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2024.11.06
特集「第九 2024」おやすみベートーヴェン再編集版

交響曲第9番ニ短調《合唱付き》〜作曲当時の様子、創作から初演までの流れ

生誕250年の2020年、ベートーヴェン研究の第一人者である平野昭さん監修のもと、1日1曲ベートーヴェン作品を作曲年順に毎日紹介した日めくり企画「おやすみベートーヴェン」。連載の中で、4日間にわたって掲載した「第九」回を、初演200周年の2024年に再編集してお届けます。作曲することになったきっかけ、作曲の経緯、初演の様子までをご紹介します。

監修:平野昭
イラスト:本間ちひろ

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交響曲第9番ニ短調《合唱付き》

「第九」作曲の直前、1820年頃に描かれたベートーヴェン。手にしている楽譜は、のちに第九の初演とともにウィーン初演される「ミサ・ソレムニス」

始まりは愛弟子リースの依頼から

完成から遡ること5年前の1818年に、ベートーヴェンは「ニ短調の交響曲」(「第九」の原型)のスケッチに着手しています。それは、ロンドンのフィルハーモニー協会の依頼による「2曲の新しい交響曲」ためのものだと思われますが、この時は結局、実現はしませんでした。

そして4年後の1822年。ロンドンからふたたび手紙が届きます。

ロンドン側はベートーヴェンの新作交響曲を諦めていたわけではなかったのである。11月のロンドン側からの依頼は「新しい交響曲1曲に50ポンド」という条件であったが、ベートーヴェンは12月10日付で了承の返事を送っている。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)179ページより

この依頼をしたのは同郷の愛弟子で、ロンドンのフィルハーモニー 協会にいたフェルディナント・リースでした。

最初の交響曲の依頼を受けた1816年のやりとりの中で、ベートーヴェンはリースに「作品を献呈してくれたら、私もお返しする」旨の手紙を送り、リースは自作2作品を献呈していました。

フェルディナント・リース(1784~1838)
ベートーヴェンと同郷、ボン出身の作曲家

ベートーヴェンは結局5年越しで、「第8番」以来10年ぶりの交響曲創作に打ち込むことになります。作曲中の1823年時点では、この交響曲を「きみに献呈することになるだろう」とリースに手紙を送っています。

ちなみに、リースが1823年に出版した幻想曲のテーマであるシラーの詩「あきらめ」は、1786年刊行のシラーの自主雑誌『ターリア』第2巻に掲載されています。この雑誌には第九の歌詞になる「歓喜に寄す」も掲載されていました。

リース作曲:シラーの詩「あきらめ」による幻想曲

作曲の依頼、お返し、同じ雑誌から取られた2つの詩……。最後の交響曲の創作には、愛弟子リースが大いに関わっていたようです。

参考文献:かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社/2020年)

音楽家たちとの交流、オペラへの関心、難聴の進行

ベートーヴェンは1822年に作曲の依頼を受け、1823年には本腰を入れて作曲を進めていました。この時期に、2人の音楽家がベートーヴェンを訪ねています。

4月上旬の「筆談帳」への書き込みに「私は13日の日曜日に演奏会を開きますので、是非ともご来席いただけますようにお願いいたします」とある。この訪問者はシンドラーに案内されてやってきたリスト父子であり、11歳半のフランツ・リスト(1811〜86)の書き込みである。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)180ページより

ベートーヴェンの弟子チェルニーにピアノを、師匠のサリエーリに作曲を師事していた若きリストと、ベートーヴェンはどのような会話をしたのでしょうか。リストは後年、ボンのベートーヴェン像建設の際に奔走していますから、これはきっと忘れられない思い出だったのではないでしょうか。

リスト編曲によるピアノ独奏版「第九」

1826年に描かれた14〜15歳のフランツ・リスト

半年後、「第九」の第3楽章を書き終え、終楽章に着手していた10月頃、保養先のバーデンにカール・マリア・フォン・ウェーバーがやってきました。ウェーバーはベルリンで初演したオペラ《魔弾の射手》の成功で、押しも押されもせぬ人気作曲家となり、オペラ《オイリュアンテ》のウィーン初演のために滞在していました。

1825年頃に描かれたカール・マリア・フォン・ウェーバー

この時のことをウェーバーは妻に宛てた手紙で「私は感動的な愛情をもって迎えられた。少なくとも6回か7回もの心からの抱擁を受けた……午後もなかなか愉快で満足すべき時を過ごし……食卓では私を貴婦人のように接待してくれた。この偉大な天才から愛情あふれる処遇を受けて、私は感極まり、精神は高揚せずにはいられなかった」と述べている。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)181ページより

このときのもっぱらの話題は「オペラ」だったそうです。前年には《魔弾の射手》ウィーン初演が大成功していたウェーバーに大きな関心をもっていたベートーヴェン。実はオペラ作曲を目論んでおり、台本の選定にも入っていたようです。

