・ソナタなどの従前のジャンルが創作の中核を成すが,主観的な感情の発露を強く感じさせる個性的な表現にはロマン派的な側面を認めることができる。動機労作の手法を徹底して先鋭化させ展開部やコーダに大きな発展性を付与した他,主調に対比される調の選択や形式の各部位の機能についても可能性を拡張した。他方で,ロマン派に典型的なドイツ・ロマン主義オペラ,ドイツ・リート,ピアノ小品などのジャンルでは,作例があっても限定されており,同時代に活躍したヴェーバーやシューベルトなどと対照を成している。
創作は,伝統的に初・中・後期に3期区分されてきており,現在ではこれに「ボン時代」を加えた4期区分で捉えるのが一般的である。細部に関して吟味が要請されるのは当然であるが,あえて大まかに捉えれば,1792,1802,1812という10年間隔の3つの年代を分岐点とみてよい。これはまた,ウィーンへの移住,「ハイリゲンシュタットの遺書」,「不滅の恋人への手紙」という伝記上の象徴的な出来事(記録)とも一致している。ボン時代が若き才能の発露した時代だとすれば,初期はハイドン,モーツァルトの様式を踏襲した上で個性を模索した時代であったといえよう。革新性が打ち出されてゆく中期は,その代表作品のひとつである交響曲第3番《英雄》にちなみ「英雄的様式」と呼ばれることもある。この様式に内包される劇的なダイナミズムには時代や思想の反映を読み取ることもできる。後期は,伝統的な要素と革新性,複雑さと単純さ,厳格さと抒情性など,相矛盾するような要素が,介在するものを持たずに直接ぶつかり合う点を特徴とし,極度なまでの対照性は,後期作品が「難解」「秘教的」などと形容されることの一因となっている。
11. ベートーヴェン研究の推移
ベートーヴェン研究は,音楽学の中でも最も盛んな領域のひとつであり,2014年にはクルト・ドルフミュラー,ノルベルト・ゲルチュ,ユリア・ロンゲの共同編集による待望の新しい作品目録《ベートーヴェン主題・文献目録 Ludwig van Beethoven: Thematisch-bibliographisches Werkverzeichnis》(全2巻)が刊行されて,20世紀後半以降の膨大な研究成果が集約されるに至った。新全集《Beethoven: Neue Ausgabe sämtlicher Werke》(1959発足,61刊行開始)も,一時的な停滞はあったものの再び活気を取り戻しつつあるようにみえる。研究の中心は1927年にボンのベートーヴェン・ハウスの研究部門として設立されたベートーヴェン研究所が担っており,作品に関する簡潔な情報はベートーヴェン・ハウスのホームページにある「デジタル・アーカイヴ」で公開され,同研究所が所蔵するスケッチや自筆譜の画像も閲覧できる。
ベートーヴェン作品の最初の本格的な全集は,1862-65年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行されたもので,この時点で24巻あり,その後の研究成果を集約させた第25巻の刊行(1888)をもって完結した。これは今日「旧全集」の名で知られているもので,その影響は広範囲に及び,録音の歴史にも反映されている。「新全集」は,前述のとおり近年続刊の動きが顕著であり今後の進展が期待される。作品目録については従来,キンスキーの遺稿をハンス・ハルムが完成させた《ベートーヴェンの主題・文献目録》(1955,いわゆる「キンスキー=ハルム」)が60年近くにわたって基礎的な役割を担い,その内容を補足するものとしてドルフミュラー編《ベートーヴェン文献の研究 Beiträge zur Beethoven-Bibliographie》(1978)があった。また,ヴィリ・ヘスは《ベートーヴェンの全集に含まれない作品の目録 Verzeichnis der nicht in der Gesamtausgabe veröffentlichen Werke Ludwig van Beethovens》(1959)を出版し,「旧全集」に含まれていなかった作品の情報を網羅的に開示した(ヘスの目録番号は「Hess」と彼の名前を冠して識別される)。この目録は,ジェイムズ・F.・グリーンによって英訳され,内容が更新されている(《新ヘス目録 The New Hess Catalog of Beethoven’s Works》2003)。ヘスはのちに,自らが目録で取り上げた作品を校訂・編纂し《旧全集への補遺 Sämtliche Werke: Supplemente zur Gesamtausgabe》(1959-71)として,それらの作品の楽譜を出版した。
