『ジュリアス・シーザー』をシューマンの作曲メモから読み解く〜真の「勝者」は誰か?
文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第15回は、『ジュリアス・シーザー』。タイトルになっているにもかかわらず、シーザーは3シーンしか登場しない本作。実は主人公は裏切り者の代名詞ブルータスで、テーマは「永遠の敗北」なのです! しっかりと主題を見抜いたシューマンとポインター、二人の芸術作品から読み解きます。
上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...
戯曲『ジュリアス・シーザー』の主役はブルータス!?
「ブルータス、お前もか?」
これは親しい人間から裏切られた場合の常套句。古典教育が蔑ろにされがちな今の日本でどこまで通用するかは疑問だし、一生使わずに済むならそれに越したことはないけれど、古の昔から、裏切りにあったらとにかくこう言うことになっている。少なくとも、16世紀のシェイクスピアが悲劇『ジュリアス・シーザー』で用いて以来、「Et tu, Brute?」という言い回しはヨーロッパではあまねく知られ、「ブルータス、お前もか?」は謀反や寝返り、とりわけ腹心の部下の背信行為を示す表現として日本でも定着してずいぶん久しい。
とはいえ、元がラテン語であることからも自明のように、この言葉のそもそもの由来がシェイクスピアにあるわけではない。それは16世紀のイギリスより遥か彼方の古代ローマに、そしてかの有名なジュリアス・シーザー(ラテン語読みだとユリウス・カエサル)の暗殺にある。
共和政ローマ最大の軍事的英雄であり、ついには終身独裁官という、王や皇帝を戴くことのない共和政体においてこれ以上望むべくもない最高の地位にまで上りつめたシーザー。そんな位人臣を極めた彼が、ローマの元老院議場内で刺殺されたのは紀元前44年3月15日のこと。共和政体維持のためには、帝王然としてひとり強大になり過ぎたシーザーは邪魔かつ危険——そう判断した不満分子たちによる仕業だった。
柱廊の陰から不意に躍り出すいくつもの見慣れた人影。翻る衣の内から次々と現れては思うざま振りかざされる無数の刃。史実としてのシーザー暗殺の決定的瞬間を表現しているヴィンチェンツォ・カムッチーニの《ジュリアス・シーザーの死》や、シェイクスピアの叙述に基づいているウィリアム・ホームズ・サリヴァンの《ジュリアス・シーザー第3幕第1場・暗殺》など後世の絵画のように、おそらくは束になってかかってくる暗殺者たちを前に逃げることも避けることもできず、諦める間もないままに、シーザーは権力の絶頂で死んでいかねばならなかった。その刹那、あろうことか一味のなかに腹心の部下ブルータスの姿を認めたシーザーが、お前もか? と彼への失望を口にしたというのは事実かどうか定かでない。要は、昔からさまざまに言い伝えられてきたまことしやかな伝説のひとつである。
ただし、シーザー暗殺にまつわるそうした諸々の伝説を基に生み出されたのがシェイクスピアの「Et tu, Brute?」という決定的なフレーズであり、その名も『ジュリアス・シーザー』という戯曲であること、これは事実。そして作中、肝心のシーザーの出番が驚くほど少ないことも、残念ながらこれまた事実だ。
題名こそ『ジュリアス・シーザー』となっているが、シェイクスピアがこの作品で伝えようとしているものは、決してシーザー暗殺の如何ではない。むしろそれをしでかしたブルータスの側の諸々の葛藤と失敗、その結果ついには反逆者となってしまった彼の「永遠の敗北」なのである。
原作をじっくり読み込まないと主題もわからない本作をシューマンはいかに解読したか
実際、主役でないからこそシーザーは全5幕のうちの第3幕第1場で早くも殺され、退場のはこびとなってしまうわけだが、それにしても題と中身のこの齟齬はあんまりである。名前がそのままタイトルになっていて、半ば格言と化した有名なセリフまである以上、シーザーは傍目には主役と思われても仕方がないのに、途中退場に加えて全部数えてもたった3シーン(第1幕第2場と第2幕第2場、そして殺害される第3幕第1場)しか出番がないというのは、果たしていかがなものか。
翻ればそれゆえに、本作の鑑賞や批評および翻案は一切ごまかしがきかない。数多のシェイクスピア作品のなかでも、『ジュリアス・シーザー』は知ったかぶり御法度。又聞き程度では作品の主題はもちろん、諸々の勘所も永遠にわからず、とにかく原作をきちんと読みこんでおく必要がある。ある意味、それを身をもって音楽で証明してくれているに等しいのが、19世紀ドイツ・ロマン派の作曲家ロベルト・シューマンであり、彼の作った《ジュリアス・シーザー序曲》だろう。
シューマン《ジュリアス・シーザー序曲》
シーザー、ローマの生活。ブルータス、陰謀。カルパーニア。アイズ。死。フィリッピ。オクテイヴィアスの復讐。ブルータスへの勝利……。
シューマンは《ジュリアス・シーザー序曲》の譜面の下に、こんな断片的なメモを書き残している。一見したところ意味不明の単語の羅列とも映るが、さにあらず。これはシェイクスピアの原作のキーワードを、プロットに沿って列挙したものにほかならない。それも細大漏らさず完璧に。
シューマンの挙げたキーワードのなかで、本邦では比較的馴染みが薄く、意味がわかりづらいのは、おそらく「カルパーニア」、「アイズ」、「フィリッピ」の3つだろう。それでも固有名詞であるカルパーニアとフィリッピに関しては、それぞれシーザーの妻であり、暗殺者ブルータスが敗走し自殺に追い込まれた戦争(=フィリッピの戦い)のことであると瞬時に気づく歴史マニアは多いはず。
問題は「アイズ」だが、これも言葉を補って「アイズ・オブ・マーチ(Ides of March)」、と正しく表記すれば、話はまた別。
Beware the ides of March.
