第9回:東京芸術劇場 事業企画課長 鈴木順子さん
コンサートホールのプロデューサーを長年務められている鈴木順子さん。サントリーホールや「ラ・フォル・ジュルネ」の日本での立ち上げに大きく貢献した方だ。ラ・フォル・ジュルネでの仕事を通じて「順子さん」と慕うようになった飯田さんも知らなかった、鈴木さんの華麗なる経歴と、穏やかな雰囲気の中に秘めた強さの秘密に迫る。
コンサートで過ごすひとときは、ちょっとした非日常だ。どんなに広い豪華なホールでも、アットホームな小ホールでも、演奏やプログラムはもちろん、ホールで過ごす時間全体を楽しみたい。池袋の東京芸術劇場は、大規模なコンサートホール、舞台芸術が行なわれるプレイハウスやシアターのある施設だ。
こちらでお仕事をする鈴木順子さんは、長年にわたりコンサートを巡る理想的な場づくりを考え続けてこられた人だ。サントリーホールや王子ホール、東京国際フォーラムでスタートしたラ・フォル・ジュルネ音楽祭の立ち上げの現場に関わってこられ、日本におけるコンサート文化の創出を担ってきたお一人とも言える。そんな鈴木さんのお仕事にまつわる「これまで」と「今」について伺った。
音楽ホールのサービス、その礎を作る
「やってみなはれ」精神を抱く
——東京芸術劇場で鈴木さんがお仕事を始められて、4年とのことですね。
鈴木 はい。主に音楽事業の内容を考えながら、誰もが劇場に近づきやすい環境づくりにも工夫をこらし、同時に若い人材の育成・教育事業にも力を入れています。
――人を育てるというお仕事については、ぜひゆっくり伺ってみたいですが、その前に、今のクラシック・コンサートのあり方に深く関わってこられた鈴木さんご自身が、どう「育って」こられたのかを伺ってみたいです。音楽事業に関わるスタートは何だったのですか?
鈴木 大学卒業後にサントリー株式会社(現・サントリーホールディングス株式会社)に就職して、サントリーホールの立ち上げに関わったことですね。
――最初からホール設立に携わる社員としての応募だったのですか?
鈴木 いいえ、そうではなく一般就職としての入社です。……と言っても、今では信じられないお話かもしれないですが、当時4年生大学を卒業した女性を採用する会社はほとんどなかったんですよ。
――えええっ!?
鈴木 男女雇用機会均等法などができる、もっと以前の話ですから。なので、女性を採用するという会社の説明会にはすべて行きました。サントリーという会社は、若い人でも自由にいろんなことに挑戦できる会社だとは聞いていたのですが、説明会に行ったら、配られた冊子の表紙にひとこと、「やってみなはれ」と書いてありました。この言葉にはすごく触発されましたね。なんて面白そうな会社なんだろう! と。
1979年、晴れて入社が決まり、最初は人事課へ。次に広報部へ。お酒のPRや紹介文などを書いていました。当時からサントリーは美術館や音楽財団などの文化事業も行っていましたから、やがて美術館のPR担当に。
そのうちにサントリーがウィスキーづくり60年、ビール発売20周年の記念事業としてサントリーホールを作るという話が出てきました。私はたまたま音楽が大好きだったことから、ホール設立準備室のチームに所属することになったのです。それが今につながる仕事の始まりですね、今思うと本当に幸運でした。「世界一美しい響きを求めて」という、ホールのはっきりとした目標を世の中に伝える仕事から関わりました。
そしてこれが、私の原点。通称“黒本”です。
――豪華な本! 高級感漂う黒色の装丁、そして金色に輝くこの厚み! これは一体……?
鈴木 これはサントリーホールが1986年10月にオープンし、3月までの半年間開催された「オープニングシリーズ」の際に発行されたプログラムです。
――(……ぺージを開くと、あまりの内容の濃さと、冊子としての質感の良さに、しばし絶句……)すごいですね。600ページあります。オープニングに寄せられたカラヤンの言葉、ジョン・ケージ、クセナキス、武満徹さんらの作曲家インタビュー、小澤征爾さん、内田光子さん、ケント・ナガノさんのお写真……みなさんお若い! それにしても大変豪華な内容。もう1回言いますが、ここ、金です!
