ぎこちない動き、シューベルトとベケットで「生と死のはざま」を描くマギー・マラン『May B』
舞踊・演劇ライターの高橋彩子さんが、「音・音楽」から舞台作品を紹介する連載。今回取り上げるのは、2022年11月に埼玉と北九州で久しぶりの来日公演が実現するマギー・マラン・カンパニー『May B』。1981年の初演以来、世界中で繰り返し上演されてきた、ダンス史に輝く名作です。白塗りでぎこちなく動くダンサーたち、ベケットの言葉、シューベルトの音楽が織りなす、寂しくもあり、愛おしくもある世界観の秘密を読み解きます。
早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心に執筆。『The Japan Times』『E...
私たちがある種の人型ロボットや人形に心惹かれる理由の一つは、その拙い動きがいじらしく健気に見えるからではないだろうか。
フランス人振付家マギー・マランが、アイルランド出身でノーベル賞受賞の劇作家サミュエル・ベケットの世界観を取り入れながら独自に構築した『May B』(1981年発表)もまた、シューベルトほかの音楽の中でぎこちなく動くダンサーたちの姿が胸を打つ、不朽の名作だ。
ベケット的登場人物たちと私たち
『May B』はシューベルトの歌曲集《冬の旅》第24曲「辻楽師」から始まる。全身白い粘土を塗りたくり、白い衣装を着たダンサーたちが現れ、時に呻き声や息を吐く音をリズミカルに響かせながら、ギクシャクした動きで歩き回る。そのたび、彼らの身体からは白い粉が飛び散る。
シューベルト:歌曲集《冬の旅》〜第24曲「辻楽師」
そんな彼らがある瞬間に声を合わせて発する言葉は、「Fini, c’est fini, ça va finir, ça va peut-être finir.」。ベケットの戯曲『勝負の終わり』のセリフだが、直訳すると「終わり、終わりだ、もうすぐ終わる、きっと終わる」といった感じ。これを冒頭に言うのが面白い。
ベケットの引用はこれだけにとどまらない。まずはバンシュのカーニバルの音楽、次にシューベルトの交響曲第4番《悲劇的》第1楽章に合わせ、悲喜こもごもの姿を集団で見せていたダンサーたちは、シューベルトの歌曲「死と乙女」が流れると感極まったような姿を見せたあと、散り散りになり、内省的な様子になる。やがて日常的な衣服を身につけた人物らが登場するのだが、そのうちの1組、荷物をいくつも持ちながら、首に縄をかけられて歩く男と彼を馬のように操る盲目の男は、ベケットに親しんだ人なら、『ゴドーを待ちながら』のラッキーとポッツォだとピンとくるだろう。
他の人物たちも、例えば車椅子に乗った男とそれを押す男は『勝負の終わり』のハムとクロヴ、杖をついた直立不動の盲人とその腕を取る女は『すべて倒れんとする者』のルーニー夫妻だといった具合に、ベケットが描いた盲目の登場人物に符合する。
シューベルト:交響曲第4番《悲劇的》第1楽章、歌曲「死と乙女」
ほどなく無数のろうそくが立てられたケーキで、人々は杖をつく男を祝った後、各々ケーキを手にし、あるいは奪い合う。喧しく一斉に喋り、そして黙る人々。高まりゆくシューベルトの弦楽四重奏曲《死と乙女》……。
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調《死と乙女》〜第2楽章
勿論、ベケットの芝居を読むか観るかしていなければ、この作品が分からないということはないのだが、不条理劇の巨匠であるベケットの作品では、この世界に対して無力で孤独でどこか滑稽な人物たちが、遠くから俯瞰するように描き出され、彼らは私たちそのものだと感じさせる。同じような感情を『May B』の観客も舞台上の人々に対して抱くことだろう。彼らと同じく、私たちもまた、何も見えていないのかもしれない、と。
生と死のはざまで
全身に塗った白い粘土がぼろぼろに崩れ、死人のように見えるダンサーたち。しかし彼らは、ある瞬間には萎れて悲しげであると思えば、またある瞬間には極めて生き生きとして楽しげでもある。悲痛なうめき声から歓喜の声までさまざまな声を上げたり、股間を触わるなど性的衝動を表したりといったその姿は生を謳歌しているかにも見え、静謐な死者のイメージからは、およそかけ離れている。
舞台後半、ギャビン・ブライアーズの「イエスの血は決して私を見捨てたことはない」が流れる中、旅支度の人々が、行列を作ってたどたどしく、僅かな歩幅で少しずつ前進する。急ぐ人あり、置いていかれる人あり。それはどこにでもある駅の情景にも、人生そのものにも見える。次々に舞台下へと“乗り込んで”いく彼らはどこに行くのだろう?
イギリスの作曲家・コントラバス奏者ギャビン・ブライアーズ「イエスの血は決して私を見捨てたことはない」
誰もいなくなった空間で、一人の男が最初の「Fini, c’est fini, ça va finir, ça va peut-être finir.」を口にすると、シューベルトの《白鳥の歌》第13曲「影法師」が流れ、舞台は終わる。この時のセリフは、最初とはまったく違って響くだろう。ちなみにヨーロッパでは、死に際に白鳥が歌うという言い伝えがある。
シューベルト:《白鳥の歌》〜第13曲「影法師」
思えば人間とは例外なく、人生の終わりに向かって絶えず老いていく生き物だ。つまり私たちは生きながら、少しずつ死んでいる。だからこそ、不完全な身体と動きで懸命に生き、あるいは死ぬ舞台上の彼らに、観客はなんとも言えない寂寥感と愛着を覚え、魅了されずにはいられないのだ。
マギー・マランがこの『May B』を作ったのは、30歳そこそこの時期。かなり若いが、老いを感じ始める年齢でもある。その若さと成熟が、この作品の独特のエネルギーの理由かもしれない。彼女の出世作であり代表作ともなり、何度も来日公演が行なわれている本作だが、世界が不穏な空気に満ち、幾多の生が脅かされている今、来週の来日公演はこれまでとはまた違う強さをもって、私たちに迫ってくるかもしれない。
フランス・トゥールーズ出身のダンサー、振付家。
©Michel Cavalca
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