コンタクト業界をリードするメニコンの社長・田中英成、もうひとつの顔は脚本作詞家。カウンターテナー・藤木大地が訊きたいこと
カウンターテナー歌手の藤木大地さんが、藤木さんと同様、“冒険するように生きる”ひとと対談し、エッセイを綴る連載。
第5回のゲストは、株式会社メニコンの社長、田中英成さん。日本ではじめて角膜コンタクトレンズを実用化した創業者・田中恭一さんの後を継ぎ、大胆な発想でコンタクト業界をリードしています。その原点は、音楽プロデューサーや映画監督に憧れたという子ども時代にあり!? 脚本作詞家の顔をもつ田中社長。音楽や芸術に対する熱い想いや、メニコンが行なう芸術家支援などについてたっぷりお話を伺いました。
夏の思い出
今年、4年ぶりに夏をヨーロッパで過ごした。
サングラスがないと耐えられないような日差しや、開放的な街の人々や観光客。天気がよくて服が身軽というだけで心もかるくなるような、厳しい冬なんていつまでも訪れないはずさ! と信じられるような、明るさだった。
季節や空気が過去を思い出させることがある。
それらはだいたい、甘酸っぱくて、ほろ苦くて、淡い。
しかしだいたい、酸っぱいわけでも、苦いわけでも、濃厚なわけでもない。
鮮明な経験の色はいつの間にかかわっていて、引き出されるまで自分のアルバムにおさまっている。その経験を共有した人と、ずっと同じ色であるかどうかはわからない。
南イタリアのプーリア州、バーリの旧市街の広場でひとり食事をおえたとき、広場の一角に腰掛けていた、犬を連れたおじさんから指招きされた。
「イタリア語は話すのか? よし。いいか、この街で一番うまいジェラートはな、この広場を出て左に曲がってまたすぐ左に曲がったところにある。右じゃないぞ、左だ。そこに行け」
治安があまりよくないと言われる南イタリア。この会話のスキに悪い仲間がやってきてケチャップをかけられて財布をとられるんじゃないか、とか、そのジェラート屋とおじさんがグルでぼったくられるんじゃないか、とか、いくぶん身を固めながら一応行ってみる。
すると、道だけ教えてくれたはずのそのおじさんが犬を連れてまた登場した。ますます怪しい。
「いいか、この店で一番うまいのはこれとこれだ。シニョリーナ、この青年にこれを食わせてやってくれ」と注文をして、おじさんはいなくなった。
注文をしてくれたけど会計はしてくれなかったそのふたつ入りのジェラートは、2ユーロの会計を待つ間に半分とけたが、僕のアルバムにしまう思い出がひとつできた。
おじさんのアルバムにもしまわれたかどうかは、わからないけれど。
――藤木大地
対談:今月の冒険者 田中英成さん
1959年京都生まれ。
日本初の角膜コンタクトレンズを開発した創業者田中恭一を父に持ち、眼科専門医を取得後、メニコンへ入社。業界内世界初の定額制会員販売システム「メルスプラン」を考案し、市場に導入させる為、2000年に若干40歳で社長へ就任。経営改革を果敢に行い業績をV字回復させ、東証及び名証1部同時上場を実現した。
「メニコンカップ」日本クラブユースサッカー東西対抗戦(U-15)を20年以上支援し若手育成に貢献。プライベートでは「あおい英斗(ペンネーム)」として脚本や作詞を手掛け、代表作ラジオミュージカル「本能寺が燃える(2011年ギャラクシー奨励賞受賞・JFN賞企画部門大賞)」、などを制作。各方面で将来性のある若い音楽家や俳優の支援も行なっている。
藤木大地が田中さんに訊きたい!
Q1. お生まれになったときから『メニコン』があったわけですけれど、「みること」に関連しない夢をお持ちだったことはありますか?
田中 僕が生まれた頃は、まだ戦後を引きずっているような時代ではあったものの、すでに父が創業していたこともあり、裕福な家庭で育ちました。他の友だちよりも良い服を着せてもらって、家に当時は珍しいカラーテレビがあって。
中学生になると、ラジオとカセットレコーダーを手に入れたため、勉強はせずにオーディオに夢中に。そこで初めてアンディ・ウィリアムスの歌声に触れて、洋楽に興味を持ち始めました。一方でテレビでは洋画が多く流れていたため、映画もいいな、と。旅行も好きだったので、写真を撮るためのカメラにもハマった。
そんな思いが重なって、「映画監督をしたい」「音楽のプロデューサーになりたい」なんて思うようになりました。
まずは自分でディスクジョッキーをやってみようと思い、自分の好きな曲のレコードを買って、それらを並び替えて、間に自分で解説を入れたりして、テープを作っていました。
藤木 解説というのは、田中さんがお話になっているんですか?