鈴木 これがバブルです(笑)。
――これがバブルですかっ!(バブル未経験世代)
鈴木 1986年は本当に景気も良かったですからね。華やかな時代でした。
それまでクラシック音楽を聴くホールは、東京文化会館や日比谷公会堂がメインでしたが、私企業がやるなら、ホールの響きはもちろんのこと、誰もが満足できる周辺サービスも充実させようということになりました。
当たり前ではなかった、ホールのサービス
――ホールでチケットをもぎって座席を案内してくれる優しい「レセプショニスト」のみなさんの存在は、サントリーホールが最初だと聞いたことがあります。
鈴木 そうです。ご案内の仕方を一流ホテルと同じくらいのレベルに高めよう、と。それまではコンサートのチケットもぎり方なども、本当に味気なくて、働く人たちは「制服」というよりは「うわっぱり」みたいなものを着ていました。
サントリーではもともと工場案内のサービスをするスタッフの所属・育成する部署があったので、クラシックのホール案内として質の高いサービスができる人も育てようということに。その流れが今や、全国のホールへと広がりました。
休憩中にワインやシャンパンを楽しめるのも、それまでは当たり前じゃなかったんですよ。このサービスには、お偉い評論家も喜ばれて、バーコーナーに入り浸る先生もいらっしゃいましたね(笑)。
――そうだったんですか。今では当たり前に感じている音楽ホールのホスピタリティの原点が、鈴木さんが携わったサントリーホールのスタートにあったのですね。
世界最大級のクラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」を日本で立ち上げる
王子ホールと東京国際フォーラムの立ち上げ
――サントリーホールの次に、銀座の王子ホールのオープンに関わられたとのことですね。
鈴木 はい。サントリーホールにはオープンしてから3年ほどいましたが、そのあと産休に入り、復帰してから王子ホール立ち上げに関してお声がかかり、1991年から準備を進めました。
王子ホールは315席という小ホールで、一流の独奏や室内楽を身近に聴かせるという、サントリーホールとはまた違ったコンセプト。92年10月のオープン時には、ロストロポーヴィチのバッハの無伴奏チェロ組曲全曲や、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏団によるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲などを企画し、チケットは完売しました。
私には常に新しいものにチャレンジしたいという気持ちがあって、それがDNAというか、性というか、「やってみなはれ」に飛びついちゃうところがあるんですね。かなりエッジの効いた企画でも、315席という規模ならお客様を呼べるだろうと考え、石田一志さんに関わっていただいて20世紀音楽の特集をやったり、本名徹二さんに音楽監督になっていただいて室内オーケストラを立ち上げるなど、挑戦的なプログラムも組んでいきました。
――4年後に、やはりオープン前の東京国際フォーラムに移られましたね。
鈴木 王子ホールは銀座ですから、ランチタイムに有楽町のほうまで出て行くことがよくあったんです。あるときから都庁の跡地一体にすごい塀ができて、東京駅のほうまでずっと続いていた。何ができるんだろうと思っていたら、なんでも5,000人が入るホールができるというじゃないですか。人を募集をしていると聞き、また大きいところでやってみたいという気持ちが疼いて、ついつい……(笑)。
――ついつい応募されたわけですね(笑)
鈴木 東京国際フォーラムは1997年1月にオープンしましたが、私は96年4月に入りました。もうだいたいハードは完成していて、ピアノや譜面台やオーケストラの椅子を購入するといった、備品のことや具体的な運営を考えていくタイミングでした。
オープニングシリーズは3ヶ月間。5,000人が入るホールAではポップス界の一流アーティスト、1,500人規模のホールCではクラシックのコンサートが開かれました。ただし、クラシックはその後が続かなかった。フォーラムは貸館事業中心の多目的ホール。音響面や収容人数などの理由から、いろいろなコンサートが2,000人入る専門ホールへと流れていってしまったのです。
東京国際フォーラムにラ・フォル・ジュルネを!