ベートーヴェン研究にユニークなのは,膨大に残されたスケッチに関する研究である。ノッテボームが,19世紀後半,既にスケッチの重要性に注意を喚起していたが,この研究が本格的に進展したのは20世紀の後半になってからである。とりわけスケッチ帳の再構成は際立って大きな研究成果であった。ダグラス・ジョンソンやタイソンは,透かしを研究することによってペーパー・タイプを特定し,多くのスケッチの「書き込まれた当時の状態」を明らかにした。ジョンソン編《ベートーヴェン・スケッチブック The Beethoven Sketchbooks》(1985)は,この分野での基本文献として揺るぎない地位を確立している。一方で1952年には,ベートーヴェン研究所がスケッチ全集の刊行を打ち出したが,ベートーヴェンの手稿を解読することの困難さなどが大きな障壁となり,その完結は長らく疑問視されている。
ベートーヴェンが残した主要な文書資料には,楽譜の他に,書簡と日記,会話帳がある。書簡については,ジークハルト・ブランデンブルク編の《ベートーヴェン書簡全集 Ludwig van Beethoven: Briefwechsel: Gesamtausgabe》(全8巻,1996- ),日本語版では,ドイツ語圏で標準的であったエメリヒ・カストナー,ユーリウス・カップ編の書簡全集に基づく《ベートーヴェン書簡選集》(上1978,下79)が最も包括的である。ベートーヴェンが1812-18年に断続的に残した日記については,メイナード・ソロモン編《Beethovens Tagebuch》(1990,日本語版:《ベートーヴェンの日記》2001,《新訳ベートーヴェンの日記》2009)があり,また会話帳については,カール=ハインツ・ケーラー,グリッタ・ヘッレ編の全集《ベートーヴェンの会話帳 Ludwig van Beethovens Konversationshefte》(全11巻,1968-2001)が完結している。
伝記については,基本的なデータの集積という意味で,セイヤーの偉業を凌駕することは考えにくい。《ベートーヴェンの生涯 Thayer’s Life of Beethoven》(改訂第2版1967)が標準的であるが,情報を大きく改めるべき所もあるので,抜本的に改訂された版を期待したいところである。より新しいものとしては,ソロモン著《Beethoven》(1977,改訂第2版98,日本語版:《ベートーヴェン》上1993,下94),ルイス・ロックウッド著《Beethoven: The Music and the Life》(2002,日本語版:《ベートーヴェン――音楽と生涯》2010)が挙げられる。
新しい研究成果をまとめた包括的な文献としては,スヴェン・ヒームケ編《ベートーヴェン・ハンドブック Beethoven-Handbuch》(2009)とアルブレヒト・リートミュラー編《ベートーヴェン・ハンドブック Das Beethoven-Handbuch》(全6巻,2008- )を,日本語の文献では,バリー・クーパー編纂《The Beethoven Compendium》(1991,日本語版:《ベートーヴェン大事典》1997),《ベートーヴェン事典》(1999),《ベートーヴェン全集》(全10巻,1997-2000)をそれぞれ挙げることができよう。
ベートーヴェンの主要作品
WoO(Werke ohne Opuszahl=作品番号なしの作品)は「キンスキー=ハルム」の目録で与えられた番号
【オペラ】
《フィデリオ[レオノーレ]》 op.72 第1稿[序曲《レオノーレ No.2》付き] 1804-05, 第2稿[序曲《レオノーレ No.3》付き] 1805-06, 最終稿[序曲《フィデリオ》付き] 1814
【バレエ音楽】
《騎土バレエ》 WoO 1 1790-91 ; 《プロメテウスの創造物》 op.43 1800-01
【付随音楽】
《エグモント》 op.84 1809-10 ; 《アテネの廃墟》 op.113 1811 ; 《シュテファン王》 op.117 1811 ; 《献堂式》: 序曲 op.124 1822, 合唱曲 WoO 98 1822
【交響曲】
No.1 C op.21 1799-1800 ; No.2 D op.36 1801-02 ; No.3 Es《英雄[エロイカ]》 op.55 1803 ; No.4 B op.60 1806 ; No.5《運命》 c op.67 1807-08 ; No.6 F《田園》 op.68 1808 ; No.7 A op.92 1811-12 ; No.8 F op.93 1812 ; No.9[合唱付き] d op.125 1822-24
【管弦楽曲】
序曲《コリオラン》 op.62 1807 ; 序曲《レオノーレ No.1》 op.138 1807 ; 《ウェリントンの勝利,あるいはヴィットリアの戦い[戦争交響曲]》 op.91 1813 ; 序曲《霊名祝日》 op.115 1814-15
