インタビュー
2021.06.07
ロシアのピアニズムの特徴や自身の亡命、音楽への思いとは

スタニスラフ・ブーニン「音楽がもつ“生を欲するエネルギー”が精神生活を救う」

モスクワ出身のピアニスト、スタニスラフ・ブーニンさん。前回はショパン国際ピアノコンクールのことを中心に、そして今回は、ピアノ芸術全般に関してお話をうかがいました。ブーニンさんが考えるロシアにおけるピアニズムの特徴やご自身の亡命について、ブーニンさんの音楽への原動力、そして芸術がもつ力など、たっぷりとお届けします。ブーニンさんの深い音楽の世界へようこそ!

取材・文
高坂はる香
取材・文
高坂はる香 音楽ライター

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

ロシア語通訳:浜野与志男
写真提供:スタニスラフ・ブーニン

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ピアニストの家系に生まれ、モスクワ音楽院で学ぶ

1985年のショパン国際ピアノコンクールで優勝。その模様がNHKのドキュメンタリー番組で紹介されたことにより、当時日本で社会現象と言われるほどの人気を集めた、ピアニストのスタニスラフ・ブーニンさん。

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ブーニンさんは、祖父は高名な教育者のゲンリヒ・ネイガウス、父はピアニストのスタニスラフ・ネイガウス、母もピアニストというモスクワの音楽一族に生まれました。

17歳の頃、フランスで行なわれたロン・ティボー国際コンクールで最年少優勝。その後、モスクワ音楽院の名教授として知られるセルゲイ・ドレンスキー門下で学ぶようになります。そして19歳で、国を代表する1人としてショパンコンクールに参加。ここで見事優勝を果たすと、国際的な注目を集めましたが、ソ連時代ゆえの演奏活動への厳しい制約、加えて、国内や学内でも社会状況ゆえのさまざまな妨害に苦しみました。

そこで1988年、西ドイツに亡命することを決意します。このあたりのくわしい過程は、1990年に出版されたブーニンさんの自伝『カーテンコールのあとで』(主婦と生活社、1990年)に詳しく書かれていますので、ご興味のある方はぜひお読みください。

スタニスラフ・ブーニン
ソヴィエト・ピアノ学校の設立者で、リヒテル等の巨匠を育てたゲンリッヒ・ネイガウスを祖父とし、66年モスクワに生まれた。ロン=ティボー国際コンクールに17歳で優勝。モスクワ音楽院に進み、85年に第11回ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝、あわせてコンチェルト賞、ポロネーズ賞を獲得した。

さて、前回はブーニンさんに、連載「じっくりショパコン」のインタビューで、ショパンや、活動の拠点を日本に移したことへの思いを語っていただきました。

今回は、そこにはおさまりきらなかったこと……ピアノや音楽について、ソ連からの亡命などご自身のキャリアについて、若き日にロシアで学んだことについてのお話をご紹介します。

さまざまな作曲家に対応しうるロシアのピアニズム

——先のインタビューでは、作品の感情を自分の経験と重ね合わせることは、作曲家の感情に近づくことにつながる、というお話がありました。つまり、良い演奏のためには、人間的に豊かであることが大切だと。

ただそうはいっても、そうして思い描いたことを音にするには、やはり演奏テクニックが必要です。ブーニンさんは子どもの頃から特別な教育を受け、いわゆるロシアのピアノ奏法を体得されていると思いますが、そんなロシアの奏法についてはどうお考えですか?

ブーニン ロシアのピアニズムについて、1つ最大の特徴をあげるとすれば、それはすべてのレパートリーに対応しうる完全性だと思います。楽器の可能性を引き出すことにより、さまざまな作曲家の願いを形にすることができます。そしてそれが、特定の作品にしか合わないということがありません。これは、ロシアのピアニストたちの長年の鍛錬、切磋琢磨の中で作り上げられた深い知識によって成し遂げられたものだと思います。

私は、モスクワ音楽院に入る以前から、幅広い時代のレパートリーの見方について、膨大な情報を与えてくれる大人の輪の中に身を置くことができました。これが本当に大きかったです。