鈴木 私としてはクラシックを呼び戻したいという気持ちがありました。フォーラムでしかできないクラシックのコンサートとは何かを考え続け、オーケストラや音楽事務所にアプローチを続けました。
そんな折、2002年に梶本音楽事務所(現KAJIMOTO)さんから、フランスのナントで行なわれているラ・フォル・ジュルネ音楽祭(以下、LFJ)の映像を見せていただいたのです。複数のホール、会議室なども使って、同時にたくさんのコンサートを行なう音楽祭。ナントの会場はフォーラムとよく似ていて、これだ! と思いました。
――それが鈴木さんとLFJの出会いでしたか。
鈴木 クラシック音楽の民主化をコンセプトに掲げ、低価格で45分の公演を同時多発的に行ない、誰もが楽しめる音楽祭。そんな革新的で大規模な事業について、まずはその魅力をフォーラム内でわかってもらおうと、いろんな人を説得していたのですが、一体だれが主導となって行なうのか、なかなか決断がなされずに、苦境に立たされました。
ところが、ちょうどその頃にフォーラムが財団法人から株式会社に変わることになりました。丸紅社長・会長だった故・鳥海巖さんが社長に就任し、企業とは社会貢献をすべきであり、LFJはその活動に当たるのではないかと捉えたことで、開催が決断されました。
――LFJは、ゴールデンウィーク中の閑散としていたオフィス街・丸の内を、すっかり変える一大イベントとなりました。
鈴木 土日も人っ子一人いない街でしたが、三菱地所さんの開発との相乗効果もあって、今ではずいぶん変わりました。
――日本のLFJがスタートしたのは2005年ですね。
鈴木 まずは2003年の1月にナントに私一人が視察に行き、2004年は社長ほか何名かの社員が行って、いよいよ開催が決定しました。そこから1年ちょっとで日本での音楽祭を実現したので、あの1年は本当に大変でした。
綿密な組織図を作り、チケット担当、表回りの運営の担当、関連イベント担当、設営担当、広報担当……社員ほぼ全員でやりました。それだけ大規模な事業ともなると、後ろ向きな気持ちの人も中にはいるわけです。そこは総合プロデューサーで現在の狛江市長・高橋都彦さんに号令をかけてもらい、とにかく一丸となってがんばりましたね。
――初回のLFJ、「ベートーヴェンと仲間たち」は伝説的な成功を収めました。
鈴木 「クラシックの常識を覆す」という、本場フランスのアーティスティック・ディレクター、ルネ・マルタンのコンセプトに従い、クラシックに抱かれがちな敷居を取り払おうという工夫を凝らしましたが、発売当初はチケットがなかなか売れなくて大変だったのです。
――そうだったのですか?
鈴木 チケットは全部で13万枚。4月29日~5月1日の開催期間で、12月に売り出したのですが、ほとんど売れず。3月になっても全然売れず。4月の時点でようやく2万枚数。
――総数からすると、マズいですね……
鈴木 8万枚を一応の成功と目標設定にしていたので、どうしようかと悩みました。特別協力で読売新聞社さんが付いてくださり、見開きで広告を出してみることにしました。
「音楽の島であそぼう!」というキャッチコピーを付け、チェコのイラストレーター、イジー・ヴォトルバさんに、東京国際フォーラムが音楽の島と化し、そこにアーティストもお客さんもみんなが集まって音楽を楽しんでいるというイメージを描いてもらいました。
これがすごい反響で! そこから週に1万枚売れました。問い合わせもたくさん入り、本番前に6万枚まで来ました。
――目標まであと2万枚!
鈴木 そして迎えた当日の朝。会場に入ると、なんとそこには当日券を求める人たちの長蛇の列ができていました!