田中 そうです。それを自分で聴いて、楽しむ。
大学生になると、その延長で、動画を撮り、そこに音楽とナレーションを重ねたりもしましたね。ちょうど8ミリビデオやコンピュータが世に出ていたので、フル活用しました。
しかし大学の年次が進むごとに実習などで忙しくなり、「医者になる」という思いのもと、映画監督の夢は頓挫しました。
藤木 医者になるという目標は、映画監督の夢と同時に持ち続けていたものなんですか?
田中 監督やプロデューサーの夢は、やはり子どもの頃の夢に過ぎないんです。現実を見てしまえば、医者になるしかない、と。
ただ、僕は小・中学校の頃、勉強の成績は悪かったんですよ。クラス45人中、35番くらいで。これは相当悪いんです(笑)。後ろを振り返ると10人しかいないんですから。
高校受験では進学校と同時に受験していた私立高校に行きましたが、ここで決定的なミスが。共学高校だから志望したのに、本当は道路を挟んで男女別学だったんです。相当ショックを受けた僕は、この学校を共学にする運動を起こそうと決めました。
藤木 具体的にはどんなことを?
田中 生徒会に入りました。1年は下積み、2年で副会長、3年で生徒会長になりました。まずは共学にするためのインフラ整備から。例えば、男女別で行なわれていた体育祭や文化祭を、男女合同にするための企画を出す。男女別だった生徒会組織を一つにするために、規約改正に取り組む。そんなことばかりしていたため、授業もろくに受けずに企画書ばかり書いていましたね。
メニコン入社後にマーケティング部門に配属されて、CM作りに関わることがありました。ビデオ撮影ばかりしていたときのノウハウが生かされましたね。生徒会時代の経験も、のちに会社経営の視点においてもずいぶん役立ちました。
Q2. 2001年にコンタクトレンズの定額制サービス「メルスプラン」をスタートされ、業績を回復、安定化なさいました。それは「神の声」に従ったアイディアだったとか。「神の声」が聞こえてきたことは他にもありますか?
田中 そもそもメルスプランとは、僕がメニコンの取締役に就任した1994年頃にバブルが崩壊したことがきっかけで生まれたものです。ディスカウント競争が激しくなったせいで、モラルの悪い販売店による安売りが蔓延してしまい、コンタクト使用による健康被害が出てきてしまったんです。このままではコンタクトレンズへの信用は失われ、メニコンの業績悪化は避けられません。
寝ながら、歩きながら、お風呂に入りながら、ずっと考え続けていたのは「これを乗り越えるには、どうすれば良いだろう」ということ。
ある日の会議中、悩みすぎて寝不足だったため、ウトウトしていたんです。「キャッシュフローが……」という話が聞こえた瞬間、パッと目が覚めました。頭の中で、「キャッシュフローを逆にすればいい」と神の声が聞こえたんです。それがメルスプランでした。最初は反対され紆余曲折ありましたが、見事V字回復できました。
この神の声は、悩みに悩み続けて疲労困憊したからこそ、聞こえたもの。人生ではこれ限りだと思います。
田中 しかし、他にあるとすれば、ミュージカル『本能寺が燃える』の脚本ですね。
僕は「エンジン01」という団体に所属していますが、ある年のイベントでオリジナルの創作ミュージカルを上演することになりました。坂本龍馬が主人公の作品で、ちなみに僕は龍馬の盟友・中岡慎太郎役で出演しました。実際、芝居やダンスの稽古などとても大変でしたが、でもとても楽しくて、フィナーレでは舞台のうえで感極まっている自分がいたんです。こうした僕自身の実感を通して、舞台づくりの楽しさ、やりがい、感動を多くの若いアーティストに経験してもらいたい、という想いを強くしました。さらには、自分なりに具体的にイメージする舞台を創ってみたい、そしてそれが若手の皆さんの機会創出につながればなお良いのでは……と考えついたのが自分で脚本を書くことになったきっかけで、なんとも無謀な話です。
このように、ある意味、勢いで生み出した『本能寺が燃える』は、常套であれば織田信長が主人公のところ、明智光秀の視点で「本能寺の変」に至る過程を描きました。熱が冷めず、一気に3日で書き上げましたが、これがラジオ・ミュージカルとしてオンエアされ、その年のギャラクシー賞ラジオ部門・奨励賞とJFN企画部門・大賞を受賞、のちに舞台化にまで繋がりました。
子どもの頃に思い描いた映画監督とは少し違いますが、プロデュースをしていることに、必然的な繋がりを感じましたね。
Q3. メセナ、社会貢献活動も積極的になさっています。いろいろなジャンルがある中で特に「音楽」を支援されようと思われる理由はどんなところにありますか?