【吹奏楽曲】
行進曲 : F《ボヘミア国防軍のための》 WoO 18 1809改訂10, F WoO 19 1810[トリオは22頃に追加], C WoO 20 1810頃[トリオは22頃に追加]
【舞曲】
12のメヌエット WoO 7(orch) 1795 ; 12のドイツ舞曲 WoO 8(orch) 1795 ; 6つのメヌエット WoO 9(2vn, 低音楽器) 1795以前? ; 12のコントルダンス WoO 14(orch) 1791-1801頃 ; 6つのレントラー WoO 15(2vn, 低音楽器) 1802 ; 祝賀メヌエット Es WoO 3(orch) 1822
【協奏曲】
ピアノ協奏曲 : No.1 C op.15 1795改訂1800, No.2 B op.19 1788頃以降, 改訂94-95,98, No.3 c op.37 1800-03?, No.4 G op.58 1804-07, No.5 Es《皇帝》 op.73 1809 ; ヴァイオリン協奏曲 D op.61 1806 ; ピアノ,ヴァイオリンとチェロのための協奏曲《三重協奏曲》 C op.56 1804-07 ; ロマンス(vn, orch): G op.40 1801-02, F op.50 1798頃
【八重奏曲】
Es op.103(2ob, 2cl, 2hrn, 2fg) 1792以前 ; ロンディーノ Es WoO 25(2ob, 2cl, 2hrn, 2fg) 1793
【七重奏曲】
Es op.20(cl, hrn, fg, vn, va, vc, cb) 1799
【六重奏曲】
Es op.81b(2hrn, 2vn, va, vc) 1795? ; Es op.71(2cl, 2hrn, 2fg) 1796?
【弦楽五重奏曲】
Es op.4[八重奏曲 op.103の改作] 1795 ; C op.29 1801 ; c op.104[ピアノ三重奏曲 op.1-3の編曲] 1817 ; フーガ D op.137 1817
【その他の五重奏曲】
Es op.16(p, ob, cl, hrn, fg) 1796
【弦楽四重奏曲】
6つの弦楽四重奏曲[No.1-6] op.18(F, G, D, c, A, B) 1798-1800 ; 3つの弦楽四重奏曲《ラズモフスキー》[No.7-9] op.59(F, e, C) 1806 ; No.10 Es《ハープ》 op.74 1809 ; No.11 f《セリオーソ》 op.95 1810-11 ; No.12 Es op.127 1824-25 ; No.13 B op.130 1825-26 ; No.14 cis op.131 1825-26 ; No.15 a op.132 1825 ; No.16 F op.135 1826 ; B《大フーガ》 op.133 1825-26
【ピアノ四重奏曲】
3つのピアノ四重奏曲 WoO 36(Es, D, C) 1785
【弦楽三重奏曲】
No.1 Es op.3 1794以前 ; 3つの弦楽三重奏曲[No.2-4] op.9(G, D, c) 1797-98 ; セレナーデ D op.8 1796-97
【ピアノ三重奏曲】
3つのピアノ三重奏曲[No.1-3] op.1(Es, G, c) 1794-95 ; No.4 B op.11(p, cl/vn, vc) 1797-98? ; 2つのピアノ三重奏曲[No.5,6] op.70(D《幽霊》, Es) 1808 ; No.7 B《大公》 op.97 1810-11 ; 創作主題による変奏曲 op.44 1804刊 ; ミュラー《私は仕立屋カカドゥ》による変奏曲 op.121a 1803?改訂16
【その他の三重奏曲】
C op.87(2ob, e-hrn) 1795? ; モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の〈お手をどうぞ〉による変奏曲 WoO 28(2ob, e-hrn) 1795? ; セレナーデ D op.25(fl, vn, va) 1801
【ヴァイオリン・ソナタ】
3つのヴァイオリン・ソナタ[No.1-3] op.12(D, A, Es) 1797-98 ; No.4 a op.23 1800 ; No.5 F《春》 op.24 1800-01 ; 3つのヴァイオリン・ソナタ[No.6-8] op.30(A, c, G) 1801-02 ; No.9 A《クロイツェル》 op.47 1802-03 ; No.10 G op.96 1812改訂14-15?