私の祖父についていえば、彼は楽器の音の研究に力を注いでいた人でした。そして教え子の良くないところを見つけて指摘する能力に長けていた。しかしもちろん、祖父以外にも指導者がいて、それぞれが違った理想を持っていました。だからこそ、ロシアのピアニズムには多様性があるのだと思います。

現在ロシアのピアニズムと呼ばれているものは、もともとあった伝統的な演奏の楽派にはじまり、その後、それと対立するソ連のピアニズムが出て、やがてそれらが融合したものだといえます。今やロシアのピアニズムの継承者は、国内だけだなく、ヨーロッパやアメリカ、アジアにも存在しています。

作曲家への愛情を聴き手と共有したい気持ち

——そうした伝統を受け継いで学びつつ、自分だけの音楽を生み出せるようになるには、何が必要でしょうか。

ブーニン 私の場合、自己を確立できるようになったのは、ある音楽への愛情を強く感じる瞬間があったことが大きかったですね。

私が初めてそんな愛情を感じた作曲家は、シューマンでした。自分のために弾くのではなく、自分が抱いた愛情を聴いている人と共有するには、もっと学ばなくてはと感じ、練習に取り組むようになりました

そこから階段を1段ずつのぼるように、ほかの作曲家にも関心を広げたわけです。そしてやがて、音楽に触れるこうした経験を絶対に失いたくないと感じるようになりました。これが今日までの私の音楽の原動力です。

ブーニンさんが演奏するシューマン《花の曲》、「トッカータ ハ長調」

——ちなみに、なぜ最初がシューマンだったのでしょうか? 素敵だけれど、難しいところのある人ですよね。気持ちが不安定なときに聴いたり弾いたりすると、巻き込まれそうというか。

ブーニン シューマンの鬱々とした精神状態は、完全なる美への憧れからきているのではないかと私は思います。無限に続く美の世界に憧れていることの、裏返しでしょう。

私はそこに魅力を感じたのだと思います。美の世界に向けて、手を伸ばそうとする私がいた。幼い頃、自分が日々目にする現実よりも格段に美しいものが、シューマンの音楽の中にはありました。……少し凡庸な表現かもしれませんが(笑)。

リモートインタビュー中のブーニンさん。

——モスクワ音楽院の重鎮だったドレンスキー教授(註:1957年からモスクワ音楽院で教鞭をとり、ルガンスキーやマツーエフをはじめ数多くの世界的ピアニストを輩出した名教師)も、2020年に他界され、側から見ていると、音楽院にも新しい時代が来るのかなと感じます。ブーニンさんはお若い頃、モスクワ音楽院で良くも悪くもいろいろな経験をされていると思いますが、その立場から、今、音楽院で学ぶ若いピアニストたちが環境に左右されず、思うように活動を貫いていくためには、どんなマインドが必要だと思いますか?

ブーニン 正直に言って、私がモスクワ音楽院のファンであったことは一度もありません。そしてドレンスキー氏のファンでもありませんでした……日本のクラシック音楽愛好家のコミュニティでは、とても権威のある名前として捉えられていましたけれどね。ドレンスキー氏が他界したのちも、そのポストは彼の近くにいた弟子たちが引き継いでいますから、あなたのおっしゃる新しい時代が来るかというと、それはわからないと思います。

私は、学校という組織の問題には、もはや関心がありません。関心があるのは、目の前にいる若いピアニストが、どこかの音楽院で強制的に作り出された生産品でないか、自然に開花した才能であるかどうかです。自然に花開いた才能に出会えると、とても嬉しい。そういう彼らには、次の世代に良い音楽家を育てることができるからです。

現在、世界的に、ピアノの演奏芸術は斜陽の段階にあると思います。だからなおさら、そんな才能に出会えたときには、まだすべてが失われたわけではない、これからも伝統は続いていくのだと喜びを感じますね。

偉大なる音楽の前には資本主義も共産主義もない

——ショパンコンクール優勝の数年後には、自由な芸術活動のため、ソ連から亡命されました。今、あのときの決断をどう振り返りますか? 