田中 「メニコンスーパーコンサート」は開始当初、ウィーン・フィルに代表される有名オーケストラや国内外の著名な音楽家のコンサートをサポートする形で年間5~7箇所程度の頻度で開催していました。その頃は相当大きな予算を使っていたのですが、バブルが弾けた影響などもあり業績が傾いた時期、このスーパーコンサートの開催も見送らなければならないかもしれないという決断に迫られました。ですが、企業としての文化支援の炎を途絶えさせえてはいけないという想いがあった。
それで、公演の回数や規模を小さくしたとしても、まずは「続ける」ことを選択しました。小さいながらも企業として心のこもったコンサートを年に1度は必ず開催して、「無料招待」にするという形態です。たとえ微力だとしても、真心を込めて続けることこそ、クラシック音楽の普及に貢献できるという確信があった。
「メニコンカップ」も同じ考えで途絶えることなく続けています。U-15の代表選手による東西対抗戦なのですが、すでに活躍しているプロ選手ではなく、プロを目指す若い人たちを応援することでスポーツ界の下支えになると考えています。
これらのメセナ活動は、お金を出して特別協賛するだけでなく、社員ボランティア始め、企画や運営に直接参画することでイベントを内側から盛り上げています。お金と汗と知恵を出すわけです。こうした姿勢が企業の文化として根づいてきています。
藤木 HITOMIホール(メニコンが運営する音楽ホール)も、若い音楽家を応援する目的で開館されたんですか?
田中 もう使われていない社員食堂のスペースを有効活用して、社会にも貢献できて、我々にとってプラスになるものは何か考えたところ、「コンサートホールにしよう」と思いつきました。
そうすれば、市民の方にも使ってもらうことができ、直接的な文化貢献ができる。収録ブースなどを活用すれば、コンサートやイベントの幅も広がる。さらに、1階ロビーを改装してギャラリーにすることで、ホールとの連動で文化の発信基地となり、メニコンのPRの拠点ともなる。そんな想いから7年前に作りました。
藤木 2回ほど歌わせていただいたことがあります。お客様との距離が近く、密度が濃く、お客様の反応が見えるのが、とても楽しいです。
田中 それは、偶然の産物。本来200人ホールにしたかったんですが、消防法の関係上、110人のキャパシティでないといけなかったんです。
設計の際に眼球の形をイメージしようと思い、丸い形になったことも影響して、響きがとても良いホールになったんです。演奏者にも鑑賞するお客様にとっても気持ちよく使っていただいているようでうれしいです。
アーティストの皆さんは、HITOMIホールにいると想像力が湧いてくるそうですよ。新しいアイディアや次の企画が出てくる。クリエイティブを刺激するんですね。
藤木 例えば、アーティストが「こういう企画をしたい」と企画書を持ってきた場合、検討していただけるんですか。
田中 基本的に、イベント事業を担当するスタッフに判断は任せます。それをやっていくことで、スタッフも育てることができるので。
藤木 音楽家と同時に、プロデューサーも育てているようですね。
Q4. 経営に関するお話もたくさんお伺いしていますが、もし集客に苦戦しているオーケストラや音楽祭、オペラハウスの経営者に就任されるとしたら、どのような経営をなさいますか?
