インタビュー
2023.12.29
バッハへの想い、ストリーミング時代のクラシック、故郷アイスランド、そして未来への展望

ヴィキングル・オラフソン〜ストリーミング時代の人気ピアニストが考えること

現在、もっとも注目されているピアニストのひとり、アイスランド出身のヴィキングル・オラフソン。ストリーミング総再生回数6億回越えという驚異的な数字からもわかるように、普段クラシック音楽を聴かない層も惹きつけてやまない音楽家です。
現在進行中の世界ツアーに選んだのはバッハの代表作「ゴルトベルク変奏曲」。88回公演を通して同じ作品を演奏する彼の哲学、バッハへの想い、ストリーミング時代のクラシック、故郷アイスランド、そして未来の展望まで……たっぷりと語っていただきました。

取材・文
飯田有抄
取材・文
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

Photo:各務あゆみ

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“88”回の「ゴルトベルク変奏曲」ワールドツアー

——秋に「ゴルトベルク変奏曲」のアルバムをリリースされ、2023/24シーズンは88回ものコンサートでゴルトベルク変奏曲をお弾きになるという異例の世界ツアーを進行中です。東京での2公演を終えられた時点で、何公演ほど行なってきたのでしょうか。

オラフソン 途中で数えるのはやめてしまったのですが(笑)、おそらく37回か38回だと思います。

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——なぜ「ゴルトベルク変奏曲」だけでツアーを行なうことにしたのですか?

オラフソン 例年ですと、ソロリサイタル、室内楽、オーケストラとの協奏曲など多様な演目で、年に100回ほどコンサートに出演しています。でも今シーズンは、バッハとだけ向き合う特別な年にしたいと思ったのです。私のソウル・メイトであるバッハ、そしてもっとも偉大な鍵盤楽器のための作品である「ゴルトベルク変奏曲」にしっかりと対峙し、世界中で演奏するという大きな経験を経て、音楽的にも、技術的にも、精神的にも、自分がどう変化するのかにも興味があります。

——公演数の88という数字にはどのような意味を込めていますか?

オラフソン 88はモダンピアノの鍵盤の数で、楽器の象徴としてこの数を掲げています。バッハ自身も数字に何かを象徴させる作曲家でしたよね。現代のピアノはバッハの時代には存在していませんでしたが、私がもっとも愛する楽器です。もちろん彼はチェンバロやオルガンを愛していたと思いますが、もし彼が今生きていて、この素晴らしい楽器を見せたら、音色や質感や多様な表現力をきっと気に入り、大喜びするでしょう。

実を言いますと、リサイタルは大変好評をいただき、追加公演がありました。ウィーンでは2公演、ハンブルクでも2公演、そのほかの都市でもいくつかコンサートが増えました。ですから実際には全部で94公演になってしまいました(笑)。

「ゴルトベルク変奏曲」を“変奏”する原動力〜構造を詩へと翻訳

——CDでの演奏とサントリーホールでの演奏は異なり、同じ変奏も多様な表現で聴かせてくれました。オラフソンさんは94回演奏されても、無限に新しい作品像を提示されるのでしょうね。

オラフソン 私はこの「変奏曲」を毎回“変奏”しています。つまり、サントリーホールでの演奏と、翌日のすみだトリフォニーホールでの演奏はまったく違うし、またフィルハーモニー・ド・パリでの演奏とカーネギーホールでの演奏も変わります。毎回すべて変わるのです。演奏するたびに、私はこの作品の新しい意味を見出そうとしています。

——オラフソンさんにとって、音楽作りで「変化」を生み出す最大のポイントとはなんでしょうか。ピアニストによっては、リピート後に装飾音を加えて違いを出すといったことがなされますが、オラフソンさんの演奏は装飾による変化よりも、声部どうしのダイナミクスの違い、それぞれの抑揚、そしてテンポの変化に、実に多様な表現がありました。

オラフソン 変化をもたらすのは、人間的な要素ですね。つまり、その瞬間に自分が何を感じるかということです。感じたことを瞬時に表現するには、自由であることが重要です。自由を享受するためには、音楽に献身的にならなければなりません。本当の自由を手にするため、何十回とこの作品を演奏しても、私は本番前の準備を入念に行ないます。サントリーホールで演奏したときも、私はとても自由で、心から演奏を楽しんでいました。