【二重奏曲】
モーツァルト《フィガロの結婚》の〈伯爵様が踊るなら〉による変奏曲 WoO 40(vn, p) 1792-93 ; チェロ・ソナタ : 2つのチェロ・ソナタ[No.1, 2] op.5(F, g) 1796, No.3 A op.69 1807-08, 2つのチェロ・ソナタ[No.4, 5] op.102(C, D) 1815 ; へンデル《ユダス・マカベウス》の〈見よ,勇者は帰る〉による変奏曲 WoO 45(vc, p) 1796 ; モーツァルト《魔笛》の〈恋人か女房か〉による変奏曲 op.66(vc, p) 1796? ; モーツァルト《魔笛》の〈恋を知る男たちは〉による変奏曲 WoO 46(vc, p) 1801 ; ホルン(またはチェロ)・ソナタ F op.17 1800 ; 6つの民謡主題と変奏曲 op.105(p, fl/vn) 1818-19 ; 10の民謡主題と変奏曲 op.107(p, fl/vn) 1818-19
【ピアノ連弾曲】
ヴァルトシュタイン伯爵の主題による8つの変奏曲 WoO 67 1792? ; ソナタ D op.6 1796-97 ; 3つの行進曲 op.45 1803 ; 大フーガ[弦楽四重奏 op.133の編曲] op.134 1826
【ピアノ・ソナタ】
3つのソナタ《選帝侯ソナタ》 WoO 47(Es, f, D) 1783? ; No.1 f op.2-1 1793-95 ; No.2 A op.2-2 1794-95 ; No.3 C op.2-3 1794-95 ; No.4 Es op.7 1796-97 ; No.5 c op.10-1 1795-97? ; No.6 F op.10-2 1796-97 ; No.7 D op.10-3 1797-98 ; No.8《悲愴》 c op.13 1797-98 ; No.9 E op.14-1 1798 ; No.10 G op.14-2 1799? ; No.11 B op.22 1800 ; No.12 As op.26 1800-01 ; No.13《幻想曲風》 Es op.27-1 1801 ; No.14《幻想曲風[月光]》 cis op.27-2 1801 ; No.15《田園》 D op.28 1801 ; No.16 G op.31-1 1802 ; No.17《テンペスト》 d op.31-2 1802 ; No.18 Es op.31-3 1802 ; No.19 g op.49-1 1797? ; No.20 G op.49-2 1795-96 ; No.21《ヴァルトシュタイン》 C op.53 1803-04 ; No.22 F op.54 1804 ; No.23《熱情》 f op.57 1804-05 ; No.24 Fis op.78 1809 ; No.25 G op.79 1809 ; No.26《告別,不在,再会》 op.81a Es 1809-10 ; No.27 e op.90 1814 ; No.28 A op.101 1816 ; No.29《ハンマークラヴィーア》 op.106 B 1817-18 ; No.30 E op.109 1820 ; No.31 As op.110 1821-22 ; No.32 c op.111 1821-22
【ピアノ変奏曲】
ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲 WoO 63 1782 ; リギーニのアリエッタ《愛よ来れ》による24の変奏曲 WoO 65 1790-91頃 ; ディッタースドルフのジングシュピール《赤ずきん》のアリエッタ〈昔々おじいさんが〉による13の変奏曲 WoO 66 1792 ; ハイベルのバレエ《妨げられた結婚》の〈ヴィガーノのメヌエット〉による12の変奏曲 WoO 68 1795 ; パイジエッロ《水車屋の娘》の〈田舎の愛ほど美しいものはない〉による9つの変奏曲 WoO 69 1795 ; パイジエッロ《水車屋の娘》の二重唱〈うつろな心〉による6つの変奏曲 WoO 70 1795 ; ヴラニツキーのバレエ《森の乙女》のロシア舞曲による12の変奏曲 WoO 71 1796-97 ; グレトリ《獅子心王リチャード》のロマンス〈燃える情熱〉による8つの変奏曲 WoO 72 1795? ; サリエーリ《ファルスタッフ》の二重唱〈まさにそのとおり〉による10の変奏曲 WoO 73 1799 ; ヴィンター《中止された奉献祭》の四重唱〈子よ,静かにおやすみ〉による7つの変奏曲 WoO 75 1799 ; ジュースマイヤー《ソリマン2世》の三重唱〈ふざけと戯れ〉による8つの変奏曲 WoO 76 1799 ; 創作主題による6つの変奏曲 G WoO 77 1800 ; 創作主題による6つの変奏曲 F op.34 1802 ; 創作主題による15の変奏曲とフーガ[エロイカ変奏曲] op.35 1802 ; 《神よ王を守らせたまえ》による7つの変奏曲 WoO 78 1802または03 ; 《ルール・ブリタニア》による5つの変奏曲 WoO 79 1803 ; 創作主題による32の変奏曲 c WoO 80 1806 ; 創作主題による6つの変奏曲[主題はのちに《アテネの廃墟》op.113の〈トルコ行進曲〉に使用] D op.76 1809 ; ディアベッリのワルツによる33の変奏曲 op.120 1819,23