ブーニン とにかくあのときは、亡命する以外に選択肢はありませんでした。

音楽家として学び、ピアノに触れ続け、成長したいという願いが、ソ連にいる状態では脅威にさらされていました。結果的には亡命によって、芸術を深めるための時間、理想を目指し続ける余裕を手に入れることができました。

ソ連にいたままでは、自分にごく近い世界のことしか見ることができなかったと思います。それに、音楽家としての人生を続けられなかったかもしれません。私の音楽家としての能力は、亡命によって救われたのです。さまざまな国で人々がどう生活しているのか、何に関心を持ち、音楽についてどう考えて暮らしているのかを、自分の目で見ることもできました。

——一方でソ連時代の芸術作品のことを思うと、抑圧された環境だから生まれたものもあるのではないかと感じます。それについてはどうお考えですか。

ブーニン それについては、私も完全に同意しますね。例えばショスタコーヴィチの音楽からは、あの時代だからこその苦悩、彼が受けた抑圧、時には死の危険にさらされることもあった心情を感じ取ることができます。

とはいえ、私たちが偉大なる音楽を前にしたとき、そこには資本主義も共産主義も、民主主義も独裁主義もありません偉大なる音楽には、対立も、日常的な諍いも、一切関係がない。もっと高いレベルのものであると思います。

例えば、ショパンやバッハの音楽には、それぞれの作曲家が命をどう捉えていたのか、生命をどう受容していたのかが表現されています。作曲家は自らの経験から音楽を書きますが、音楽、作品そのものは純潔であって、日常のレベルからはかけ離れたものだと思います。

良い芸術が生まれる社会とは?

——先ほど、ピアノ芸術は右肩下がりだというお話もありました。今、例えばロシアやアメリカでも、政治的な変化が社会の状況に影響を与えています。そんななか、良い芸術が生まれるのはどういう社会、環境だとお考えでしょうか。

ブーニン それは、日本の社会ではないですか(笑)? 良い音楽家、芸術家は、良い人格を持っていると思いますから、やっぱり、良い人が住んでいるところに、良い音楽が生まれるのではないでしょうか。

——さらに今は、パンデミックで人々の行動が制限され、オーウェルの『1984年』のような社会……というと言い過ぎかもしれませんが、監視社会に近い雰囲気に向かうのではないかという感じすらします。そうして人の暮らしが制約をうけるなか、音楽は人間にとってどんな意味を持つのでしょう。救いとなると思いますか?

ブーニン オーウェルの話もおもしろそうですけれど、今は現代の話をしましょう(笑)。

私ももちろん、世界中の音楽仲間が苦しい状況に置かれていることを理解しています。音楽はたしかに、直接的に物事を伝える技術ではありません。社会生活が制約され、危機にさらされて、どこでどのように演奏するかという自由すら奪われているように感じられるでしょう。

でも実際には、今芸術家は、力を別の場所に避難させている状態だと考えることはできないでしょうか。私たち芸術家はエネルギッシュな人種ですから、この間に努力を重ね、発展していくことができると思っています……少し楽観主義的かもしれませんが。

音楽がもつ生命のエネルギーが精神生活を救う

——音楽家としてさらに高いところを目指していきたいとおっしゃるブーニンさんには、今後、どんな目標がありますか? 今はコロナの影響で大変なご時世でもありますが、大切にしていきたいことはなんでしょうか。

ブーニン 私は近頃、死について考えることが増えました。これがパンデミックの影響なのか、自分でもよくわかりませんが、死とはいずれやってくる、避けて通ることのできないものです。今の私は、その日が来るまで、現時点で終わらせられていないことを成し遂げなくてはいけないと感じています。若い音楽家、ピアノを学ぶ人たちのために、自分の経験や、ピアノに関する原理、原則を書いて伝えることにも取り組みたいです。

私の中には、生を欲するエネルギーがあります。そして、ショパンやバッハなどの偉大な音楽を演奏すると、作品から生命のエネルギーを感じ取ることができる

実はこの「生を欲するエネルギー」は、誰もが心の中に潜在的に持っているものです。しかし多くの場合、それを抑圧して生きているのです。でも、それを抑える必要は本来はありません。そんな生を欲するエネルギーが、私たちの日常、精神生活を救う機会が、これから必ずやってくると私は思います

取材・文
高坂はる香
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高坂はる香 音楽ライター

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

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