私はバッハの音楽で好きな面が2つあります。明晰さと温かさです。彼の音楽に透明感を持たせて多声部のテクスチュアをはっきりと伝えたいですし、同時に人間的なものとして響かせたい。だからこそ、私はモダンピアノを使いたいのです。作品を生きいきと有機的に、豊かなニュアンスや繊細さを伝えることができるからです。私はバッハの音楽が構造的でありながら詩的であること、構造が詩的に翻訳されることを目指しています。それが、私の音楽作りの原動力となっています。

ストリーミング総再生回数6億回、その数字に感じること

——これまでに発表されたアルバム『バッハ:ワークス&リワークス』『ドビュッシー−ラモー』『フロム・アファー』は、いずれも時間・空間を隔てた音楽家たちの対話をテーマにしているように思います。時間・空間の「距離」というのは、オラフソンさんにとって創造性を掻き立てるキーワードなのでしょうか。そのテーマ性はご自身のどんな思いに起因しているのでしょうか?

オラフソン 確かに、私はよく「時間」について考えます。バッハは270年も前の遠い時代の人ですが、何世代か前です。日本やアイスランドのような島の歴史、地質学的な観点からの時間を思えば、さほど「遠く」はないのです。私たちは「新しい」とか「古い」といったことをよく考えますが、私は時に古いものの方により新しさを感じます。私はフィリップ・グラスやジョン・アダムズ、トマス・アデス、ジェルジュ・クルターグといった現代作曲家の音楽にも取り組みますが、時折、バッハがもっとも現代的だと感じることがあります。

私たちはつい、ああ、ドビュッシーは印象主義だ、ラモーはバロックだと、音楽史を単純化してしまいがちですが、実際にはラモーはドビュッシーよりも印象主義的な響きをもっていたり、ドビュッシーはよりバロック的な面があったりもする。ラモーは未来志向型だったし、ドビュッシーにはルネッサンス的な側面があった。

音楽は、そうした時間旅行を楽しませてくれる手段かもしれません。時間のねじれを感じるのはとても楽しいことです。音楽は過去の人々と有意義な交流を持つことができる唯一の方法なのです。

——これまでのアルバムでは、アップライトピアノやエレクトロニクスのサウンドなどを生かし、とくにコロナ禍においては、その暖かい音色がリスナーに寄り添い、慰めてくれるようでした。今ふたたび、コンサート活動は通常通りになりましたが、コロナ前とコロナ後の音楽シーンを、オラフソンさんはどのように捉えていますか?

オラフソン コロナ禍においては多くの人たちが、どれだけ音楽を愛しているか再認識できたのではないでしょうか。コロナ禍ではアート・シーンを巡って人々は悪いことばかりを想定していました。しかし、クラシック音楽のストリーミングのプラットフォームが成長したことは重要です。実際、Spotifyではこの1年、私の音源だけでも1億回以上も再生されているんです。クラシック音楽界には非常に多くのリスナーを抱えているアーティストはたくさんいますから、それを全部まとめたら、歴史上かつてないほど、クラシック音楽が人々の生活の大きな一部になっているのではないでしょうか。しかし、それについてはあまり語られていないですよね。すごい時代が来たことに、みんながあまり気付いていない。

——音楽の聴き方に、新しい選択肢が生まれたと感じますか?

オラフソン 音楽は必ずしも音楽ホールで、あるいはヘッドフォンで目を閉じながら、集中して聴き続ける必要はなく、何かしながらBGMにすることだってできます。それはコロナ前からも変わらないことですが。

私がグラモフォンで最初のバッハのアルバムを出した2018年、ミュージックビデオの撮影をアイスランドの魚の加工工場で行なったんです。工場にグランドピアノを持ち込んだところ、そこで働く人たちは、みんな仕事をしながらバッハの音楽をとても楽しんでくれました。人はクラシック音楽の持つ包容力を過小評価しがちなのかもしれませんね。

