カタストロフの裡に消えゆくショパン──フィリップ・フォレスト著『洪水』
かげはら史帆さんが「非音楽小説」を「音楽」から読み解く連載、第7回は現代フランスを代表する作家のひとり、フィリップ・フォレストの最新作『洪水』。主人公の名前も明かされず、とりとめない雰囲気の中に突如現れ、洪水とともに消えていくショパンの調べ。それらが意味するものとは?
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 – フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 – 名プロデューサ...
あたかもその音楽は、統一されたシームレスな世界を構成しており、内部では、様式や時代、作曲家、あるいはその作品のあいだに施された教科書的な線引きは消え去っているかのようだった。
フィリップ・フォレスト『洪水』澤田直、小黒昌文訳 河出書房新社、2020年(以下、すべて本書が引用元)
「それはまるで伝染病だった」
読み始めてまもなく、原著の出版年を探すために奥付を探した。
2016年。
驚くにはあたらない。フィクションが未来に起きる事件を言い当てるケースは世に山ほどあるからだ。アルベール・カミュの『ペスト』が版を重ねた2020年、わたしたちは伝染病をめぐる物語に対して、かつてない共感を寄せるようになった。次のような書き出しではじまるこの小説も、そうした予言的物語と同じ共感をもって読まれ得るだろう。
それはまるで伝染病だった。ところが、世界はそれにまるで気づかなかった。
ただひとつ、当作の特異な点がある。
それはこの小説の主人公が、自分が語る物語の予言的な性格をはっきりと自覚している点だ
極度に匿名化された告白
本作の主人公である“わたし”は、読者に向けてあきらかに何かを報告したがっている。自分が語る物語は、世界の秘密を知るために必要な「告白」なのだと“わたし”は冒頭で宣言する。
しかし、その一方で“わたし”は、自分や自分をとりまく世界について具体的な名前を出すのを強くためらう。
まず、自分の名前を明かさない。
この証言を本にするときには、偽名を用いるのがよさそうだ。
自分の住む場所については、こんなぼかし方をする。
わたしはすこし前から、ヨーロッパでもっとも古くもっとも大きい都市のひとつの、とある場末で暮らしていた。わたしはそこで生まれ育ち、長く暮らしたが、いまでは他の都市と似たり寄ったりになってしまったから、名前は明かさないでおこう。
読み進めていけば、その都市がパリであることは、おのずと明らかになる。主人公が住むアパルトマンの周辺の風景描写は、緻密すぎてかえって幻想的に感じられるほど丁寧に描きこまれている。“わたし”が男性であることや、幼い娘と母をあいついで亡くした経緯も、だんだんと明らかになる。
それにもかかわらず、表紙と装丁の印象もあいまってか、この小説のテキストが与える印象は「白い」。まっさらな日記帳を繰るような感覚をいつまでも与えつづける。
「わたしの例そのものが重要ではない」と“わたし”は言う。ありとあらゆる固有名詞が消え去り、極度に匿名化された世界が、そこには延々とひろがっている。
ふいに現れる鮮やかなショパンの調べ
そんなとりとめもない「告白」の渦中、ふいに世界が色を帯びる瞬間がやってくる。
そこから絶えず聞こえてくるピアノの音色は、いつも同じ楽曲を奏でていた。たいていは、ショパン、シューベルト、リストだった。
それはアパルトマンの中庭の小屋から聞こえてくる音色だった。“わたし”はふとした偶然から、その音の主である女性ピアニストと知り合い、小屋を訪ねるようになった。
とりわけショパンやシューベルト、リストはすぐに分かった。とはいえ、有名な作品ばかりだったわけではない。ラヴェルやドビュッシー、フランクもあった。
オーソドックスな小説のなかに出てきても、素通りしてしまう程度の描写だろう。しかし、これまで真っ白な靄のなかを手探りで歩んできた読者には、いきなり世界がモノクロからカラーになったかのような衝撃がある。ショパンのパッセージが、シューベルトのメロディが、現実の存在として鮮やかに現れる。
しかし、その一瞬の輝きもすぐに失われてしまう。ピアニストは同じ曲を弾き続けようとしない。さまざまな曲の一部分をメドレーのようにつなげて弾いていく。“わたし”はその演奏をとても気に入る。
あたかもその音楽は、統一されたシームレスな世界を構成しており、内部では、様式や時代、作曲家、あるいはその作品のあいだに施された教科書的な線引きは消え去っているかのようだった。たしかに移ろい行く楽曲の記憶を想起して楽しむことはまだできたものの、もはやどの楽曲もそれ自体としての価値を持たず、互いに混ざり合い、現れては消えてゆく。そのありようは、呼び出された亡霊が悲壮にも儚い人影となって、次第に薄れゆきながら消失するさまを思わせた
音楽から線引きを消すこと。特性を消すこと。ショパンを名もなき人影として消失させること。それはこの小説の特性そのものだ。そしてピアニストの彼女もまた、自分自身のプロフィールをほとんど語らない。“わたし”と夜ごとに会い、ベッドを共にする関係に至るにもかかわらず。
とき同じくして、“わたし”は、同じアパートメントに住むある男とも知り合う。彼らはともにウイスキーを飲みながら語らう仲になり、“わたし”は、この男もピアニストと恋愛関係にあるのではないかとひそかに疑いをかける。それにもかかわらず、主人公はその疑惑を追究しようとはしないし、男もなにも明かさない。
カタストロフから再生へ
事物やひとの固有性の排除。ありとあらゆる名前からの逃避。それは、物語内で起きるさまざまな出来事を、世界のどこかでいずれ起きるかもしれない予言として提示する役目を果たす。
小説の冒頭に登場する「伝染病」とは、世界の成り立ちに対して“わたし”が抱いている喩えである。“わたし”はこう言う。
ひとつの細胞が支障をきたし、それが分裂して過剰なまでに増殖することで、ついには生体のいたるところに害悪が広がってしまう
もっとも些細な原因がもっとも大きな結果を生む
物語の終盤、“わたし”の住む地域は洪水の甚大な被害に見舞われる。そのカタストロフもまた、世界の片隅で起きた小さな破綻や喪失が周辺に伝染し、巨大化した結果として生じたのではないか。そのように“わたし”は考える。洪水が起きる少し前、ピアニストと男性はふたりそろって姿を消してしまった。母は死んだ。娘も死んだ。ショパンの調べは儚い人影となって消えた。それらすべてが、直接的ではないにしても何らかの意味でこの洪水の予兆であり、また予言だったのではないだろうか……。
著者のフィリップ・フォレストは、愛娘の死をきっかけに小説を書きはじめ、一貫して消失をテーマとした物語を世に放ちつづけている。その作風はきわめて思索的で、ときとして厭世的な匂いも感じられる。しかし、この新作『洪水』から読み取れるのは、無常のむなしさばかりではない。そこには希望の気配もある。
洪水が去ってまもなく、“わたし”は、アパルトメントの郵便受けにある小説の一節を記した手紙が入っているのを発見する。“わたし”は、その一節の出典を知りたくなり、インターネットや図書館にアクセスして情報を探し求める。あたかも、失われた固有名をふたたび取り戻そうとするかのように。儚い人影となって消えたショパンをふたたび召喚するかのように。
なぜ“わたし”は探し求めるのか。カタストロフ後の世界を生きなければならないからだ。──たとえ2020年のような年に、まったく別の伝染病が世界に襲いかかり、愛するひとや事物を奪い去ったとしても。
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