しかし、バーデンからウィーンに戻ったベートーヴェンが、《オイリュアンテ》の上演に姿を現すことはありませんでした。

バーデンの帰りが遅れたというより、おそらくこのころは補聴器や「筆談帳」を使うほどまで聴力が衰えていて、言葉が意味をもつオペラを鑑賞しようとする意欲はさすがに湧いてこなかったのではないだろうか。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)181ページより

ウィーンでのロッシーニ旋風、波乱の初演準備

作曲も大詰めに差し掛かると、「筆談帳」には初演の日程や、会場、出演者の話題もあがるようになります。初演に参加した2人の女性歌手もたびたび訪れて、ベートーヴェンも「(彼女たちは)どうしても私の手にキスさせてほしいとせがむんだ。本当に彼女たちは可愛くて、私は彼女たちに、手より口にキスしてもらった方がもっと素晴らしいんだけど、ね、と言ったんだ」と上機嫌。

しかし、ウィーンにはベートーヴェンの新作交響曲が“ウィーン以外で”初演されるのでは、と噂されていました。その噂の証拠は残っていませんが、ベートーヴェンがウィーンの音楽界に辟易としていたのは事実のようです。その理由のひとつは、イタリアからやってきたジョアキーノ・ロッシーニの人気でした。

1822年にバルバイアが仕掛けた「ロッシーニ・フェスティバル」以来、ウィーンの劇場はどこも競ってロッシーニのオペラを上演し聴衆確保に躍起になっていた。事実このロッシーニ旋風のためにフランツ・シューベルト(1797~1828)のいくつかのオペラ上演が反故にされたし、ベートーヴェンの《フィデリオ》の上演機会なども奪われていたのである。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)184ページより

1822年、ケルントナートーア劇場のロッシーニ・フェスティバルで初演された歌劇《ゼルミーラ》

1820年頃に描かれたロッシーニ

結局、ウィーンの名士30名の署名付き嘆願書まで用意された請願活動によって、「第九」のウィーン初演が決定されました。アン・デア・ウィーン劇場はベートーヴェンが望んだ演奏者を受け入れず、要望を呑んだケルントナートーア劇場が初演場所に選ばれました。

歌手問題も波乱の展開。テノール歌手は2回変わり、初演に参加したハイツィンガーは練習不足で本番に臨みました。バス歌手のプライジンガーは、初演3日前に急遽出演辞退。ベートーヴェンの信頼をもって交代したザイペルトは、アン・デア・ウィーン劇場の専属であったので、興行主パルフィー伯爵からの妨害に遭うも、伯爵からの仕打ちを示す手紙を公開すると脅迫して、なんとか出演に漕ぎ着けました。

当初、1824年4月27日に予定されていた初演は、日程調整や楽譜の準備で5月7日まで延期。ベートーヴェンは皇帝一家の臨席を望んでいましたが、初演の2日前に保養のためウィーンを離れていたため、かないませんでした。

熱狂的なアンコールで警察まで出動した「第九」初演

合唱を含む大作のため、声楽とオーケストラの合同練習など、通常の数倍の入念なリハーサルが行なわれ、遅れに遅れた初演。当日の会場はどんな様子だったのでしょうか。プログラムとともに見てみましょう。

春と初夏の花が一斉に開花するウィーンの5月はまさに「麗しの5月」である。7日夕刻7時、満席のケルントナートーア劇場に《献堂式》序曲が鳴り響いて演奏会が始まった。《ミサ・ソレムニス》からの3つの大賛歌(〈キリエ〉〈クレド〉〈アニュス・デイ〉)が劇場空間を敬虔な空気で満たした。そして「第九」。第2楽章の後にも会場から拍手が沸き起こった。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)187ページより

現代ではあまり歓迎されない、楽章間の拍手。当時は普通のことだったようです。そして、有名な「歓喜の歌」を含む終楽章の演奏が終わると……

終楽章の演奏が終わっても指揮者ウムラウフの脇に立ってスコアに見入っていたベートーヴェンの背後では、満場の客席から熱狂的な喝采と拍手が沸き起こっていた。アルトのウンガー嬢に促されて客席に向き直ったベートーヴェンに対して喝采は一段と大きくなった。聴衆の多くが「ヴィヴァート!(万歳!)」と声を掛け、ステージ上にベートーヴェンを4回も呼び出し、さらにもう一度アンコールの拍手が響き出したとき警察官が「静粛に!」と叫び、アンコールを中止させた。当時の習慣では皇帝を迎え入れる歓呼でさえも3回までであった。

——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)187ページより

まさに大勝利といったところ。不朽の名作、誕生の瞬間でした。

しかし、この演奏会の収益は劇場使用料や、出演者のギャラ、楽譜制作費などを差し引くと微々たるものだったようです。半月後、初演の候補会場だったアン・デア・ウィーン劇場での再演は、行楽日和の日曜日の午後にあたり、客入りは半分にも満たず。さらに、爵位を期待して「第九」を献呈したプロイセン王からの返礼は偽ダイヤ……(ベートーヴェンとプロイセン王の偽ダイヤ事件)。

今なお愛される名作は、少なくとも収入的には、ベートーヴェンを満足させてくれなかったようです。

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