読みもの
2020.10.28
日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.21

コロナ禍で考える音楽の未来——岡田暁生著『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』

日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキスト、小川敦生さんが美術と音楽を結びつける連載、今回は番外編。岡田暁生著『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』(中公新書刊)を読み、コロナ禍だからこそ実現した演奏会を聴いたラクガキストが、生音の不思議と音楽の未来を考えます。

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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楽譜に書かれている音符だけが音楽ではない

R.シュトラウスのオペラ《バラの騎士》の研究などで知られる音楽学者の岡田暁生さんの近著『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』(中公新書刊)を、音楽の世界に未曾有の危機をもたらしているコロナ禍が、歴史が育んできた音楽の実像をあらわにしたことを教えてくれる好著と受け止めながら読んだ。

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特にはっとさせられたのは、作曲家が楽譜に記した音だけで音楽が成り立っているわけではないと気づかせてくれたことだ。コロナ禍の下では、生演奏の場での演奏ができなくなり、必然的にネットを利用した新しい形のアンサンブルなどのさまざまな試みが生まれた。それらが興味深い成果を生む一方で、憂慮すべきことがあらわになった。

そもそもCDなどでも再現できる周波数帯域が限られていることが従来から指摘されていたが、コロナ禍によって生演奏の場が消滅することにより、本来聞こえるはずの音を聞く機会自体がなくなってしまったというのである。

岡田さんは同書で、「生の音楽における背後のかすかなお客たちの気配やざわめきが、いかに音楽を生き生きと映えさせるための舞台背景であったか、改めて実感した。(中略)客の咳や身動きの気配こそが、実は音楽に生命を吹き込んでいたのだ」と語り、さらには「作曲家は楽譜に書いてある音だけを聴いているのではない」「ドの音を書き込むとき、彼らはドの音が発生させるさまざまな唸りや倍音をも聴いているに違いあるまい」と指摘している。

「密」から生まれた音楽......この先は?

同書には今年4〜5月、すなわち「緊急事態宣言」が発令され、著しく危機感の高かった時期に主だった部分が執筆された内容ゆえ、その後状況が変わっているかもしれないとの断り書きがある。そして実際、秋になってライヴの演奏会はずいぶん増えてきた。筆者にも演奏会に出かける機会ができ、印象の強かった同書の叙述を会場で思い出しつつ音の波間に身を置いた。そうすると、客たちが動かす空気のざわめき、そして作曲家が楽譜を書く際に本当に思い描いていたであろう豊かな倍音がリアルに耳に入ってきたのである。

ベートーヴェンの第九交響曲が「3密」を前提に成り立つ音楽であることを岡田さんが指摘したのは、音楽史を深く研究する学者ゆえの慧眼だろう。コンサートホールという密閉空間の中に多くの聴衆を集め、ステージの上は出演者でせめぎ合っている。しかも、大きな声を発する大人数の合唱団を必要とする。その後生まれたマーラーの交響曲題2番「復活」などの大合唱付きの交響曲も、ベートーヴェンが生んだ第九の形式のうえに成り立っているとする。コロナ禍は、ベートーヴェンに挑戦状をたたきつけたわけだ。

今の日本では、小規模な編成の演奏から再開が始まった中で、年末恒例の第九の演奏会も計画されてはいるが、時期が来るまで予断を許さないというのが業界の正直な見方だろう。一方で岡田さんは、「場の更新」すなわち、そのときの状況によって演奏できる場が新しい音楽のスタイルを作り出すことを予測している。転んでもただでは起きない。むしろ、音楽は進化する側面を持っているというわけだ。

コロナ禍が生んだ難曲の演奏機会

同書を読んだ後、筆者が出かけた演奏会の中で、コロナ禍が実現に寄与したともいえる例に出会ったので記しておこう。10月17日に東京のHakuju Hallで開かれた弦楽八重奏の演奏会「Hakuju New Style Live ~心が喜ぶ演結び 新しい出会いの形へ~Ensemble Amoibe」である。

「Hakuju New Style Live ~心が喜ぶ演結び 新しい出会いの形へ~Ensemble Amoibe」(2020年10月17日にHakuju Hall)公演風景。出演者が、筆者が理事を務めている音楽支援団体Muisc Dialogueのアーティストばかりになったのは、呼びかけに応じて集まった結果だったという。

石上真由子/伊東真奈/谷本華子/土岐祐奈(ヴァイオリン)
大山平一郎/中恵菜(ヴィオラ)
加藤文枝/金子鈴太郎(チェロ)

Ensemble Amoibeは、ヴァイオリニストの石上真由子さんが企画する公演のシリーズ名。石上さんは、演奏機会の少ないジョルジュ・エネスコの弦楽八重奏曲に大きな思い入れを持ち、演奏の機会を前々からうかがっていたのだが、プロにとっても通常以上のリハーサル回数を必要とする難曲だったため、なかなか実現にはいたらなかったという。

ジョルジュ・エネスコ「八重奏曲」

コロナ禍は、演奏家たちに時間を作った。そして石上さんがTwitterで呼びかけた結果、チェリストの金子鈴太郎さんらが呼応したばかりかHakuju Hallの主催もつく展開になり、十分なリハーサルの機会を確保した演奏会が実現したというのである。実力派の演奏家たちの普段の忙しさは半端ではなく、室内楽のリハーサルために集まるのは深夜になるといった例も聞いていた。

普段の演奏家たちは、リハーサルのスケジュールまでが「密」だったのだ。実際の演奏は情熱的でかつ精緻を極め、何よりも演奏者と聴衆の生きた喜びに、そして豊かな倍音に満ちていたことを付しておきたい。

Gyoemon作《ドの音はどの音?》
広大な宇宙では重力はなくなり時空がゆがむため、ドの音がどの音であるかがわからなくなる。しかし、遥か彼方には確固たる音があるのである。…というようなことをこの記事を書くことで夢想し、絵にしてしまった。Gyoemonは筆者の雅号
小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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