ワーグナー《パルジファル》〜間違ったアラビア語が名作の主人公に
ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...
リヒャルト・ワーグナー最後の楽劇(舞台神聖祝典劇)《パルジファル Parsifal》は、聖槍で受けた重傷で苦しみ続ける王を、純粋で愚かな若者パルジファルが救う物語だ。
ワーグナーが直接元にしたとされるのは、13世紀ドイツの叙事詩《パルツィファル Parzival》だが、この物語はいろいろな国で語られたので、イギリスではパースィヴァル Perceval、フランスではペルスヴァル Perceval というように、名前の表記もいろいろある。ところが、ワーグナーの採用した Parsifal というのはどこにもない。
主人公の名前をパルツィファルからパルジファルに変えたのはワーグナーだ。この名前の意味については、楽劇の第2幕で語られる。パルジファルが、この楽劇のもうひとりの主人公とも言える女性クンドリに呼びかけられ、自分の名前を知る(思い出す)という非常に重要な場面だ。「ぼくを呼んだかい?」と問いかけるパルジファルに、クンドリはこう語る。
呼んだよ、愚かで純粋な人。「ファル・パルジ」、あんたをね、純粋な愚か者、パルジファル。あんたの父親ガムレットがアラビアで死んだとき、息子をそう呼んだように。母親のお腹の中にいた息子を、死にぎわにそう名付けたの。
楽劇《パルジファル》〜第2幕7場 30秒あたりからこの歌詞が現れる。
「パルジファルの名は、Parsi または Parseh Fal、すなわち、純粋な愚か者を意味するアラビア語に由来している」というのは、ワーグナーが考えだしたものではない。歴史家のヨハン・ヨーゼフ・ゲレス(1776-1848)という人が、1813年に『ローヘングリン』の校訂本を出したときに、その序文の中で唱えた説(といっても、「パルジファルという英雄の名が、純粋な、あるいはあわれな愚か者というアラビア語から自然に導きうるのは単なる偶然なのかはわからない」みたいな、ちょっと逃げ道を残した唱え方だが)だ。ワーグナーはこれを取り入れて、パルツィファルをパルジファルに変更し、第2幕のあの場面を書いた。
ところで、フランスの詩人でジュディット・ゴーチエ(1845-1917)という女性がいる。彼女はワーグナーと親しく、短い間だが恋人だったこともある。彼女は東洋の文化や言語に大変詳しく、たとえばマーラーが《大地の歌》で付曲したハンス・ベートゲ(1876-1946)の訳詩集『中国の笛』には、ゴーチエの訳からの重訳がだいぶある。
ワーグナーは、「パルジファルという名前はアラビア語です」と、もしかするとちょっと得意げに彼女に書き送った。ところが、東洋に詳しいゴーチエは、ゲレスの説は根拠のないものだということをワーグナーに書き送る。
興味深いのはここからだ。ワーグナーは、パルツィファルからパルジファルへの変更を撤回するどころか、「このアラビア語が実際に何を意味していようとどうでもいいのです」と開き直る。そして《パルジファル》は現在の形で残った。
ゲレスの根拠のない思いつきは、こうしてワーグナーによって不朽の生命を与えられた。学問的な正しさと芸術的価値とはまったく別物だから、そういうこともあっていいし、珍しくもないだろう。しかし、ワーグナーが、間違いを間違いと知りながら、あえてそのことを無視したというのが面白い。これは、いかにも自信家のワーグナーらしいエピソードのように思うのだがどうだろうか。
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