3月15日に気をつけなさい。
シェイクスピア愛読者のなかには、『ジュリアス・シーザー』第1幕第2場に出てくる占い師のこのセリフを直ちに思いだせる人が一定数いるにちがいない。あるいは、古代ローマにおいて3月の真ん中を意味したラテン語「イードゥース・マルティアエ(Idus Martiae)」と読み換えてしまえば、古くはプルタークが『対比列伝(英雄伝)』に書き残したシーザー暗殺の3月15日のあの予言のことか! と、膝を叩く人の数はさらに増えるかもしれない。
かつてプルタークが伝え、その内容に基づきシェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』第1幕第2場に設けたのは、ある予言者が3月15日にシーザーの身に危害が及ぶと警告したのに、本人がそれを意に介さず受け流したというエピソード。この不吉な予言はシーザーの3度きりの出番のうちの2番目、第2幕第2場で再び頭をもたげ、予言に動揺する妻カルパーニアが、今日だけは家から一歩も出てはならない、元老院に行ってはいけないと、夫シーザーにしきりに懇願する場面が出てくる。対してシーザーは「全能の神々が定めし終焉ならばどうして避けられよう? 行かねばならぬ」と落ち着き払って応えるのだが、真実迫る「終焉」を知る由もなく、権力の頂点で己を信じて疑わないその姿こそ、逆に深々とした哀れを誘い、事の悲劇性を募らせるというものだ。
「カルパーニア。アイズ。死」と続けられている先のシューマンのメモのくだりは、正にこの部分を指しているのであり、第2幕第2場のただならぬ劇的効果を端的に指摘したものである。
シューマンの音楽とポインターの絵画が描いたのは暗殺されたはずのシーザーの勝利!?
同じ場面に着目して絵画化しているのは、19世紀末イギリス美術界の大御所であったエドワード・ジョン・ポインターだが、シューマンとポインターが表現しているものは、音楽と絵画という違いはあっても驚くほど似通っている。いや、ことジュリアス・シーザーに関しては、創作する人間としてふたりが目指していたものは、ほとんど同じだったと言ってもいい。
それは陰鬱で壮大なる悲劇性。まずシューマンの交響曲は、全体として重みのあることで知られているが、正確には譜面タイトルに「大管弦楽のための」という但し書きがついている《ジュリアス・シーザー序曲》も決して例外ではない。ただでさえ重苦しいへ短調で、冒頭で登場するリズムパターンがいつまでもしつこく繰り返されるのだから。
とはいえ、取りつかれたかのように反復される厳めしいモティーフは、シューマン本人のメモのとおり、「シーザー」の生きていた古代ローマ世界を確かに髣髴とさせる。同音符・同音程への異常なまでの固執によって否応なく増幅してゆく陰鬱な響きも、「陰謀」と「死」を予感させてやまない。やがて現れる勇ましい旋律が、シーザーの若き後継者「オクテイヴィアスの復讐」と「ブルータスへの勝利」を表現しているのは、もはや言わずもがな。
そして、決してシューマンのメモを見たわけではないだろうに、まるで見たかのように同じく陰鬱で壮大な悲劇的風景を表現しているのが、先に紹介したポインターの絵《アイズ・オブ・マーチ》なのである。
画面に描かれているのは、シェイクスピアの原作でいえば、第2幕第2場の舞台となっているシーザーの館。シューマンのメモでいえばまさに「ローマの生活」で、磨き抜かれた大理石の床と柱が印象的な豪壮な館の中で、シーザーと妻カルパーニアがこちらに背を向け佇んでいる。
夫を見上げるカルパーニアは、灰色の雲と空を切って流れゆく彗星を指さしているが、これは同場面の「物乞いが死んだとて彗星は現れず、王侯の死を告げるために天はみずから炎を放つ」という彼女のセリフを踏まえたもの。確かな凶兆を見逃すまいと、夫に身振り手振りで訴えるいじらしい姿は、やはりシューマンの「カルパーニア。アイズ。死」というメモ書きに沿って描かれたものかと見まごうばかりだ。
そんな彼女の横顔が、薄暗い室内でくっきり浮かび上がっているのは、画面左の胸像を下から照らし出しているランプのせい。懐中電灯で下から顔を照らした経験があればわかるように、下方からの部分的かつ指向性ある照明は、人や物の陰影を軒並み不気味な方向へ変化させる。ポインターの絵でも、胸像の背後の壁には化け物めいた巨大な影が伸びている。そして胸像のまなざしの先にあるシーザーの横顔は、妻とは対照的に影に隠れてまるで見えない。
アイズ・オブ・マーチ……3月15日に気をつけろという予言は、シューマンの調べのように暗く重たい影となり、それを顧みることのなかった奢れる権力者を絵の中で今まさに覆い尽くそうとしている。事実、このあとシーザーを待ち受けるのは「ブルータス、お前もか?」という失意と絶望、そして「死」だ。
だが、その非業の死によりシーザーの名は歴史に刻まれ、ポインターの絵の上部、2本の柱の間にうやうやしく飾られた豪華なケルトの盾のように、2000年の時が過ぎた今も燦然と輝いている。一方、大義ゆえにシーザーに死を与えたはずのブルータスは、暗殺者の消えることなき永遠の汚名に甘んじている。
シューマンのメモの最後にあるとおり、これが「ブルータスへの勝利」でなくて何だろう?
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly