黒髪のどこにでもいる少女が「マドンナ」になるまで
インターネットがなかった時代、自らの手で数々の大ヒットを生み出した元洋楽ディレクター、田中敏明さんによるエッセイ。
今回は1983年のデビュー以来「クイーン・オブ・ポップ」に君臨し、レコード売り上げ3億枚以上で「もっとも売れた音楽家」のひとり、マドンナを取りあげます。日本デビュー前夜、「どこにでもいる女の子」はスターダムを駆け上がります。
1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...
アメリカンドリームを掴んだ少女の日本進出計画
マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ、イタリア系の黒髪の少女。1958年8月16日、デトロイト郊外で生まれ、19歳だった1978年、ポケットにわずか35ドルを持って単身ニューヨークへ。バーガー・キングでウェイトレスをしながら、ダンスのレッスンを続け、遂にアメリカン・ドリームを手に入れます。
レコード会社の洋楽ディレクターとしての私の経験の中で、売り上げ枚数という意味ではもっとも成功したアーティストがマドンナでした。
名前からして、夏目漱石の「坊ちゃん」や、寅さんシリーズで日本でもお馴染みの存在であり、親しみやすさからも必ず日本でスーパースターになると信じて、当時は寝る時間も惜しんでプロモーションに熱中しました。
マドンナのデビュー・アルバムは1983年に『バーニング・アップ』(原題MADONNA)が発売されていて、ダンス・ミュージック・チャートから「ラッキー・スター」や「ホリデイ」といった曲がポップス・チャートにクロスオーヴァー・ヒットして、次のアルバムが勝負作となることは必然でした。
『ライク・ア・ヴァージン』で奇跡のプロモーション来日! 世界のポップスターへ
2ndアルバム『ライク・ア・ヴァージン』は1984年11月28日に日本発売され、オリコン・チャートで松任谷由実さんに次いで初登場2位に突如チャート・インし、快調に売り上げを伸ばしていきます。
今から思うと信じられないことなのですが、1985年1月、マドンナはマネージャーとたった2人だけでプロモーション来日をしています。アメリカ以外のプロモーションは日本が初めて。まだ成長過程にあった素顔のマドンナは “A Girl from Neighborhood(お隣の女の子/どこにでもいる雰囲気の意)”といった感じの、とても親しみのある女の子でした。
到着は1月19日の土曜日で、初日から慌ただしい嵐のような1週間が始まりました。
まず、宿泊先ホテルを変更。到着するやいなや、広過ぎて落ち着かないという理由から、別のホテルに移動することになりました。 そして、フライトの疲れも重なって、その日の深夜ブッキングしていたフジTVの「オールナイト・フジ」出演のキャンセルを申し出る始末。 「シンディ・ローパーも出演している番組だから」と当時のライバルの名前を出して説得を続け、ようやくプロモーション来日の初日唯一の取材を無事クリアすることができました。
翌日の日曜日はオフ日としていましたので、マドンナの希望で原宿へ。 アメリカでは、マドンナのファッションを真似する “ウォナビーズ(WannaBe’s)”という女の子が急増中で、社会現象になりつつありました。原宿でもさすがにファンに気づかれて、何人か女の子が後をつけ始めていました。
翌日の月曜日はもともと用意していたホテルでの記者会見がセッティングされていたので、マドンナを移動させています。 取材のブッキングは時間刻みでしたが、マドンナはしっかり応対してくれました。東京滞在中、「ライク・ア・ヴァージン」はマドンナ初の全米シングル・チャートNo.1となり、私から本人に伝えると、とても喜んでいたのを思い出します。
マドンナの帰国後、しばらくして、ワーナー・ブラザーズからインタビューが届き、嬉しいことにマドンナは「世界中で一番好きな国は日本、特に好きな場所は原宿」と語っていました。
翌1986年、3rdアルバム『トゥルー・ブルー』を発表。 「パパ・ドント・プリーチ」などが大ヒットして、前作の記録を更に更新します。
授賞式中継のためにNYへ!
1987年から始まった「日本ゴールド・ディスク大賞」でマドンナは洋楽の “グランプリ・アーティスト・オブ・ザ・イヤー”、“グランプリ・アルバム・オブ・ザ・イヤー”を独占。この第1回日本ゴールド・ディスク大賞の模様はTV放映がありませんでしたが、日本レコード協会の主催により3月に赤坂プリンス・ホテルで受賞セレモニーが行なわれました。
確か日曜日に授賞式を控えた木曜日の夜、当時の社長・山本徳源さんから「マドンナがいるニューヨークにトロフィーを持って行って、TV局のニューヨーク支局に頼んで授与の様子を会場にビデオ中継しましょう。土曜日からニューヨークへ行ってください」と突然言われました。寝耳に水の急な出張が決まり、マドンナ側の事前了解なしで、「行けばなんとかなる!」という社長のポジティブな鶴の一声で、ニューヨークへのフライトに乗ることになりました。もちろん、ワーナー・ブラザーズのインターナショナル部門にはサポートの依頼の連絡を入れて。
まさかの失敗......帰国
ニューヨークに着き、某TVの支局の方に挨拶をして、ホテルにチェックインすると、ワーナー・ブラザーズのインターナショナル部長から伝言が入っていて、折り返し電話をかけると、何とニューヨークにいるはずのマドンナがロサンゼルスに来ているといいます! 当時結婚していた俳優のショーン・ペンが、ハリウッドでの喧嘩騒動で逮捕されてしまい、マドンナが急にロスに飛んだということでした。
マドンナがしばらく滞在することを確認したうえで、翌日ニューヨーク支局の人とロスへ飛びました。
結局、中継時間までに彼女を説得することは不可能との電話が入り、トロフィーをワーナー・ブラザーズのオフィスに預け、私は一路空港へ。空港から東京の社長宅に電話をかけ、「申し訳ありません。マドンナの中継は失敗しました」と伝えました。すると「ワーナー・ブラザーズ側はLA支局の担当者の連絡先は知っていますね?」と念を押され、「はい」と答えました。その一言で社長がまだ諦めていないことを知ったのです。
帰りの便では渡米してから一睡もしていなかったので、フライト時間を死んだようにひたすら爆睡し、社長に報告のため成田から会社へ直行しました。
このときばかりは、自分が失敗して帰国するのに、もしも成功したらどうしよう? という不埒な気持ちが一瞬でもよぎらなかったかというと嘘になってしまいます。
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