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2023.08.28
音メシ!作曲家の食卓#8

サリエーリがシューベルトと一緒に味わった ウィーン屋台のレモンアイスクリーム

歴史料理研究家の遠藤雅司さんが、作曲家をその食卓からクローズアップ。毎回、実際に再現したレシピもご紹介します。人間の根源的な欲求=食のエピソードからは、大作曲家の人間くさい一面が見られるかも!?

遠藤雅司(音食紀行)
遠藤雅司(音食紀行)

歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...

イラストー駿高泰子

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甘いものに目がなかったサリエーリ

「音楽の父」J.S.バッハが亡くなってから3週間後の1750年8月18日、アントニオ・サリエーリはヴェネツィア共和国のレニャーゴに生まれました。レニャーゴはヴェネツィアから南西におよそ84キロメートルにある街です。

アントニオ少年は音楽を愛し、砂糖が大好きな少年でした。甘いものに目がない逸話は幼少期から壮年期までいくつもあります。

愛ある両親に育てられた幸福な時間は束の間で、アントニオ少年が13歳となった1763年に母親を亡くし、父親も蒸発してしまいます(その後の調べで、父は1764年に故郷アンジャーリで没したとされています)。

両親を失ったサリエーリは、亡き父の知人であった貴族ジョヴァンニ・モチェニーゴに引き取られ、1766年初頭にヴェネツィアへ向かいます。そしてその地に滞在していたウィーンの宮廷作曲家で、オペラに秀でたフローリアン・レーオポルト・ガスマンに出会います。

フローリアン・レーオポルト・ガスマン(1729-74):ウィーンで活躍したボヘミアの作曲家。イタリアで学び、1772年ウィーンで宮廷楽長に就任。そのかたわら、71年に音楽家の互助組織としてウィーン音楽芸術家協会を設立した

ガスマンから「私はこれからきみに音楽教育を授けることを神に誓ってきたよ。君が成功をおさめるかどうかは、きみ次第だ。私はただ義務を果たすまでだ」と告げられたサリエーリは、これに応えるように着実にオペラ作曲家への道を歩んでいきます。

宮廷楽長サリエーリがシューベルトに申し出た個人レッスン

その後30年余り現役オペラ作曲家として不動の名声を確立したサリエーリは、後年オペラ作曲からは引退し、晩年は教育者として後進の指導にあたる比重が大きくなっていきました。

 

アントニオ・サリエーリ(1750~1825):ウィーンで活躍したイタリアの作曲家。ガスマンに見いだされ,ウィーンで教育を受ける。グルックの庇護を受け、1788年宮廷楽長に就任。終生ウィーン音楽界に君臨し,多くの弟子を指導。「音楽趣味が私の時代とは異なる」との理由で、1804年以降は劇作品の作曲を行なわなかったが、モーツァルトを毒殺したとする説には根拠がない

ベートーヴェンをはじめとする重要な作曲家たちが、サリエーリの下で作曲を学びました。主な人物だけでも、ヨーゼフ・ヴァイグル、ヨハン・ネーポムク・フンメル、イグナーツ・モシェレス、ジーモン・ゼヒター、ジャコモ・マイヤベーア、アンゼルム・ヒュッテンブレンナー、フランツ・シューベルト、フランツ・リストなどをあげることができます。弟子たちとの逸話には事欠きませんが、心温まるエピソードを持つシューベルトに登場してもらいましょう。

1808年5月28日、『ウィーン新聞』に、帝室宮廷礼拝堂の少年合唱団の2名の欠員があるという広告が出されました。シューベルトの父はそれをしっかりと見つけ、当時11歳で学校の成績もよく、歌もうまい息子のフランツなら必ずや合格するだろうと考え、この募集に申し込みます。入学試験を受けたフランツ少年は、寮学校首脳陣の面前で与えられた試験課題曲を的確に歌い、その結果、10月14日に合格通知を受け取りました。この時の試験官の一人がサリエーリでした。

サリエーリはこの試験の所見で「ソプラノではフランツ・シューベルトとフランツ・ミュルナーがいちばん良い」という評価を下しています。シューベルトは、シュタットコンヴィクト(ウィーン寄宿学校)の寄宿生となり、そこで中等教育を受けることになりました。

 

若きシューベルト(ヨーゼフ・アーベル画)

