無償で子どもたちが音楽活動を続けられるシステムに——エル・システマジャパン菊川穣
サステナブルな明るい未来のために活動されている方と対談し、音楽の未来を考えていくソプラノ歌手の田中彩子さんの対談連載「明日へのレジリエンス」。
第7回のゲストは、東日本大震災の翌年から、4つの拠点の子どもたちにオーケストラやコーラスの音楽活動を無償で支援しているエル・システマジャパンの代表理事、菊川穣さん。その心得や現実、この10年間の変化などを伺いました。
音楽家としての生き方にもヒントをもらえると田中さんが考える、その在り方とは?
1971年神戸生まれ。95年ロンドン大学ユニバーシティーカレッジ地理学部卒業。96年同大学教育研究所政策研究修士課程終了。(株)社会工学研究所勤務を経て、98年より国...
3歳からピアノを学ぶ。18歳で単身ウィーンに留学。わずか4年後の22歳のとき、スイス ベルン州立歌劇場にて、同劇場日本人初、且つ最年少でソリスト・デビューを飾る。ウィ...
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...
ベネズエラとアルゼンチン、同じルーツをもつプロジェクトの先輩にお会いしたい!
——お二人の交流は、どのようにはじまったのですか?
田中 アルゼンチンの青少年オーケストラのプロジェクトを始めてから、私としては一度お会いしたいというか、むしろ長年(ベネズエラ発祥の)エル・システマジャパンをやっていらっしゃる菊川さんにはご挨拶をしておかなくてはと思っていて。
田中 そんななか、知人からコンサート(2021年9月24日紀尾井ホールで開催予定)にゲスト出演してほしいという話をいただき、そのコンサートにエル・システマジャパンも参加予定という偶然が重なり、運よくお会いすることができました。実際にお会いした菊川さんは想像とは違ってすごく穏やかな方で、このような方がこんなに大変なプロジェクトを長らくやっていらっしゃるんだと感銘を受けました。
10年間、いろいろなことがあったと思いますが、振り返るといかがですか?
菊川 あっという間だったような、長かったようなという感じです。もともとこのプロジェクトは、まさに晴天の霹靂のような形で、私のもとに舞い込んだものでした。
菊川 東日本大震災が起きた2011年、当時の私は、ユニセフの震災復興プログラムの責任者で、東北地方をたびたび訪れていました。特に福島では、先が見えず、このままその場所に暮らしていてよいのかという不安を、子どもたちまでもが感じながら過ごしていました。私はその不条理な状況に対して、怒りを覚えてしまったんです。まったく本人たちのせいでないことにより、どうしてこんな苦難を強いられなくてならないのかと。
相馬の復興には30〜40年かかるといわれるなか、小学6年生の子が、その期間は自分の人生そのものになると思う、復興のために役に立つことをしたいと話しているのを聞いたら、こみ上げるものがありました。
子どもたちのためにできることはないだろうか。そう思っていたときに、ユニセフの親善大使である、ベルリン・フィルの木管五重奏が仙台に来る機会がありました。多くのアーティストが来日を取りやめるなかでの公演でしたから、みんながとても喜んでくれました。
その際、ホルン奏者のマクウィリアム氏から、日本でもエル・システマをやってみてはどうかという話を持ちかけられたのです。もちろんベネズエラで成功したエル・システマのことは知っていましたが、それを音楽環境の恵まれた日本で行なうことは、想像がつきませんでした。でも、「エル・システマは世界中にいろいろなやり方がある。日本でもできるはずだ」という言葉に励まされて、動き出したのです。
その中で大切にしたかったのは、長く続けていくということ。それには公的な仕組みとコミットすることも必要で、その整備には力をいれました。
オーナーシップを大切に、自治体の現場と意見交換する
田中 どんなふうにコミットしていったのですか?
菊川 幸いそれまでの活動から、相馬市の市役所の方たちとの関係が築かれていたので、うまく話を進めることができました。加えて心がけていたのは、それぞれの人が納得して取り組んでいるプロジェクトであること。できるだけボトムアップの形になるよう、現場のいろいろな方と意見交換をしておきました。
こうしたプロジェクトは、トップが動いてくれると物事が決まるのは早いのですが、それだと追々、上の人から言われたからという理由で、不満を抱えたまま携わる人がでてきてしまいます。それでは長続きしません。
——ボトムアップの手法の大切さには、いつごろ気づかれたのですか?
