読みもの
2023.11.18
ジャケット越しに聴こえる物語 第12話

地図の彼方に広がる新世界〜ヘンデルとタスマニア

配信だけではもったいない! 演奏が素晴らしいのはもちろん、思わず飾っておきたくなるジャケットアートをもつCDを、白沢達生さんが紹介する連載。12cm×12cmの小さなジャケットを丹念にみていると、音楽の物語が始まります。

白沢達生
白沢達生 翻訳家・音楽ライター

英文学専攻をへて青山学院大学大学院で西洋美術史を専攻(研究領域は「19世紀フランスにおける17世紀オランダ絵画の評価変遷」)。音楽雑誌編集をへて輸入販売に携わり、仏・...

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古い地図には独特の魅力があって、単純に年代物の版画として美しさを味わうこともできれば、制作当時にその実用性に助けられていた人々がどんな日々を送っていたのか、しばし想像の世界に遊ぶよすがにもなります。

そんな古地図がクラシック音楽のCDジャケットに使われる時には、何かしらその向こうに“物語”が垣間見えるもの。今回はそんな話です。

古地図に書かれている謎めいた地名は……オランダ語?

長い年月を経て風合ある色味に落ち着いた紙に、今なお鮮やかな線で記してあるスケール、海岸線、そして地名。美しい装飾体でひときわ大きく記されている部分は「Anthony Van Diemens Lan[dt]」と読めます。

聞き慣れない地名のようですが、どこなのでしょう? Vanとあるからにはオランダ語? そういえば、ほかに書き込まれている地名もところどころオランダ語風の綴りが見られます。

そこで左の文字に目をやると、演奏団体としてVan Diemen’s Bandの名が。

Van Diemens Landt

Van Diemen’s Band

ヘンデルの合奏協奏曲集を取り上げているこのアルバム、どうやらこのアンサンブル名と地図の記述に関係があるようですね。

遥かなるタスマニアから

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このアルバムの演奏団体ヴァン・ディーメンズ・バンドは、オーストラリアを拠点に世界的に活躍する古楽器奏者たちが結成したアンサンブル。

「古い時代の音楽は、作曲当時のモデルによる古楽器を当時の奏法で弾いてこそ、作曲家の真意に近づける」という古楽器演奏の考えは今や世界のクラシック・シーンに広く浸透しており、本格的な学びの場もいろいろな国にできつつありますが、このグループに属する演奏家たちはオーストラリア出身者が多く、オランダやフランスなど古楽器演奏の先進地で研鑽を積んだ後、ヨーロッパ各地のさまざまな一流古楽器アンサンブルに加わり活躍してきた名手が目立ちます。

アルバム解説のメンバー表によれば、そこに交じってフランスの鍵盤奏者アリーヌ・ジルベライシュとそのパートナーのマルタン・ジェステール(本盤の指揮者)、フィンランド出身の多忙なバロック・オーボエ奏者ヤス・モイシオらの名前も見えます。

団体名の由来は、17世紀オランダの東インド会社総督を務めたアントネイ・ファン・ディーメン(1593~1645)から。

世界の海をまたにかけ活躍したオランダの船乗りたちは、太平洋に通商ルートを開きながら、英国人たちが到達するよりもずっと早くオーストラリア大陸近辺まで船を向け、海岸線を探索していたのです。彼らは1606年にオランダ船から遠目に見えた大陸へ、その後四半世紀内に少しずつ足を踏み入れてゆきました。

さらに1642年にはアーベル・タスマンらの一行が大陸南東部にまで船を向け、タスマニア島やその周辺の島々の位置関係を克明に記録するまでに至りました。タスマンはこの時、自分が発見した大きな島に出資者ファン・ディーメンの名を冠して記録し、その地は2世紀後のヴィクトリア女王の時代、1856年に「タスマニア島」と改名されるまでファン・ディーメンス・ラント(英名ヴァン・ディーメンズ・ランド)として知られたのでした。

オランダの総督アントーン〔またはアントニオ〕・ファン・ディーメン(1593~1645)の肖像画(18世紀後半に作成され現在アムステルダム国立美術館が所蔵するこの模写だけが現存)
タスマニア発見前、1637年に描かれたアーベル・タスマンの肖像(キャンベラ、オーストラリア国立博物館所蔵)。牧歌的風景や船舶の絵で知られたアールベルト・カイプの父でもあるドルドレヒトの肖像画家ヤーコプ・ヘリッツゾーン・カイプが手掛けている
タスマニア島発見時の探検隊に加わっていた航海士フランス・ヤーコプスゾーン・フィスヘルによる島東岸の図(オランダ国立古文書館所蔵)。「ファン・ディーメンス・ラント」の名が記してある