——オラフソンさんの音源の総ストリーミング再生回数は6億回以上という脅威的な状況となっています。

オラフソン ありがたいですね。6億って、ちょっと想像し難い数字ですが、Spotifyアプリのアカウントをひらけば、リアルタイムで分析が表示されて興味深いです。ちょっと開いてみましょう。……あ、今1552人が聴いていますね。ここ1週間で300万人ですね。サントリーホールは満席になっても2000人ですから、この数字はやはりとても驚異的です。なんといっても、私が寝ている間も人々は聴いてくれている(笑)。

作曲家のジョン・アダムズにこのことを話したら、彼は「バッハが生きていて、印税の一部が彼に支払われたらいいのにね」と言っていました(笑)。作曲家は作曲家のことを思いやってあげるんですね。確かにバッハが1741年に「ゴルトベルク変奏曲」を書いた時、彼は孤独でした。ほんの2、3人のために、バッハはこの史上最高の鍵盤作品を書きました。そして彼は、この作品が将来多くの人に聴かれることを期待していたかといえば、そうでもなかったでしょうね。当時は過去の音楽を演奏する習慣がなかったですから。すでに年老いていたバッハは、自分がこの世を去れば音楽も失われ、おそらく誰も演奏しないだろうとわかっていたと思います。

もし今、バッハに「6億人が聴いているよ」伝えられたら、彼は本当に驚くでしょうね。現在の地球上の人口以上の回数聴かれているなんて、考えられないだろうから。

祖国アイスランドが与えたもの

——オラフソンさんは、ミュージック・ビデオの作品性にも力を入れていますね。カルダロンの「アヴェ・マリア」やシューマンの「トロイメライ」の映像は、アイスランドの離島の風景が印象的でした。あなたの祖国であるアイスランドの自然や光景が、あなたの芸術性に与えている影響について、教えてください。

アヴェ・マリア

トロイメライ

オラフソン 言葉にするのは難しいですね。それは例えば、あなたが受けた母親からの影響は? と聞かれて、なかなか言葉にできないのと似ていると思います。とても深く影響を受けていて、単純には表現できませんよね。

ただ、アイスランドや日本のような島国の出身の人たちは、自然が予測のつかないものであることを知っていると思います。

私がアイスランドで好きなところは、すぐに一人きりになれるところです。島の人口密度は低く、火山や氷河や温泉が多い。電線のような人工物が何も見えない場所にすぐ行けて、完全に一人になれます。そして耳を澄ませ、風の音を聴き、植物のそよぐ音を聴き、すべての音を聴く……そうすることが大好きです。そうした空間や静けさから、何かしらの影響は受けていると思います。まさに「アヴェ・マリア」の映像では、アイスランドの孤独を表現したかったのです。一方で、アイスランドには地震や火山の噴火のような、カオスもありますが。

もうひとつ言えるのは、アイスランドはアメリカとヨーロッパの中間に位置していて、世界の中でも興味深い場所にあるということ。首都レイキャビクから飛行機で4時間半でボストンに、同じく4時間半でフランクフルトに行くことができます。2つのまったく異なる文化圏の間に位置しています。私たちは西洋からも東洋からも、ヨーロッパからもアメリカからも影響を受けていると思います。そのことはアイスランドの多くのクリエイティブな人々に何らかの影響を与えていると思います。

——クラシック音楽の世界に新しい切り口を示してくれているオラフソンさんですが、今後はどのような展望をお持ちですか? 

オラフソン そうですね、坂本龍一さんと準備していたプロジェクトが実現できなかったのはとても残念です。坂本さんはバッハの「リワークス」のアルバムに素晴らしい作品を提供してくださっていたので……。

——過去のインタビューで「鳥が大好き」とお答えされていました。今後、鳥をテーマにした作品などにも興味はありますか?

オラフソン メシアンの「鳥のカタログ」は、10年前のリサイタルで、全20曲中10曲を、映像作家と一緒に取り上げたことはありましたね。とても面白かった。そう、鳥が好きなんです。世界に美をもたらしてくれる生き物ですから。ラモーやシューマンやモーツァルトの作品に聴かれる鳥の声のような表現も大好き。そうですね、いつかそんなテーマを取り上げる可能性はあるのかも。いずれにしても、音楽を通じて自然を表現する方法を考えることには、とても興味があります。

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飯田有抄
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飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

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