菊川 ユネスコ、ユニセフで9年間アフリカにいたときですね。発展途上国に行くと、国連機関の人間は、たとえ20代の新人職員でも権威と見られがちなので、みんな表向きは話を聞いてくれます。しかし現実には、真剣に取り組んでもらえないこともあるのです。
現地の人たちが納得し、自分がやるべきだと思うからやる、子どもたちのために大切だからやるという気持ちになっていないと、長続きしません。金の切れ目が縁の切れ目、ではないですけれど、資金が出なくなった途端、あっさりとやめられてしまうことも多いんですね。
そこでよく大切だといわれるのが「オーナーシップ」、日本語では「当事者性」という言葉が一番近いと思うのですが、自分のことは自分で決めるという人々の意識です。
菊川 これは自戒をこめていいますが、震災直後、オーナーシップのないプロジェクトがたくさん行なわれたと思うんです。例えば、有名人が被災地で何かをしてくれれば、もちろんみんな嬉しいのでそのときは盛り上がるのですが、学校の職員も毎週末イベントが続くと、だんだん疲弊して、なんのためにやっているのだろうという気持ちになるようなのです。純粋な善意からなされることであっても、そうなる可能性がある。
エル・システマジャパンでは、子どもたちが当事者として何を求めているのかを意識しています。すると、今は子どもたち自身が、プロジェクトにどんな意味があるかを語ってくれるようになりました。これこそ、オーナーシップが生まれていることの証だと実感しています。
互いに教え合い、憧れの曲を弾く喜びを共有する
田中 成果が目に見えない頃は、子どもたちも練習に身が入らないこともあるのではないかと思いますが、やりたいと思わせるために大事なことはなんだったと思いますか?
菊川 作品のもつ潜在的な力こそが、大きな意味を持っていたと思いますね。もともとクラシック音楽が好きなので、これは、私がエル・システマに惹かれた理由の一つでもあります。
例えば、モーツァルトやバッハの弦楽合奏曲を取り上げる場合、子どもたちは、音が間引きされたビギナー向けの合奏楽譜を使って演奏します。それが合わさると、オリジナル作品の響きが生まれる。これが大きなモチベーションになったようなのです。そこに喜びが生まれるのは、作品に普遍的な価値があり、子どもたちが憧れるからだと思うんですね。
——子ども同士で教え合うことも、良い効果をもたらしているようですね。
菊川 そうですね。自分が吹奏楽部に入っていた高校生の頃を思い返すと、できる先輩が後輩の面倒をみるというのは、子どもたちが普通にやっていることではあるんです。エル・システマの場合は、それがもっと小さい子同士でも起きています。みんなで合奏することが常に念頭にありますから、自分のほうができると単に優越感を持つのでなく、自然とできない子に教える形になるのでしょう。
田中 学校に行けない子でも、みんなで演奏するなかで人とのかかわりや共同生活を学ぶことができるメリットもあると拝見しました。
孤独を感じたとき、そういう仲間がいるのとないのは、まったく気持ちが違いますよね。
そんなことを思いながら、3月に行なわれたコンサート「世界子ども音楽祭2021 in 東京」のオンライン配信を聴いていたら、もう涙腺崩壊しました。もともと、世界中から子どもが集まる予定だったのですよね?
コロナ禍の制約のなかでも前向きだった3月の音楽祭
菊川 はい、2020年に予定されていた演奏会を新型コロナの影響で延期にすることになり、今年3月に東京芸術劇場をおさえたのですが、結局は緊急事態宣言の最中となってしまいました。東京ホワイトハンドコーラスもずっとオンライン練習で、何度か集まることができたときも、マスクをして壁に向かって歌う状態でした。それでもみんなで歌うことができて、彼らは本当に楽しかったようです。
田中 ZAIKOというチケット販売システムで、コンサートチケットの購入と同時に募金ができるようになっていたのもすばらしいと思ったのですが。
菊川 このパンデミックのなかでいろいろなシステムが立ち上がりましたが、今回使用したシステムは、募金の手続きが簡単だったことも手伝って、多くの方がご協力くださいました。システムの導入から、ユニバーサルアクセスの準備、障がいがある子でも安心して会場で過ごせる手配など、やらなくてはならないことが多くて、改めて主催してみると大変でした。がんばってくれたスタッフのみんなには、本当に感謝しています。
本番でも流された各拠点の紹介と世界のエル・システマの仲間たちからのメッセージの動画(再生リスト)
田中 自分でコンサートをオーガナイズするアーティストにとっても、参考になる内容だったと思います。
そして今度は、9月24日の紀尾井ホール公演で、プロのオーケストラとエル・システマの子どもたちが一緒に演奏し、私は東京ホワイトハンドコーラスと一緒に歌わせていただきます。私自身とても楽しみにしているのですが、子どもたちにとっても記憶に残る経験となるといいなと思っています。
菊川 そうですね、とくに東京ホワイトハンドコーラスのメンバーには、特別な聴覚をもつ子が多いので、何よりも貴重な経験になるだろうと思います。子どもの活動を見ていておもしろいのは、こちらが想像もしていないような成長を見せてくれることですね。
資金を確保し続けるために
田中 こうしたプロジェクトは、資金面を安定させることもやはり大変なのではありませんか?