オランダ絵画の黄金時代にあたるこの時期、新しい商売の種や未知の知識に対するオランダ人たちの情熱はなんと強烈だったのでしょう。

その後数世紀にわたりオーストラリア一帯に進出し拠点を築いてゆく英国人たちの嚆矢ウィリアム・ダンピアが初めてオーストリア大陸の地を踏んだのはそのずっと後、「英国のオルフェウス」ことヘンリー・パーセルが活躍をみせた1688年のことだったのです。

英国人として初めてオーストラリアの地を踏んだウィリアム・ダンピアの肖像(1697~98年頃、ロンドン、ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵)。ウィリアム3世やアン女王の肖像画も手がけたトーマス・マレイ(1663~1735)の作

ダンピアがいかにしてオーストラリアに辿り着いたかは、宝島社『このマンガがすごい!2023』でも話題になったトマトスープ氏の『ダンピアのおいしい冒険』(イースト・プレス刊)も参考になります。

歴史の荒波を越えて……

「次にタスマニア島へヨーロッパ人が来るのは1772年で、万一ヘンデルが同地に目を向けたとすれば地図にはヴァン・ディーメンズ・ランドと書いてあったはず」、このアルバムの解説はそう締めくくられています。オーストラリア大陸そのものも、クック船長(1728~1779)が1770年に船を向けるまでは事実上、ほぼ手付かずのままでした。

それは確かにヘンデルの歿後、ハイドンやボッケリーニ、サリエーリ、ピッチンニといった後続世代の作曲家たちが注目を集め始めるころのことですから、我らが『メサイア』の作曲家とヴァン・ディーメンズ・ランドは無縁といえばそうだったかもしれません。とはいえ、クック船長の重要な出資者だった第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー(1718~1792)は大の音楽愛好家で、とりわけ古い時代の作品に関心が高く、ヘンデルの大掛かりなオラトリオや舞台音楽を所領で上演させていた上、1784年にはヘンデル歿後25周年祭を成功させ、その後のヘンデル記念祭の流れを確立した人でもありました。

アルバムで演奏されている作品番号3の合奏協奏曲集は、当時も「オーボエ協奏曲」の名で親しまれていましたから、クックの船団の誰かが旅中の慰みに(合奏用の楽譜は無理でも、ヴァイオリン一つで弾けるアレンジなどの)楽譜を携行していた可能性は、あながち否定できません。ヘンデルの音楽は、当人の歿後もそのくらい英国人たちにとって馴染み深いものでした。

集団肖像画で名を馳せた英国の画家ジョン・ハミルトン・モーティマー(1740~1779)が1771年頃に描いたこの絵の中央に立っているのがクック船長。彫像の台座にゆったり凭れている人物が第4代サンドイッチ伯爵ジョン・モンタギュー
ロンドンのウェストミンスター・アビーで行なわれたヘンデル記念祭(1790年の時の様子)。エドワード・エドワーズ画(イェ―ル大学英国美術センター所蔵)

クック船長らの時代から少し経つと、オーストラリアやタスマニアはしばらく流刑地として利用され、負の歴史を重ねるところとなりました。

1832年には昔からタスマニアに住んでいた人々の大半がヨーロッパからの移住民と対立の末、フリンダーズ島という離島へ強制移住させられ、彼らが免疫を持たない病気で全滅、タスマニアに残った純血な先住民族の生存者も1876年にすべて亡くなってしまいます。

1856年にはオランダ時代から継承してきたヴァン・ディーメンズ・ランドの名が発見者タスマンにちなんでタスマニアと改められましたが、それはヴァン・ディーメンに由来する名に流刑地特有のさまざまな黒いイメージがつきまとっていたからとも言われています。

そんな18世紀末から19世紀に至る暗澹たる時代がタスマニアに訪れるのは、いずれにせよヘンデルが亡くなった後のこと。その間に横たわる太平洋と欧州人たちの歴史にも思いを馳せながら、ヴァン・ディーメンズ・バンドの面々と共に自発性豊かな演奏を紡ぎ出してゆくフランスの指揮者=古楽鍵盤奏者マルタン・ジェステールらの解釈にじっくり聴き入ってしまう1枚なのでした。

ヘンデル:6つの合奏協奏曲 作品3
今回のCD
ヘンデル:6つの合奏協奏曲 作品3

マルタン・ジェステール指揮 ヴァン・ディーメンス・バンド(古楽器使用)

BIS(スウェーデン)2021年5月発売

BIS-SA2079 ※日本語解説なし輸入盤のみ日本流通

白沢達生
白沢達生 翻訳家・音楽ライター

英文学専攻をへて青山学院大学大学院で西洋美術史を専攻(研究領域は「19世紀フランスにおける17世紀オランダ絵画の評価変遷」)。音楽雑誌編集をへて輸入販売に携わり、仏・...

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