成田空港に降りて1秒で運命を感じたロシア人バリトン歌手、ヴィタリ・ユシュマノフ
クラシック音楽が生まれた西洋から見れば「極東」の日本は、海外の音楽人の目にはどんな国に見えるのだろうか?
日本を愛し、日本を拠点に活動する音楽人に、突撃インタビュー!
第1回は、成田空港に降り立った瞬間に運命的なものを感じたという、ロシア人バリトン歌手、ヴィタリ・ユシュマノフさん。堪能な日本語で、母国ロシアのこと、日本のこと、たくさんお話していただきました。
日本に関する予備知識や憧れなしで初来日したはずなのに、成田空港へ降り立った瞬間に運命的なものを感じたという外国人が、これまでいただろうか。ソヴィエト連邦のレニングラード(現在はロシアのサンクトペテルブルグ)に生まれたヴィタリ・ユシュマノフは、地元のマリインスキー劇場における若い世代の歌手を育成するアカデミーで声楽を学び、将来の華々しい活動を夢見ていた。
その人生を揺るがす大きな事件が起きたのは2008年1月。同劇場(ゲルギエフ指揮)の引っ越し公演に同行し、初めて日本に来たときである。日本に“ひと目ぼれ”した彼は、ドイツのライプツィヒへ留学するものの日本のことが忘れられずにいたが、縁あって来日の機会が徐々に増加。ついには2015年春から定住し、日本各地でコンサートなどを行なっている。
流暢な日本語も話せる彼に、限りない日本愛やロシアの歌などについてうかがった。インタビュー場所は、彼が「大好きな場所」として指定してきた東京都庁の周辺にて。
成田空港に降りて最初の1秒で「自分の居場所をやっと見つけた」と思えた
――大都会の中心地である都庁というのはちょっと意外でした。
ヴィタリ ここに来て、特に庁舎の前にある広場に立つと、特別な気持ちになるんです。だって『スター・ウォーズ』に出てくる風景みたいじゃないですか。もちろん日本に住んでからコンサートなどでいろいろな街へ行き、日本人が懐かしさを感じる風景などが素敵だと思ったこともありますけれど、やはり私にとって日本、特に東京は現代的、未来的なイメージなんです。
2008年に仕事で初めて日本に来たとき、宿泊したのが池袋のホテルでした。私は日頃から散歩が好きなので、そのときもまったく知らない街だけれど散歩に出たんです。あとから調べてみたら、新宿まで歩いて来ていたんですよ。そのときの記憶が残っていたのかもしれませんね。
――その初来日の前には、日本にどのくらい関心をもっていたのでしょう。
ヴィタリ まったく知りませんし、関心もありませんでした。ただ、私は自分がサンクトペテルブルグの街にずっと住み続けるとは思っていませんでしたし、いつも「どこかに行かなくてはならない」と思っていたのです。だからきっと、成田空港に降りて最初の1秒で「ここだ、自分の居場所をやっと見つけた」と思えたのかもしれません。その時点では空港しか知らないはずなのに「戻ってきた」という感じさえあったのが不思議です。でも、今こうして日本で生活していますから、間違いではなかったわけですね。
――最初の来日で滞在したのは何日でしたか。
ヴィタリ 5日だけでした。ロシアに帰ってからも「また日本に行けないだろうか」と思い続けて眠れないほどでしたけれど、少しずつ日本に関する情報を集め始めたのです。
――日本語がかなりお上手ですけれど、どうやって勉強されたのですか。
ヴィタリ 2012年くらいに教科書を買って、勉強を始めました。そうしたら最初のページに「あなたはこれから、世界でいちばん難しい言語を勉強しようとしています」と書いてあって、やめようかなと思いましたよ。実際に一度はあきらめたんです。似たような漢字が2つ並んでいて、私にはその違いがわからなかったから。
2013年に数週間だけ日本に滞在しましたが、2014年には1年の半分以上を日本で過ごすことになりました。そうなると会話ができなければ生活もできないなと思い、あらためて一生懸命に勉強したのですが、これでようやく日本との距離が縮まりました。