菊川 はい、最初は地方自治体をはじめとする公的な機関からの資金を確保して続けてきましたが、震災から10年が経ち、復興支援関連の予算が減ってくると、また別の資金源を確保しなくてはならなくなります。個人や企業を巻きこむことにも積極的になる必要があります。震災の記憶が薄れていくなかで、どういう形で次の5年、10年を続けていけるかは私たちの課題です。
こうしたプロジェクトはどうしても、「こどもの貧困の問題を考えると、音楽よりも、食べるものや学習の機会のほうが優先度が高いのでは?」と思われてしまいがちです。実際、その見方には正しいところもありますが、一方で、だからこそこうした音楽の支援も残していく必要がある。その意味を伝え続ける努力をしていかなくてはと感じています。教える講師もボランティアでは続きませんから、資金はしっかりと確保していきたいです。
田中 一般の音楽界でも「音楽をする人もお金がないと生きていけない」ということがあまり理解してもらえないことが多いんですよね。根本からシステムを変えることで、音楽家の経済的な面がうまくまわるようにならないかというのは、この連載でもテーマとしていることです。
エル・システマは、単に厳しい環境に置かれた子が音楽に取り組んでいるという話ではなく、音楽家が今後どう生きていくか、どう経済的に自立して歩んでいくかの道筋を見せてくれるような気もしています。
菊川 エル・システマの一つのこだわりが、すべての子どもが無償で参加できるということです。
日本では習い事が充実しているのだから、経済的に厳しい家庭の子はわかるけれど、そうでない子も無償にする必要があるのかとよく言われます。ただ日本の場合は、家庭の所得基準によって明確に線引きをするのが難しいんですよね。それに貧しい子だけが集まるオーケストラとして扱われると、子どもたちも参加しにくくなってしまいます。
以前、ベネズエラからシモン・ボリバル・ユース・オーケストラが来たときも、メディアは「刑務所にいたのはどの子ですか」というように、かわいそうな子を探そうとしたりするんです。でもそれは、本当に子どもたちのためにはなりませんよね。
だれもそこを意識せず、みんなが一緒に音楽をできる環境が整えられたらと思っているのですが、悩ましいところもあります。
田中 人種、性別、生活環境に関係なく子どもたちが集い、音楽だけがつながりであるというのは、すばらしいことです。
菊川 ファンドレイジング(資金集め)の視点から見ると、困っている家庭の子どもに絞ったほうがいいという考え方もあるんです。でも大体の場合、子どもたちのためを思えば、いろいろな家庭から受け入れたほうがいいということを話すと、わかっていただけます。
福島で大変な目にあってかわいそうだと見られることを嫌がる子もいますが、エル・システマジャパンでは、それぞれが純粋に音楽を楽しむことが、まず大切です。それが結果的に人に感動を与え、しかも世界の人に通じるのだということを、子どもたちも実感してくれているのではないかと思います。
よく、ドゥダメルのような人を育てることが目標ですか? と聞かれることもあって、もちろんそういう子が出てくればそれもいいのですが、私としてはなにより、この活動を通して、子どもたちがより豊かな人生を見つけてくれたらと思っています。
システムを常に変える勇気をもって続けていく
——プロジェクトをさらに広げていくご計画は?
菊川 臨機応変に、普遍的なものを共有していくなかで、広がりもあるかもしれませんね。
エル・システマのコンセプトで納得した話に、創設者であるアブレウ博士がエル・システマとは何かと聞かれて、「それはそこにあるけれど、形はない」と答えたというものがあります。
私も初めは、「エル・システマ=The System」というくらいですから、何か理想的なシステムがあるのだろうと思っていました。でも実際ベネズエラに見学にいって、どうやらそういうものがあるわけではないらしいとわかってきました。
実際、人間には、身体的な障がいであったり、自然災害の被害だったりいろいろな困難があって、それに対応するシステムに、一つのユニバーサルなものがあるはずはないのです。今日のシステムは、明日には古くなっているというくらいの覚悟でやっていくべきなのだと思います。
一方で、その中心には永遠に新しいクラシカルな作品を置き、つないでいく。そこに普遍的な価値が生まれるのだと思います。臨機応変に常に変えていく勇気を持てば、変わらず普遍的なものの意義が、よりはっきりと見えてくるのではないでしょうか。
田中 エル・システマジャパンは、本当に宝のようなプロジェクトだと思います。本日は目からうろこのお話ばかり、どうもありがとうございました。
エル・システマ・ジャパンが創立されてから10年、
田中彩子
対談のダイジェスト動画
日時: 2021年9月24日(金)19:00開演
会場: 紀尾井ホール
出演:
木許裕介[エル・システマ ジャパン音楽監督(オーケストラ)]指揮・東京ニューシティ管弦楽団
田中彩子(ソプラノ)
東京ホワイトハンドコーラス
料金: 6,000円(税込)すべて指定席
チケット申し込み・問い合わせは公式サイト
主催: NPO法人ユーラシア21研究所
1971年神戸生まれ。95年ロンドン大学ユニバーシティーカレッジ地理学部卒業。96年同大学教育研究所政策研究修士課程終了。(株)社会工学研究所勤務を経て、98年より国...
3歳からピアノを学ぶ。18歳で単身ウィーンに留学。わずか4年後の22歳のとき、スイス ベルン州立歌劇場にて、同劇場日本人初、且つ最年少でソリスト・デビューを飾る。ウィ...
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