【その他のピアノ曲】
12の長調全てによる2つの前奏曲 op.39 1789? ; ロンド・ア・カプリッチョ《なくした小銭への怒り》 G op.129 1795 ; ロンド : C op.51-1 1796-97頃, G op.51-2 1798頃 ; 7つのバガテル op.33 1801-02 ; アンダンテ《アンダンテ・ファヴォリ》 F WoO 57 1803 ; 前奏曲 f WoO 55 1803頃 ; 幻想曲 g/H op.77 1809 ; バガテル《エリーゼのために》 a WoO 59 1808または10 ; ポロネーズ C op.89 1814 ; 11のバガテル op.119 1820-22完成 ; 6つのバガテル op.126 1824 ; エコセーズ Es WoO 86 1825
【独唱・合唱と管弦楽の曲】
皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ WoO 87 1790 ; 皇帝レーオポルト2世の即位を祝うカンタータ WoO 88 1790 ; オラトリオ《オリーヴ山上のキリスト》 op.85 1803改訂04 ; ミサ曲 C op.86 1807 ; ピアノ,合唱と管弦楽のための幻想曲《合唱幻想曲》 c op.80 1808改訂09 ; カンタ-タ《栄光の瞬間》 op.136 1814 ; カンタータ《海の静けさと幸ある航海》 op.112 1814-15 ; ミサ・ソレムニス D op.123 1819-23
【合唱曲】
別れの歌 WoO 102(男声cho) 1814 ; 田園カンタータ《楽しい乾杯の歌》 WoO 103(cho, p) 1814 ; 僧侶たちの歌 WoO 104(男声cho) 1817 ; 結婚の歌《友らのために,婚姻の神をたたえん》 WoO 105 第1稿 C(T, 男声cho, p) 1819, 第2稿 A(男声独唱, cho, p) 1819? ; ロプコヴィツ侯のための誕生日カンタータ《われらの尊き殿万歳》 WoO 106(S, cho, p) 1823
【重唱曲】
四重唱曲《悲歌》 op.118(S, A, T, B, str-qt/p) 1814 ; 三重唱曲《不信心な者よ,おののけ》 op.116(S, T, B) 1802改訂14? ; 二重唱曲 :《人生の享楽》 op.82-5(S, T) 1809?, 《メルケンシュタイン》 op.100(S, A) 1814
【歌曲】
8つの歌 op.52(1.ウリアンの世界旅行 2.炎の色 3.憩いの歌 4.5月の歌 5.モリーの別れ 6.愛 7.マルモット 8.かわいらしい花) 1790-96以前? ; アデライーデ op.46 1794-95頃 ; 優しき愛[われ汝を愛す] WoO 123 1795頃 ; 新しき愛,新しき生命 WoO 127[op.75-2も同じ詩] 1798または99 ; 友情の喜び op.88 1803 ; ゲレルトの詩による6つの歌 op.48(1.祈り 2.隣人の愛 3.死について 4.自然における神の栄光 5.神の力と摂理 6.懺<ざん>悔<げ>の歌) 1801-02頃 ; ウズラの鳴き声 WoO 129 1803 ; 希望に寄す op.32 1804-05 ; この暗き墓場に WoO 133 1806-07 ; 憧れ WoO 134 1807-08 ; 6つの歌 op.75(1.ミニョン 2.新しき愛,新しき生命 3.蚤<のみ>の歌 4.グレーテルの戒め 5.はるかなる恋人に寄す 6.満ち足りた者) 1809 ; ゲーテの詩による3つの歌 op.83(1.憂いの喜び 2.憧れ 3.彩られたリボンで) 1810 ; 希望に寄す op.94 1813-15 ; 連作歌曲《はるかなる恋人に寄す》 op.98 1816 ; 約束を守る男 op.99 1816 ; 接吻 op.128 1822
【民謡編曲】
25のアイルランドの歌 WoO 152 1810-13 ; 20 のアイルランドの歌 WoO 153 1810-15 ; 26のウェールズの歌 WoO 155 1810-15 ; 7つのイギリスの歌 WoO 158b 1810-17 ; 25のスコットランドの歌 op.108 1810-18 ; 6つの各国の歌 WoO 158c 1810-20 ; 12のアイルランドの歌 WoO 154 1812-13 ; 12のスコットランドの歌 WoO 156 1815-19 ; 12の各国の歌 WoO 157 1815-20 ; 23の各国の歌 WoO 158a 1816-17Beethoven
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