田中 これは、メニコンを経営するよりも難しいかも。
やっぱり舞台芸術って、良いものを作ろうとすればするほど、お金がかかるんですよね。それを支えるのがチケット収入ですが、ただでさえクラシック音楽に対するハードルが高いのに、良い舞台だからといってチケット代が高くなるとますますハードルが上がる。つまり、若い人が来なくなる。すると、未来のお客様がいなくなる。そんな負のスパイラルを変えなければなりません。
思い切った方法を打ち出すとすれば、高校生以下は、入場料タダ。もしくは、500円。
または、定額制。劇場などで年間パスポートを導入しているところもありますよね。
将来のお客様やスポンサーとして業界を支えてくれるはずの人たちのために、そうした仕組みが必要だと思います。
藤木 その場合、2つの問題がありますね。1つは、限られた座席の中でどのくらいの席数をタダにするのかという点。そしてもう1つは、高校生がお金を払う年代になったとき、今までタダだったものにお金を払うのか、という問題。お金を払わなくていい時期に、いかに彼らが音楽を好きになるか。
田中 音楽家は、そこに全力をあげて奉仕することが大事。僕は、音楽家の中でも役割を分けていくべきだと思います。例えば、普及に徹する演奏家であるとか。
他にも、きちんと音楽教育をすること。僕が中学生のころ、成績に差をつけるために、授業で習っていない音楽史や聴音の試験があったんですよ。そういった点数をつけるためのものではなく、もっと音楽を楽しいと思わせる教育をすることが大事だと思います。学校行事として3か月に1度はオペラを観に行く、とかね。
藤木 そうなると公演数も増えて、業界にとってもプラスですね。
田中 今、日本における文化予算ってすごく少ないじゃないですか。そういったところに、国や地方自治体から予算を出すべきだと思います。本当に大事なところにお金が使われているのだろうかと、僕は疑問に思うんです。日本の未来を想うからこそ、文化にお金を投入するべき。文化力を高めれば戦争は起こらないんじゃないかな。
藤木 そうなると、文化の大切さを伝える人材が必要ですね。それはたとえば海外で活躍している指揮者なのか、歌舞伎などの伝統芸能を継承していく人なのか。どんな人が良いと思いますか。
田中 海外で勉強している人、日本の伝統を受け継ぐ人、どっちも大事です。しかしさらに大切なのは、「日本」を語れる人。日本の文化や歴史を知っている人。我がごとを語れないと、他人のことは語れません。
ビジネスや外交でも同じこと。自分のことを上手に説明できないと相手とは仲良くできないし、相手と仲良くするには相手を理解しないといけません。それを怠っていると、外交問題に発展したりするんです。自分たちのことをきちんと知り、語ること。これが大事です。
Q5. 田中さんは「メルスプラン」を導入することで会社をV字回復させましたが、文化事業の業績を「メルスプラン」のように、画期的に向上させるアイディアは何かないでしょうか?
藤木 今はSNSやコンピュータが普及しているので、広報の仕方やチケットの売り方によって、大きな変化が出ますよね。
田中 僕は新しい人間ではないので、チケットは紙で買いたいんです。今は先行予約もできるし、デジタルで発券ができるし、QRコードで入場できるし、便利な時代になりましたよね。昔なんて、席の場所すら当日にならないとわからなかった。
現在のシステムは便利で良いと思う反面、あまりに簡素化されているように感じるんです。
藤木 わかります。昔は、日付が刻印されているチケットを持って、その紙切れ1枚をお宝のように感じていたんですよね。
田中 そう、チケットの重みはあったほうが良いと思うんです。
それなら例えば、入場料にプラスでいくらか払って購入できる「プレミアムチケット」を作るとかはどうだろう。電子チケットだけで入場できるけど、希望する人だけ紙チケットも送られてくる。アーティストの顔つきにすると良いかも(笑)。
藤木 それが豪華なチケットだと、コンサートへのテンションも上がりますね。
田中 そういったプラスアルファがあれば。本当に好きなアーティストなら、買う人もいると思います。
藤木 コンサートの収益化にも繋がりますね。
広報面でも、現代は情報が溢れすぎていますよね。田中さんは、たくさんの方に『本能寺が燃える』に来ていただきたいとき、どう伝えますか。
田中 わかれば苦労しません(笑)。ただ、今のコンサートホールや劇場は、主催者に対して「ホールを貸してあげている」という気持ちが強い気がします。だから、ホールを存続するための頑張りとして、自主事業でなくても主催者や出演者とともに舞台を作る・広く宣伝する、という雰囲気がないのでは……。
藤木 貸す側と借りる側、隔たりが強いということですね。同じ気持ちを持って、同じ方向を向いて何かを作ることができれば良いのですが。
田中 ホールを借りているほうの立場が弱いんですよ。
藤木 広報をするにしろ、借りている主催者だけでなく、ホールも同じ熱量で発信すると、イベントに対するフォーカスは2倍になりますもんね。
田中 ホールも士気が上がるし、ブランドも高まる。
Q6. ミュージカルの脚本や作詞も手掛けられ、その分野での受賞もされ、ミュージカル『本能寺が燃える』は全国各地で再演を重ねていらっしゃいます。田中社長ではなく「あおい英斗」さんとしての今後の夢をお聞かせいただけますか。
田中 今の悩みが、なかなか『本能寺が燃える』を超えられないこと。「これはいけた!」と思っても、結局ボツになってしまったものが10作品はある。『本能寺が燃える』以外にも、すでにラジオでオンエアした『キミのために散る』『歳三を愛した女』の2作品は、なんとか舞台作品として上演し、さらに継続できればと思います。
12月には名古屋で久しぶりに『キミのために散る』を再演する予定です。まずはそれを目指して、この作品の完成度を高めたいですね。
『歳三を愛した女』は新撰組の土方歳三が題材なんですが、今、一から書き直し始めたところです。
藤木 つまり、上演を目標にされているんですね。
田中 そうです。これもボツにならないようにしないと(笑)。
Q7. 音楽、映画、演劇、オペラ、ミュージカル、多くの作品、公演を鑑賞されてきたと思いますが、特にいまの人生に影響を与えた体験はなんでしょうか?