当時、10人の宮廷少年合唱団員の音楽指導を行なっていたサリエーリは、シューベルトの書いた数曲の小品を見てとるや、その才能にいち早く気づきます。そして、サリエーリは異例の要請をコンヴィクト側に行ないました。それは、寮の外出禁止規則を特例で免除してもらうもので、シューベルトは週に2度のサリエーリの自宅レッスンを受けられるようになったのです。

こうして最初の個人レッスンを行なったとき、サリエーリは61歳と10か月を数え、15歳のシューベルトとはおよそ47歳違いでした。そんな親と子以上に離れた年齢差がありましたが、シューベルトの「宮廷第一楽長」への尊敬の念はとても強く、音楽という共通言語で結ばれていたのでした。

師弟で味わった思い出のアイスクリーム

そんなサリエーリとシューベルトの食のエピソードを、シューベルトの友人で作曲家のヒュッテンブレンナーが語っています。

時々、サリエーリ先生は生徒であるシューベルトにアイスクリームをごちそうしました。アイスはグラーベン通りにあるレモネードの簡易型屋外販売店(キオスク)で買っていました。先生は、シューベルトのことを思いやっていました。

アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(1794-1868):作曲家。同じサリエーリ門下で、シューベルトと親しい間柄だった

両親を亡くしたサリエーリは、さまざまな運命の導きによって、ウィーンの宮廷楽長にまで登りつめた人物です。本人の才能と努力によるところもありましたが、それを周囲の人物たちにすくい上げてもらい、成功までたどり着けたことを、サリエーリは身をもって理解していました。

それゆえ、若く才能に恵まれた音楽家の卵に出会ったら、無償で個人指導を買って出て、自分が若い時に恩師のガスマンやグルックから施された音楽教育を、惜しげもなく弟子たちに注いでいきました。

後年の数々のリートにおける歌声の活かし方はもちろん、室内楽曲や《未完成》《ザ・グレイト》に代表される交響曲、ミサ曲などで多くのパートを処理するシューベルトの作曲手腕は、こうしたサリエーリの指導があったからこそ花開き得たものだったのです。

熱心な音楽レッスンの後は、弟子にとっても先生にとっても楽しいひと時。特例で外出を許されたシューベルトだけに与えられた、秘密のご褒美だったのかもしれません。

サリエーリは、自宅でのレッスンが終わると、シューベルトの下宿先まで散歩がてら見送りにいったことでしょう。家の通りを北上すると、目抜き通りであるグラーベンにぶつかります。レモネードやアイスクリームを販売するキオスクで、先生はアイスクリームを買って若き門弟に渡しました。

サリエーリとシューベルトが歩いたと思われるルート(1812年頃の地図にもとづく)
1838年に描かれたグラーベンの絵画。このような風景の中で、サリエーリとシューベルトはアイスクリームを味わっていたのでしょうか

甘いものに目がないサリエーリのこと。シューベルトにアイスクリームをごちそうするとともに、自分の分も一緒に買って、礼拝堂の片隅などでこっそりと二人で食べていたのではないでしょうか。

なお、グラーベンのレモネードのキオスクは、当時のウィーンの夏の風物詩でもありました。当時の価格で、レモネードが1杯7クロイツァー(約1,000円)、アイスが1カップ12~39クロイツァー(約1,700~5,600円)したそうなので、シューベルトにとってはちょっとした贅沢だったと言えそうです。

アイスクリームは17世紀から存在していた

アイスクリームの誕生は、17世紀に遡ります。イギリスで1680年代に出版された『グランヴィル伯爵夫人のレシピ集』に「クリームを砂糖で甘くして、オレンジ花の水を流し込む」という王室のレシピが載っています。こちらが世界で初めてアイスクリームの作り方を収録した料理書と言われています。

続いて、18世紀に入ると、チョコレートやレモンなど他のフレーバーのアイスクリームが誕生します。イギリスのアン女王の菓子職人だったメアリ・イールズは、1733年の著作『メアリ・イールズ夫人のレシピ集』に、ソフトクリームやチョコレート・アイスクリームなどたくさんの「甘い喜び」(レシピ)を収録しました。今回は、メアリ・イールズのアイスクリームの作り方を紹介します。

