シューマンは危険な作曲家!?全編「俺の内面」、沸騰するテンションに取り残されるな
クラシック音楽評論家の鈴木淳史さんが、誰でも一度は聴いたことがあるクラシック名曲を毎月1曲とりあげ、美しい旋律の裏にひそむ戦慄の歴史をひもときます。
前置きをすっ飛ばした「大人げない」音楽
シューマンはちょっぴり苦手な作曲家、と思っていたときがあった。
あのいきなり沸騰するようなテンションで始められると、ちょっとついていけない、というか、置いてけぼりをくらわされたような心地になったのだ。ぜひ召し上がって下さいと美味しそうな汁物をふるまわれたが、その器が熱すぎて手に取れないといった感じだろうか。
ハイドンの交響曲などのように、冒頭楽章に序奏が付いている音楽がある。本題に入る前に、当たり障りのない天気の話から始めることで、相手との緊張関係を解くといったやり方だ。マナーをわきまえた大人の音楽といっていいだろう。
また、テンションをアゲアゲ状態にもっていくためには、それに至るまでの筋道を引くのが一般的でもある。突然「俺はむっちゃ嬉しいんだ!」と大声で訴えたところで、周囲の注目は浴びるにしても、その話にきちんと耳を傾けようという人はそう多くない。なぜそういう状態になったのか、といった説明があってこそ、なるほど、この人はこんなにハイなのか、と納得してもらえるからだ。
ところが、シューマンの音楽には、そうした「天気の話」や「筋道」といったものをすっ飛ばして、突然ハイ・テンションがやってくることがままある。《ダヴィッド同盟舞曲集》や《クライスレリアーナ》、2曲のピアノ・ソナタに交響曲第3番などなど。
大人げない。というか、危ない作曲家といっていいのであるまいか。
シューマンの音楽はつねに内面を描き尽くす。そこに、「これから、ボクの内面についての話をしますね」といった前口上であるとか、「じつは昨日、宝くじに当たっちゃってね」といった状況説明がなされることはほとんどない。
「いきなり内面」なのである。しかも、感情というのは移ろいやすいものだから、怒ったと思えば、急に悲しんだりと慌ただしく、それをいちいち説明なんかする余裕なんてありゃしない。
つまり、その音楽には「外側」がないのだ。外側があればこそ、第三者的な目線を使って、前置きや説明なんてものも可能になるのだが、それがないので、もう「内側」「内面」一辺倒なのである。
気分の移ろいをひたすら描く
そのシューマンに《フモレスケ》というピアノ曲がある。フモレスケとは、ドイツ語でユーモアを意味するので、どんなおどけた楽しい曲なのだろうと思って聴くと肩すかしをくらう。
どちらかといえば、憂鬱。そのメランコリーをベースに、気分が次々に変化していく。
シューマンのタイトルに偽りがあるということではない。ユーモアの語源は、人間の体内に流れる(と考えられていた)4種類の液体のこと。いわゆる四大気質だ。シューマンは、そういった気分の移ろいを音楽にしようとしたわけだ。
こういった気分の変化を外部の視点、つまり他人から見れば、おのずと滑稽な感じになる。これが現在のユーモアの意味にも繋がるというわけだ。しかし、「外側」をもたないシューマンは、あくまでも内面を移ろいだけをせっせと描くのである。
シューマン《フモレスケ》変ロ長調 Op.20(トラック22~)
《謝肉祭》中の背筋が凍る1曲
《謝肉祭》も、いきなりのハイ・テンションから始まるピアノ曲だ。曲のタイトルが示唆する祝祭的な空間を描写したものかと思えば、毛色がちょっと違う。すぐに不穏な雰囲気を匂わせ、次々に表情を変えていく。やはり内面の移ろいが色濃く表れた音楽になっているのだ。
当時の恋人の住む土地の名前と作曲者の姓の綴りから抽出した文字を音名に読みかえたモティーフによる、全20曲(あるいは21曲)。そのなかには、ショパンやパガニーニ、後の妻になるクララといった音楽家に加え、シューマンが作り出した架空の人物(フロレスタンとオイゼビウス)も登場。意志を思わせる力強さや、憂いや浮かれた気分など、多彩な音楽がテンポよく連なっていく。
面白いのは、演奏しなくてもいいと指示されている〈スフィンクス〉という曲が含まれていること。音名に読みかえたモティーフの謎を解くパスワードを示しただけの音楽だから、演奏せずに飛ばすのが通常になっている。ただ、ラフマニノフ、ソコロフ、トロップ、内田光子、スパダ、エマール、ゲルシュタインなど、この部分を弾いた録音は意外にも少なくない。
シューマン《謝肉祭》Op.9より第17曲〈スフィンクス〉
実際、〈スフィンクス〉を含む演奏を聴くと、変化に満ちた軽快な流れのなかに、ここだけ漬け物石のようにずどんと重苦しい音楽が置かれていることに、不思議な感覚を覚える。冷たい風がすっと背筋を撫でていく。
作曲家が秘めた暗い部分に触れてしまった感じだろうか。この作品の快活だったり、力強かったりする音楽も、すべてがこの暗がりのなかから生まれたものと考えると、ますます奥深い。聴き手の心のなかに墨汁を一滴垂らしたように、じんわりとシューマンの内面世界が広がってゆく。
古いヨーロッパの小説を読むと、冒頭に長々とした献辞やら、これはどういう経緯で書かれたのかなんて前文が置かれていたりして、なんか鬱陶しいなあと思うことがある。これは、序奏が付いたソナタのようなものだ。こういうのって、もう近代以前の芸術だよね。
そう考えれば、シューマンが行なったことは音楽の近代化に相当しよう(※)。本を開けば、一行目から架空の物語が始まるように、扉を開けたら、いきなり「俺の内面」。なんの説明もしねえ。男は黙ってロベルト・シューマン。ついてこられる奴はついて来い。じつに危険な香り。だからこそ、魅力的なのだ。
(※)最近は、そんな傾向がますます進んで、日本のポップ・ミュージックの場合、イントロがゼロ秒に近づいているらしい。シューマンの先駆性がうかがえよう。
「ヒット曲『サビまで待てない』 倍速消費、企業も走る」( 日本経済新聞)
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