牛田智大インタビュー【前編】ショパン演奏に求められる相反する要素の絶妙なバランス
ピアニストの牛田智大さんが今年、デビュー10周年を迎えます。3月には東京で記念リサイタル「オール・ショパン・プログラム」を開催し、そのライブ録音『ショパン・リサイタル2022』を8月末にリリース。
クラシックの日本人ピアニストとして最年少の12歳で鮮烈なCDデビューを果たして以来、ずっと探究を続けてきたショパンを中心に、これまでの10年間を振り返るメール・インタビューを行ないました。
2019年夏、息子が10歳を過ぎたのを機に海外へ行くのを再開。 1969年東京都大田区に生まれ、自然豊かな広島県の世羅高原で育つ。子どもの頃、ひよこ(のちにニワトリ)...
小学5年生のときに初めてショパンのコンチェルトを本番に上げました
——私が初めて牛田さんのピアノを聴いたのは、牛田さんがまだ10歳にも満たないころで、ラン・ランさんの公開レッスンの時でした。そのとき、ラン・ランさんにお声をかけていただいたこと、教わったことなどで、印象に残っていることを教えてください。
牛田 もはや記憶はだいぶ薄れてしまいましたが……小学生時代にラン・ラン氏のレッスンを受けることができたことを光栄に思っています。
短い時間の中で美しいレガートやフレージングのコツ、作品に構成感を持たせる方法、クライマックスの築き方などを端的に語ってくださいました。当時の自分には知り得ない視点がたくさんあり、非常に刺激的でした。
——小学6年生で出場されたショパン国際ピアノコンクールin ASIAでは、ポーランドのクァルテットと共演し、最高位を受賞。とても堂々とした演奏でした。
牛田 10代初めにショパンの協奏曲を集中して勉強できたことは、素晴らしい経験でした。当時の実力からすればかなり背伸びをした選曲でしたが、レガート、フレージング、音の色彩感など、ピアニストとして求められる多くの技術を、この作品を通して習得することができたように思います。
——ショパンのコンチェルトを演奏したのは、その時が初めてだったのですか?
牛田 幼稚園のころに子ども向けの小さなコンチェルトを演奏したことはありましたが、初めて取り組んだ本格的な協奏曲は、ショパンです。2011年、小学5年生のときに初めて本番に上げました。
——そのころからワルシャワのショパン・コンクールを意識していたのでしょうか?
牛田 実はまったく意識していませんでした。それこそ、浜松国際ピアノコンクールで予備予選の免除権をいただき、ショパン・コンクールを受けないのかと色々な方から訊かれるようになってから考え始めた、というのが実際のところです。
ショパン作品の勉強はライフワークにしたいと当時から考えてはいましたが、彼の作品における理想的な解釈とコンクールで受け入れられる解釈にいくらか相違があるように感じていたので、必ずしも必要なわけではないかなと考えていました。
ショパンの音楽の本質は相反する2つの要素のせめぎ合いにある
——人生の早い時期から、さまざまなショパン作品に取り組んでいますね。
牛田 初めに学んだのも、幼稚園の頃でしょうか。もはや憶えていませんが、確か遺作のワルツだったように思います。一見シンプルながら複雑な作品で、当時の自分には難しすぎたのか、あまりうまく弾けませんでしたね。
——子どものころの、ショパンの音楽に対するイメージは?
牛田 ショパンの作品に対するイメージは、子どものころから現在に至るまで変わらず「難しい」というものです。ピアニストとして持ちうるすべてのテクニックと頭脳を総動員しなければ、楽譜を理想的な形で再現することができず、それに加えて即興性や遊び心といった「センス」も要求されます。
ただ一方で、彼の作品は、子どものころから自分にとってもっとも共感できる存在でもあります。楽譜を読んだとき、どのようなアプローチが理想的か、どのように演奏すれば美しい響きが得られるか、といったことを最も自然に理解できるのです。ただ、頭で理解できてもそれを技術的に実現できるかどうかは別問題で(笑)……その点ではいつも苦労しています。
——おとなになってからの、牛田さんが考えるショパンの音楽の魅力を教えてください。
牛田 ショパンの音楽の本質は、相反する2つの要素のせめぎ合いにあります。先進的なアイデアと保守的なテクニック、自由なメロディ・ハーモニーと厳格なリズム、素朴な音楽性と複雑なスコア……それらのどちらにも偏ることのない絶妙なバランスが、彼の作品における特別な求心力につながっているのではないかと思います。
——牛田さんは、幼少のころからショパン作品を弾く機会が多かったと思います。ショパンから離れてみたいと思ったことはありますか?
