友情と恋愛どちらをとる!? 『ヴェローナの二紳士』に描かれる恋心とシューベルトの歌曲「シルヴィアに」
文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第7回は、『ヴェローナの二紳士』に描かれる男性2人の恋と友情の葛藤に注目! 軽やかな歌曲にしたシューベルトと、構図で物語の結末を表したハントをとりあげます。
上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...
テーマは親友と恋人を同時に裏切る横恋慕!
恋と友情、どちらを選ぶか。
これは巷でよく聞く恋愛相談の最たるもので、いざ当事者となると、かなり辛いものがあるのも事実。友だち同士で恋のライバルとして競い合えるならまだいいが、問題は自分ひとりが友人の彼や彼女に勝手にのぼせあがり、まるきり相手にされない場合。悔しさと恥ずかしさで、それこそ目も当てられなくなる。
だから横恋慕は御法度。うまくいったところで気の休まる暇はないし、遅かれ早かれ修羅場は必至。下手に空振りすれば、誰より自分が惨めになるだけ。しようと思ってするものではなく、やめておけと思ってもやめられないのが恋ではあるけれど、友人知人の連れ合いだけは、初めから手を出さないでおくに越したことはない……。読むたび観るたび、つくづくそう思わせるのが、シェイクスピアの『ヴェローナの二紳士』という作品である。
タイトルの通り、主人公はイタリア北部ヴェローナ出身で、ミラノへ遊学にやってきた友人同士の二人の若者、ヴァレンタインとプローテュース。目下熱愛中のジューリアという恋人を故郷に残してきたプローテュースとは異なり、当地でミラノ大公の娘シルヴィアと初めての真剣な恋に落ちたヴァレンタインは、別の男と結婚させられそうになっている彼女との駆け落ちを決意。そしてその計画を、ただひとりの味方と信じる友プローテュースに打ち明けた。
だが、実はプローテュースもシルヴィアに一目惚れしていて、二人の仲を引き裂くべく大公に計画を漏らし、ヴァレンタインをミラノから追放させてしまう。つまるところ、彼はヴェローナに残してきた恋人ジューリアも、何をするにも一緒だった親友ヴァレンタインも、ふたり同時に裏切ったのだ。ミラノに来たとたん、雷に打たれたように恋してしまったシルヴィアを手に入れたいがために。
友情に勝る恋心を歌う“セレナーデ”
「俺はヴァレンタインを裏切った……友への不実を彼女も詰(なじ)るだろう」。第4幕第2場の冒頭でこう述べている以上、恋と友情どちらを選ぶかという逡巡が、プローテュースにまるでなかったわけではない。
けれどそれ以上に、シルヴィアへの思いの丈が勝ってしまった。先のセリフのあとにプローテュースが窓辺で歌う十四行詩(ソネット)の体裁をした劇中歌、特に最後の4行を聞くと、それがよくわかる。原文だと、完璧な押韻の印象が際立つ。
That Silvia is excelling;
She excels each mortal thing
Upon the dull earth dwelling.
To her let us Garlands bring.
シルヴィアは素晴らしい。
おめおめと この退屈な地上に
生き続けている どんな人より素晴らしい。
さあ 花冠を彼女に。
シルヴィアはこの世の「どんな人より素晴らしい」というプローテュースの歌は、まごうことなきセレナーデ。夜の窓辺で恋しい人を想い、その素晴らしさを讃えて奏でられるセレナーデは、古くは紀元前にまでさかのぼる由緒正しき恋の音楽のありようだ。
プローテュースのセレナーデをシューベルトが軽やかな歌曲に
だからだろうか。16世紀以来、この劇中歌は少なからぬ音楽家たちにインスピレーションを与えてきた。そのひとりが「歌曲の王」フランツ・シューベルト(1797~1828)にほかならない。
シューベルトが『ヴェローナの二紳士』に着想して作曲した「シルヴィアに」は、正確には、先のプローテュースの歌のドイツ語訳にあとからメロディを付けたもの。だからシェイクスピアのオリジナルの劇中歌とは、歌自体の構成や具体的なフレーズがやや異なる。けれどそれこそは、ドイツ語歌曲としての自律性の証。
まず、シューベルトの「シルヴィアに」の作詞家エデュアルト・フォン・バウエンフェルトルトは、もはや本家本元のシェイクスピアのお株を奪いかねない勢いで、訳詞に一行おきの完璧な押韻を施している。くわえて伴奏のピアノは、いかにもシューベルトらしい、変に小難しくない牧歌調。詩も曲も、とことん耳に快く軽やかに作られているから、シューベルトの歌曲の中でもよく知られたもののひとつとなり、さかんに歌われてきたのだろう。
Was ist Silvia, saget an,
daß sie die weite Flur preist?
