読みもの
2019.10.31
音楽ファンのためのミュージカル教室 第5回

オペラ《蝶々夫人》がもとになったミュージカル『ミス・サイゴン』とその音楽

オペラとミュージカルの近しい関係に迫る連載「音楽ファンのためのミュージカル教室」。
第5回は『ミス・サイゴン』。世界中でヒットし、日本でも帝国劇場で2020年に上演予定のこの作品について、もとになったオペラ《蝶々夫人》との違い、ストーリーや音楽、作曲家クロード=ミシェル・シェーンベルグについて、山田治生さんがナビゲート!

ナビゲーター
山田治生
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山田治生 音楽評論家

1964年京都市生まれ。1987年、慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から音楽に関する執筆活動を行う。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人 -ある日本人指揮者の...

写真:帝国劇場2016年公演『ミス・サイゴン』より。提供:東宝

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息子を残して自決する《蝶々夫人》

10月4日に東京二期会のオペラ《蝶々夫人》を観た。宮本亞門の演出は、ピンカートンが生涯でもっとも愛していた女性は蝶々さんであったとして、死の床のピンカートンが成人した息子に産みの母親のことを告げるところから始まった。

そして、その青年(黙役)は、父と母との出会いを見つめ、自分が実母にどんなに愛されていたかを知る。宮本は、蝶々さんを現地妻としてピンカートンに買われたという従来の設定ではなく、このオペラを愛の物語として描こうとしていた。

オペラ《蝶々夫人》の一番のわかりにくさは、愛する幼い息子を残して、どうして自決しなければならないかということに違いない。宮本はこの演出で彼なりの答えを示していた。

『ミス・サイゴン』のサイゴン陥落後の結末

ミュージカル『ミス・サイゴン』は、《蝶々夫人》のストーリーをベトナム戦争時に置き換えて作られたものだ。

あらためて『ミス・サイゴン』を聴いて、このミュージカルのクリエイターたちの最大の苦心は、ヒロインのいささか唐突な自殺を、より自然な流れに乗せることにあったのではないかと思った。そして、彼らがそれに成功したから、現在に至るまで、『ミス・サイゴン』は世界中でヒットし続けているのであろう。

主人公(キムとクリス)の出会いが、娼婦とその客という状況ではあったが、二人は本当に愛し合い、かりそめの結婚式をあげる。そして、クリスは、自分がベトナムを離れるときはキムもアメリカに連れて行くと約束するが、サイゴンは陥落し、二人は引き裂かれる。

 

凄絶を極める、アメリカ大使館前でアメリカ兵を救出するヘリコプターのシーン。この混乱のなか、キムとクリスは引き裂かれる。帝国劇場2016年公演『ミス・サイゴン』より。写真提供:東宝

3年後、ホー・チ・ミンと名を変えたサイゴンにいられなくなったキムは、知り合いである通称エンジニア(《蝶々夫人》でのゴロー的存在)という男性の手を借りて、息子のタムとともにベトナムを出て、バンコクに行くことにする。

ここでキムが歌う「命をあげよう」は、このミュージカルのなかでもっとも知られたナンバーであり、最大の聴きどころといえる。そして、小さな息子タムのためなら自分の命を捧げてもいいというこの歌は、最後のキムの自害への伏線となる。

クリスとの間に生まれた息子タムを抱きながら歌うキム。帝国劇場2016年公演『ミス・サイゴン』より。写真提供:東宝

キム「命をあげよう」

クリスがアメリカ人妻エレンとともバンコクを訪れ、エレンとキムが顔を合わせるという設定は、《蝶々夫人》と似ているが、『ミス・サイゴン』では、息子に、この貧民街から抜け出し、アメリカ人として豊かに暮らしてほしいと願う親心から、キムのほうからエレンに息子タムをアメリカに連れて帰ってほしいと申し出る。しかし、エレンはそれを拒否し、クリスもエレンとの生活を選ぶ。最終的に、自分が命を絶てば、タムはクリスの息子としてアメリカに渡れるに違いないと思ったキムは、ピストルで自殺を図り、クリスの腕の中で息絶える。

作曲者のクロード=ミシェル・シェーンベルグは、『ミス・サイゴン』には救済があるという。

もし三つの作品(引用注:「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「マルタン・ゲール)に共通する点がひとつあるなら、たぶん、救済じゃないかな。ヴァルジャンの死と贖罪には一種の救済がある。同じくキムも自分の子供が父親と新しい生活ができるように自らの命を絶つので、救済のようなものがある。彼女は息子の人生の障害となる自分の存在を消そうとしているんだ。アルノーの死にも一種の救済がある。いつも死による救済なんだ。

——『『レ・ミゼラブル』をつくった男たち』(マーガレット・ヴァ―メット著/高城綾子訳/三元社 2012年)より引用

たしかに、《蝶々夫人》の結末には救いがないが、『ミス・サイゴン』のラストには、母親が望んだ息子のアメリカ行きが実現するであろうという希望がある。

オペラのように展開される音楽

『ミス・サイゴン』の音楽は、ワーグナーやプッチーニのオペラのように、セリフとメロディが一体となり、切れ目なく演奏される。

キムとクリスの愛の二重唱は、サイゴンでの結婚の夜に歌われる「世界が終わる夜のように」。ここでは、出会いの夜にキャバレーで演奏されていたサクソフォーンのメロディが再現される。

キムとクリスの二重唱「世界が終わる夜のように」

「今も信じているわ」は、ベトナムのキムと、アメリカのエレンが、それぞれに空間を越えて、クリスへの思いを歌う。この歌は、キムとクリスとのアメリカ大使館の前での別れのシーンにも出てくる。

キム、エレン「今も信じているわ」

作品終盤でエンジニアが歌う長大なナンバー「アメリカン・ドリーム」では、アメリカの豊かさやサクセス・ストーリーへの憧れなど、作品の背景となった1970年代の精神が端的に表現される。キムは息子をアメリカ人にさせたいと思い、ベトナム人とフランス人の混血であるエンジニアはアメリカ人になりたがった。

『ミス・サイゴン』は、アメリカの経済が圧倒的に優位な時代の物語であった。

キムとクリスが出会うことになったキャバレーを経営する、フランス系ベトナム人のエンジニア。帝国劇場2016年公演『ミス・サイゴン』より。写真提供:東宝

エンジニア「アメリカン・ドリーム」

クロード=ミシェル・シェーンベルグの音楽

作曲者のクロード=ミシェル・シェーンベルグは、その名前から、新ウィーン楽派の作曲家、アルノルト・シェーンベルクを想起してしまうが、実際は、ウクライナに共通の親戚がいるくらいのつながりで、直接の関わりはない。

クロード=ミシェルは、1944年、ハンガリーから来たユダヤ系の両親の間に、フランスのブルターニュ地方、ヴァンヌで生まれた。ゆえに、ドイツ語的に「シェーンベルク」と書くよりは、フランス語的に「シェンベール」かあるいは「シェーンベルグ」と書くほうが適当であろう。

クロード=ミシェルの父親は、ピアノの調律師だった。6歳のときにパリで両親に連れて行かれて《カルメン》や《蝶々夫人》を観たという。その後、デパートのBGMで《ローエングリン》第1幕への前奏曲を聴いて心を奪われた。しかし、クラシックの道には進まず、ロックバンドでピアノを弾き、曲を作るようになる。

そして、パリに移り、後にタッグを組む脚本家・作詞家のアラン・ブーブリルと出会う。シェーンベルグも、ブーブリルも、『ウエスト・サイド・ストーリー』に強く影響を受けた。シェーンベルグとブーブリルの最初のコラボレーションは、1973年の『フランス革命』。その頃、フランスにはミュージカルの伝統がなかったが、そのフランス最初のロック・オペラは成功した。そして、それは1980年のフランス語版『レ・ミゼラブル』につながる。

フランスでの『レ・ミゼラブル』のヒットが、イギリス人プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュの目にとまり、1985年にロンドンで開幕された英語版は世界的な成功を収めることになる。『レ・ミゼラブル』は、1987年にはブロードウェイで開幕し、トニー賞のベスト・ミュージカル賞を受賞

『レ・ミゼラブル』

そして、マッキントッシュ、ブーブリル、シェーンベルグのトリオは、1989年に『ミス・サイゴン』を生み出す。『ミス・サイゴン』も大ヒットし、現在も世界中で上演されている。

日本では、1992年に帝国劇場で初演されて以来再演を重ね、来年5、6月にも帝国劇場で上演される。

帝国劇場『ミス・サイゴン』(2016年版)

2020年5月23日(土)〜6月28日(日)のキャスト紹介

しかし、『レ・ミゼラブル』と『ミス・サイゴン』で、ミュージカル界の寵児となったブーブリルとシェーンベルグは、1996年に、16世紀フランスの農村で起きた事件を素材とした、一層オペラ的な『マルタン・ゲール』を発表したものの、『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』ほどのヒットを収めることができなかった。

その後、2007年に、アメリカの製作者と組んで、16世紀アイルランドの海賊女王グレース・オマリーを主人公とした『パイレート・クィーン』をブロードウェイで上演したが、これも2か月で打ち切られてしまう。

2008年には、シェーンベルグはブーブリルとともに台本にまわり、ミシェル・ルグランが作曲を手掛けて、デュマの原作小説『椿姫』を第二次世界大戦中ドイツ占領下のパリに翻案した『マルグリット』が作られる。日本語版は2009年と2011年に赤坂ACTシアターなどで上演された。

また、シェーンベルグは、イギリスのノーザン・バレエで、『嵐が丘』(2002)、『クレオパトラ』(2011)などのバレエ音楽も手掛けている。

公演情報
芸国劇場 ミュージカル『ミス・サイゴン』

日時: 2020年5月23日(土)~6月28日(日)

料金: S 席 14,000円/A席 9,500円/B席 5,000円(税込/全席指定)

会場: 帝国劇場(東京都千代田区丸の内三丁目1番1号)

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山田治生
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山田治生 音楽評論家

1964年京都市生まれ。1987年、慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から音楽に関する執筆活動を行う。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人 -ある日本人指揮者の...

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