牛田 もちろんありました。さすがに何年もショパンばかり勉強し続けると、気が滅入るものです(笑)。高校生時代はあまりショパンの作品に取り組まず、ロシア作品や古典派の作品を多く勉強していました。数年ごとにひとりの作曲家あるいはひとつのジャンルを集中して学ぶことにしていて、今年からはドイツ・ロマン派の作品を学んでいく予定です。
アナリーゼを音楽により美しいかたちで反映させるには
——過去のTV番組で、移動中に読譜している姿を拝見しました。楽譜には、いろんなカラーのペンか鉛筆で印がつけられていました。まだ10代半ばだったと思いますが、当時、和声やアナリーゼ(分析)はどのように勉強していたのですか?
牛田 15歳から数年間、作曲家のアルチョム・アガジャーノフ先生のもとでベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを集中的に学んだのですが、和声やアナリーゼの知識に関してはその時に得たものが大きいかもしれません。
作品の構造を理解することはもちろんのこと、それに加えて過去のいろいろな演奏家の録音を聴きながら、「純粋に楽譜から読み取れる音楽」と「演奏家の解釈」にどのような違いがあるのか、なぜ違ってしまうのかを議論したりもしました。
「アナリーゼをただの仕分け作業として終わらせてしまうのではなく、音楽により美しいかたちで反映させるにはどうすべきか考えなければならない」ということを、いまでもレッスンのたびに言われています。
ショパン演奏で心がけているのは楽譜に忠実であること
——牛田さんのショパン演奏を聴くたびに、出合ったことのない新しい響きが聞こえてくるのです。また、デリケートなルバートや気品のある表現などに、ショパン演奏の伝統も感じます。ご自身のショパン演奏をどのように捉えていますか?
牛田 自分では意識していない部分も多いのですが、ショパンの作品を演奏するときに特別に心がけているのは、「楽譜に書かれていることを忠実に守る」ことです。
当たり前ではないかと思われてしまうかもしれませんが、実は彼の作品における指示記号などの書き込みのなかには、慣習的に「無視してもよい」と考えられているものが多くあるのです。
例えば、ペダルなどは最も顕著な例です。多くのピアニストが、踏み続けるよう指示されている部分で何度も踏み替えてしまっています。現代と作曲当時の楽器の違いによって、濁りが生じることがしばしば理由にされますが、それならばペダルを踏み込む「深さ」を調節することで濁りを取り除くべきであり、踏み替えてしまっては響きが作曲家の意図とはまったく異なるものになってしまいます。
また、《幻想曲》Op.49の冒頭部分では、自筆譜は右手がスタッカート+スラー、左手はすべてノンレガートという左右異なるアーティキュレーションで書かれているにもかかわらず、多くの演奏家が「恐らく書き忘れたのだろう」という推測のもとに、左右を同じように演奏しています。しかし、楽譜の指示に忠実に演奏すると、まるでオーケストラのように複雑で立体的な響きを作り出すことができるのです。
牛田 このようにショパンの作品には、楽譜を注意深く読み、慣習を疑うことで新しい解釈を見つけられるものがたくさんあるため、演奏する際に心がけるようにしています。
——参考にしたピアニストの演奏を教えてください。
牛田 個人的に好きなのは、グリゴリー・ソコロフやユリアンナ・アヴデーエワの演奏です。時折、ショパンの演奏スタイルから逸脱しているのではないかと感じることもなくはないのですが、堅牢なテンポと構成感を保ちながらすべてのモティーフや和声が詩的かつ雄弁に示されていて、バランス感覚が本当にすごいな、と尊敬しています。
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