Schön und zart seh ich sie nahn;
auf Himmelsgunst und Spur weist,
daß ihr alles untertan.
Ist sie Schön und gut dazu?
Reiz labt wie milde Kindheit;
ihrem Aug eilt Amor zu,
dort heilt er seine Blindheit,
und verweilt in Süßer Ruh’.
Darum Silvia tön, o Sang,
der holden Silvia Ehren;
jeden Reiz besiegt sie lang,
den Erde kann gewähren:
Kränze ihr und saitenklang!
ただ悲しいかな、今一度シェイクスピアの原典の文脈に落とし込んで考えてみれば、この歌はもともと、自分など端から眼中にない女性に向けて歌われたもの。たとえ別の男を想い続けていようとも、もうあなたしか見えない! と訴えているに等しい歌なのだ。
額縁の言葉とヴァレンタインの手から読み解く大団円
こんなふうに思いつめた男性ほど怖いものはなくて、事実プローテュースは芝居の終幕、シルヴィアを力づくで手に入れようとする。山賊に襲われそうになっていた彼女を助けてやったにもかかわらず、友ヴァレンタインへの裏切りを決して許そうとせず、自分をどこまでも拒むシルヴィアの態度に業を煮やしてのことだが、そこへ当のヴァレンタインが登場してシルヴィアの危機を救う。
まさにこの場面を描いているのが、その名も《プローテュースの手からシルヴィアを救い出すヴァレンタイン》というウィリアム・ホルマン・ハントの絵である。
前々回の連載で取り上げた《クローディオとイザベラ》もそうだけれど、シェイクスピアをはじめ、文学作品に基づくこと多々のハントの絵は、意識して額縁込みで見たほうがいい。往々にして当該箇所の引用が額に刻まれており、鑑賞と解釈の大いなる手助けとなってくれるからだ。
実際、本作の額縁上部でも左右にそれぞれ、横恋慕の動かぬ証拠を互いに握り握られた第5幕第4場のヴァレンタインとプローテュースの台詞が刻まれている。
左側の下から2行目「悪いがもう二度とお前を信用しない」というヴァレンタインの言葉は決定的で、これに対するプローテュースの応答は当然ながら、右側の上から2行目「許してくれヴァレンタイン」に極まる。何もかもが露見した修羅場で、膝をついての謝罪以外にできることなどありはしないのは、ハントの絵が示すとおり。
All that was mine in Silvia I give thee.
シルヴィアの中で僕のものだったすべてをあげよう。
ひたすらの謝罪を受け、ヴァレンタインはこういってプローテュースを許す。が、肝心のシルヴィアそっちのけで彼女を譲るという意味にも、シルヴィアに傾けていたのと同じだけの気持ちをこれからは友である君にも注ぐという意味にもとれる。ヴァレンタインの言葉の真意は、にわかには測りかねる。
ただひとつはっきりしているのは、ハントの絵の中で、ヴァレンタインはシルヴィアの手もプローテュースの手も放してはいないということ。そして画面の左端には、プローテュースに会いたい一心で、男装までして彼を追って事態を見守ってきたジューリアもいる。これはシェイクスピアの書いた結末どおりの、和解と大団円という構図以外の何物でもない。
友情が貫かれて両立する結末に
——男同士の友情や愛情は、男女のそれにはるかに勝る。これはシェイクスピアの生きていたルネサンスはおろか、はるか紀元前の昔からヨーロッパを支配してきた愛の哲学。したがって、男同士の友情が男女間の恋愛問題によって崩壊することなく、最後に両立を果たす『ヴェローナの二紳士』のラストは、当然といえば当然。
ただ、現代の観点からみても、恋と友情、どちらか選ぶ必要なんてないだろう。どちらを取るかではなく、ヴァレンタインのようにどちらの手も取ればいい。両方大切なら、必死にどちらも失わないようにすればいい。
恋でも友情でも、そのときの状況によって関係は変わるもの。その都度心を尽くしても離れていくなら、所詮それまでの縁である。
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