――なんと! 当日ふらりと来た方が多かったのですね。
鈴木 きっと遊園地やテーマパークに遊びにいく感覚で来てくださったのでしょう。チケット担当の「ぴあ」さんの窓口は大変なことになりました。4時間並んで、ホールAの公演チケットが1枚しか買えなかった、というお客さまもいらした。最終的には11万5千枚が売れました。
従来のクラシックファンなら、チケットは事前に買う人が多いですが、アンケートによれば、クラシックのコンサート経験が、「初めて」あるいは「1~2回」という人が50%を占めていたのです。
――それから日本のLFJは13年。鈴木さんはその後、第10回まで携わってこられました。
鈴木 そうですね。この最初の年と、震災があって開催が危ぶまれた2011年は大変でした。
――その後2014年から、こちら池袋の東京芸術劇場へと移られ、新しいチャレンジを続けておられます。
人を育て、地域に賑わいをもたらす劇場づくり
後進を育てるという、新しい挑戦
――これまで、新しいホールやイベントの立ち上げに携わってこられた鈴木さんですが、東京芸術劇場ではどのような取り組みをなさっているのでしょうか。
鈴木 私の中で次のステップとして進めていきたいのが、後進を育てるということです。自分が引っ張って事業を起こしていくだけでなく、それをできる人たちを育てていきたい。東京芸術劇場は素晴らしいホールはさることながら、人材教育に力をいれている場所なのです。
――たしかにコンサートをプロデュースするために必要なこと、現場のことなどについては、どこかで教育してもらえるものではありませんでしたね。
鈴木 東京芸術劇場では、私が入る1年前の2013年から「アーツアカデミー」という事業をやっていて、研究生を募り、演劇や音楽の舞台芸術を制作できるスタッフを育てています。座学プラス実際の仕事現場を体験してもらいます。
一度社会に出たけれど、やっぱり演劇が好き、音楽が好きというキャリアチェンジを図りたい人を想定していましたが、音楽のほうでは音大の新卒者が応募しています。半年と1年のコースがありますが、修了後はみなさん公共ホールなどに就職していますね。毎年数名の募集ですが、平成30年度も20人以上の応募があり、2名を採用しました。
――学びたい意思をもった若い人は多いのですね。
鈴木 制作側の人材育成だけではなく、芸劇ウインド・オーケストラ・アカデミーは、演奏家も育てています。ただし、実技の指導や演奏の機会を提供するだけではなく、もっと広く、音楽家が社会に携わって活動する方法を勉強してもらっています。上野学園大学の杉山幸代さんにキャリアアップゼミをやってもらったり、自己分析・自己プロデュースの方法についてレコード会社の人からのアドヴァイスをもらったり、経済面では青色申告のやり方だとか、学校や病院でのアウトリーチ活動の方法についても教えています。
――「劇場」という場が、人を育てる場所としても機能し始めているのですね。
日常と非日常をつなぐ大道芸人も育てます
鈴木 さらには地域の活性化も、劇場やホールが担う時代となりました。2012年に「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」が制定され、劇場やホールは地域の人たちから愛され、芸術文化への入り口として人々が集う場所として機能することが定められました。芸術の創造発信もしながら、地域の賑わいづくりも行なうのです。
東京芸術劇場は1階が広いパブリック・スペースとなっていて、そこから人々が入って、プレイハウスで演劇を観たり、ホールで音楽を聴くという流れがあります。そのため、劇場前広場での「賑わいづくり」として、土日の昼は大道芸をやっています。
芸劇では大道芸人を育てる事業「ストリートアーティスト・アカデミー」も開講しているんですよ。大道芸人になりたい人や、すでに活動中の人も含め、フランスからの大道芸人を講師に招いたりして学んでいます。大道芸は演劇、ダンス、サーカスなどにも通じるアートなのです。
――よく考えると、大道芸は深いですね。彼らは日常と非日常、生活の場と劇場とを橋渡ししてくれる存在かもしれない……。豊島区は今後、東口にも複数の劇場ができるなど、芸術文化発信地として発展しそうですが、これまで文化を牽引してきた西口の東京芸術劇場の取り組みも楽しみです。
鈴木 西口も開発が進み、芸劇前の西口公園でもコンサートや舞台芸術のできる常設ステージができる予定です。ライブ・ビューイングのできる設備もできる予定なので、2020年のオリンピック・パラリンピック観戦などができるようになるでしょうね。
芸劇としても、若い人たちにどんどん来てもらえるような仕掛けを、今後も考えていきたいです。昨年盛り上がった「ボンクリ・フェス」(現代音楽、電子音楽、民族音楽などを楽しめる音楽フェスティバル)も今年は9月に開催です。現代の新しい音楽を聴ける場も積極的に作っていこうと思います。
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