――日本に関する本や小説などは読みましたか。
ヴィタリ ロシア語やドイツ語に翻訳されたものでしたけれど、村上春樹や芥川龍之介などの作品を読みました。日本語の勉強にはなりませんけれど、とにかく日本に関することならできるだけ情報が欲しかった頃ですね。日本語で読むのは今でもまだ難しいですけれど、チャレンジしています。山本常朝の『葉隠』(註:武士道の心得を著した江戸時代の書物)を読んだときは「お、その通り!」と思うことも多く、日本人のメンタリティを少し理解できたように思いました。
――『葉隠』なんて、現代の日本人でも読んでいる人は少ないですよ。すごいなあ。
「日本の歌とロシアの歌を比べると、精神的にとても近いなと思えます」
――日本の音楽はどうでしたか。今年の3月に東京オペラシティのリサイタルホールでロシア歌曲のプログラムによるリサイタルを聴きましたが、アンコールに「津軽のふるさと」を歌っていましたね。
ヴィタリ 美空ひばりさんが歌った名曲ですね。自分で歌ってみたとき、日本であるとかロシアであるとかを超えて、心のつながりを感じさせるものでした。美空ひばりという歌手の存在を知ったのは2009年頃、ホセ・カレーラスが《川の流れのように》を歌っていたのを聴いて、心から感動しました。ひばりさんは本当に素晴らしい歌手で、演歌もジャズも、それに《トスカ》(歌に生き、愛に生き)も歌っています。
当時はもう日本に興味がありましたから《荒城の月》なども知っていましたし、インターネットで楽譜を注文し、自分だけで歌っていましたね。ライプツィヒのメンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学に留学したときには、同じ学校に留学をしていた瀧廉太郎の存在を知り、ドラマティックな彼の人生と歌に興味をもちました。ライプツィヒの街には彼の記念碑がありましたから。
――ヴィタリさんは、ロシアの歌も日本の歌もよくご存知だと思いますが、心のつながりを感じることは、共有できるものがあるということでしょうか。
ヴィタリ 日本の歌とロシアの歌を比べると、精神的にとても近いなと思えます。どちらの民族も、表面的にはちょっと暗くて、悲しい歌が好きですよね。イタリア人は自分の気持ちをオープンにする文化をもっていますけれど、ロシア人はさまざまな感情を自分の中にとどめて、心の中で喜んだり悲しんだりします。日本でもよく知られているロシア民謡と呼ばれている歌や、《百万本のバラ》のようなポップスも、そうした意味でロシア的だなと思います。
日本でコンサートをすると、ときどき「感動して涙が出ました」というお客様がいますけれど、ロシアでも似たようなことがあります。きっと音楽を聴きながら、一人ひとりが自分の心の中でいろいろ感じ、それが涙となって表に出てくるのでしょうね。そうした共通点があるからこそ、日本人はチャイコフスキーやラフマニノフが大好きなのではないでしょうか。日本の歌手によるラフマニノフの歌曲も、素晴らしいと思いますよ。
――日本ではロシア民謡もたいへんに人気がありますけれど、コンサートで歌うことはありますか。
ヴィタリ アンコールで1、2曲を歌うくらいですね。私のメイン・レパートリーはクラシック音楽ですから。でも、たしかに皆さん、ロシアの歌をよく知っていらっしゃるなと感じます。
ただし、日本でロシア民謡と呼ばれている曲は、19世紀以降に生まれた新しいものが多いですし、本当の意味で民謡とは呼べない曲もたくさんあります。《トロイカ》のように別の曲の歌詞とメロディを合わせてしまったものもありますし、《黒い瞳》のようにレストランでロマ(ジプシー)の人たちが演奏していた曲をロシア民謡だと勘違いしている例もあります。
「動詞が少ない」歌詞が独特な日本歌曲の魅力