錫(すず)製の容器に、プレーン、加糖、果物入りなどお好みのクリームを入れて容器を密閉します。容器6個に対し、18~20ポンド(約8~9キログラム)の氷を用意し、細かく砕きます。

 

大きな桶を用意し、その底と上に置く用に大きめの氷も用意します。容器の底に麦わらを敷き、氷を入れ、1ポンド(453グラム)の天日塩を加えたら、クリームの入った容器をすべてその中に入れます。

 

容器同士がくっつかないように、氷と塩で容器をつつみます。容器の上に氷をたっぷり載せて、桶を麦わらで覆います。日光や明かりの入らない地下室に置いて、4時間経ったら凍ったクリームのできあがり。必要な時に地下室から取り出します。

 

サクランボ、ラズベリー、カラント(スグリ)、イチゴなどの果物を凍らせたい場合は、果物を錫の容器に、間隔を少し開けて入れます。泉の水と甘く味付けしたレモネードを入れ、凍ったクリーム(アイスクリーム)のときのように、果物の容器を氷の桶に入れます。

 

 

18世紀の中頃に、アイスクリームはヨーロッパ全土に広がり、コーヒーハウスや屋台で売られるようになりました。こうして、ウィーンのグラーベン通りにあるキオスクでもアイスクリームは販売されるようになったのです。

思い出のアイスクリームはレモン味?

19世紀ウィーンのアイスクリームが収録されている料理書を探したら、1827年に刊行された『最新・総合ウィーン料理大全』にありましたので紹介します。

656.アイスクリーム

フルーツの果汁に砂糖を必要なだけ混ぜる、クリームを加え(クリームは中くらいの濃さでなければならない)、冷凍箱で冷やす。

 

 

シンプルなレシピです。また、1820年代はまだ冷凍庫が存在せず、ウィーンでは冷凍箱という錫でできた金属容器を使って、アイスなどの食材を冷やしていました。およそ100年前のメアリ・イールズ夫人の時代のイギリスと同様ですね。

シューベルトはアイスをレモネードのキオスクで買ってもらったのですから、やはりフルーツの果汁はレモンでいきましょう。レモン果汁、砂糖、そして中くらいの濃さという指定があるので、脂肪分50%程度の生クリームを混ぜ合わせていきます。

そして、冷凍箱よりも大きな容器を用意し、氷と水、塩を加えて温度を下げ、冷凍箱に混ぜ合わせたアイスクリームを入れて、冷やしていきます。このような実験をする時間がなければ、現代技術の結晶こと冷凍庫で冷やして味わいましょう。

シューベルトの初期作品、たとえばピアノとヴァイオリンのためのソナチネや初期の弦楽四重奏曲、第6番以前の交響曲などは、このように甘いものを好んだサリエーリの指導を受けて生み出されていったのでした。

【音メシ!サリエーリとシューベルトの食卓】19世紀ウィーン風レモンアイスクリーム グラーベン仕立て

 

【材料】(4人分)

生クリーム 400mℓ

レモン 1個

砂糖 50g

ミント 1枝

 

【作り方】

1.ボウルに砂糖と半分に切って絞ったレモンの果汁を入れて、泡だて器で混ぜ合わせる。

2.鍋に生クリームを入れて、弱火にかける。

3.3分ほどしたら、2.1.のボウルに少しずつ入れて混ぜ合わせていく。

4.3. を金属製の容器に移して、冷凍庫で2時間ほど冷やし固める。

5.4.を1度取り出し、スプーンで全体をかきまぜてなめらかな食感を作る。

6.  器に盛って、飾り用のミントを添えて完成。

 

Point

18世紀のレシピには牛乳の記載がなかったが、現代の手作りアイスクリームのように 牛乳と生クリームを半々にして作っても構わない。

一次史料のレシピに指定があるので、乳脂肪分が50%に近い生クリームを使用する。

一次史料に従って、飾り用のミントはなくても構わない。

文明の利器、冷凍庫を使わないで作る場合は、クーラーボックスを用意し、そこに麦わらを敷き詰め、その上に氷に塩を加えた氷袋を載せ、アイス容器を入れたら、また氷袋で挟みクーラーボックスの蓋を閉める。日光の入らない暗室に置いて、数時間待って完成。

遠藤雅司(音食紀行)
遠藤雅司(音食紀行)

歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...

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