田中 それはやっぱり、僕が「エンジン01」のイベントで出演した『海とおりょうとピストオル』。これがあったから、創作意欲に火が点きました。脚本づくりはマーケティング戦略にも生かされます。戦略づくりは台本を作ることが大切ですからね。
でもなんだかんだ、子どもの頃からミュージカルは嫌いじゃなかったんです。特に影響を受けたのは、バーンスタインの『ウエストサイド・ストーリー』。音楽も脚本も素晴らしいから、観ていて感動する。バーンスタインって、本当に天才だと思います。
Q8. あなたにとって、音楽とは?
田中 生きることにおける、潤滑剤です。
藤木 それは、人と人を繋ぐ潤滑剤?
田中 それよりも、自分の心の潤滑剤です。やっぱり人間には、少なからずストレスや色んなものが渦巻いているので、音楽は栄養になってくれます。
そもそも僕がクラシック音楽に目覚めたのは、大学生に入ったときくらいのことでした。失恋のショックを癒してくれたのが、ジャケ買いしたベートーヴェンの弦楽四重奏曲だったんです。それまで僕はジャズや洋楽が好きで、クラシック音楽は『はげ山の一夜』くらいしか知りませんでした。
それまではクラシック音楽って長いし、集中力が持たないと思っていたんです。でもベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、聴けた。これが僕にとっては驚きでした。それからクラシックのレコード集めが始まったんです。
藤木 ハードルを下げたのが、ジャケットだったんですね。
田中 そうなんです。今はデジタルで手に入るから、ジャケットの役割は落ちていますよね。これは音楽界にとってマイナスではないでしょうか。音楽を総合アートと捉えたときに、ジャケットや解説文があって、初めて価値が出てくると思うんです。
CDも、本当にサイズが小さいですよね。昔はレコードを買うと、傷がつかないようにプレイヤーに乗せて、針を置いて、ザーッという雑音という名の前奏曲を聴く。目をつむると、オーケストラが見えた。CDやデジタルでは、それが見えない。ボタン一つでランダム再生とかできるようになったけれど、便利だからこそ愛着がないんですよね。
藤木 となると、案外ハードルの高さは大事なのかも知れないですね。
田中 そうです。そのハードルを超えた人が、本当のファンになるんです。
そのハードルをいかに乗り越えさせるか、それがマーケティング。今は色んな業界がそれをサボっていますね。アーティストがインスタント化して、使い捨てになってしまいそう。
そうならないように、アナログの場所でいかに勝負できるかを、今だからこそ考えていきたいです。
藤木 ありがとうございました。
その日田中さんとお別れしたあと、「あ、8(eight)月号に英斗(エイト)先生との対談なんて、完璧だったじゃん!」とひとり興奮しました。それは少年時代になにか新しい発見をしたときのような、「こんなことに気づいたおれ、すっげー!」の興奮でした。大好きなことを話す少年の瞳と、経営者としての眼光、その両方と2時間対峙したすぐあとだったからでしょう。まっすぐな人の目は、相手の心に届きます。いつも目をみて人に向き合いたい、改めてそう思った真夏の1日でした。ありがとうございました。
――藤木大地
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