――その一方で日本の歌曲も大切なレパートリーにしていますけれど、歌詞にある言葉などは難しくありませんか。
ヴィタリ どんな曲であっても同じですが、まず歌詞の意味が理解できないと歌いこなすことはできません。日本の歌で面白いなと思うのは、動詞が少ないということですね。クラシックの曲は歌詞がひとつのストーリーになっていて「誰かがここへ行って何をした」ということがはっきりと書かれています。
でも日本の歌は、たとえば《荒城の月》ですと何枚もの風景写真を並べたような歌詞になっていて、聴いていた人それぞれが「何を表現しているのか」「どんなストーリーがあるのか」と想像しなくてはいけない。そもそも使われている言葉が現代のものと違いますから、意味を調べることから始めないといけません。時間はかかりますが、意味がわかったときにはとても充実した気持ちになります。
――ロシアではどうなのでしょう。チャイコフスキーのオペラや歌曲は言葉が難しいということもあるのでしょうか。
ヴィタリ 18世紀まで遡ると、もう今では伝わらない言葉がありますけれど、19世紀以降はほぼ、普通に通じる単語を使っています。といいますのも、現代のロシア語はプーシキン(註:18~19世紀にかけて活躍したロシアの国民的作家)が作ったようなものですし、その時代以降に書かれた曲でしたらまったく問題ありません。
日本の皆さんもぜひロシア文学を読んでみてください。民衆の心を表現したドストエフスキーの作品は素晴らしいと思いますし、空がとても低くてずっと曇っているロシアの憂鬱な雰囲気を感じていただけます。
――ヴィタリさんがお薦めする作品は。
ヴィタリ 個人的にはトルストイの作品が好きです。素晴らしい文学者ですが、彼は貴族でしたからとても美しいロシア語で小説を書きました。『アンナ・カレーニナ』は何度読み返しても素晴らしいと思いますし、『戦争と平和』は中学生のときに夏休みの宿題で読まされます。まあ、みんな休みが終わる2日前くらいになってあわてて読みますから、登場人物も覚えられないんですけれど。
――先日はロシア・ナショナル管弦楽団の来日公演でチャイコフスキーのオペラ《イオランタ》に出演するなど、活動の幅は広がっていますが、今年後半からはいかがですか。
ヴィタリ 10月28日(日)には、初めて日本へ来たときから10周年と、日本でのコンサート活動5周年を記念した大切なリサイタルがあります。オペラ・アリア、ロシア歌曲、イタリア歌曲、日本歌曲という、私の大事なレパートリーをすべて歌うのですが、これは私にチャンスを与えてくれた日本への感謝を込めて! ですね。
9月には、日本歌曲を教えていただいている塚田佳男先生のピアノで『日本歌曲名曲集』というCDも発売します。
それから来年の1月には東京芸術劇場ほかで上演されるモーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》に出演しますが、日本語でタイトルロールを歌います。指揮は井上道義さん、演出はダンサーの森山開次さんですから、きっと素晴らしいものになりますよ。ドン・ジョヴァンニを歌うのは今回で3回目ですけれど、1回目はドイツ語、2回目はイタリア語でした。毎回違った言葉で歌うなんて、面白いですよね。
――お忙しい中で、息抜きをする時間はありますか。
ヴィタリ 博物館やギャラリーを巡ることも多いですし、コンサートに行くこともあります。客席で素晴らしい音楽を聴くことも大切な経験ですから。あとはやはり散歩ですね。途中でカフェに寄ってのんびりするのも楽しみです。
――そういえば日本食は大丈夫なんですか。
ヴィタリ もちろんです。日本の料理はなんでも好きですけれど、特におにぎりと味噌汁。何年か前に京都の京田辺市へうかがったとき、味噌と野菜だけを使った味噌汁をいただきましたが、今まででいちばんおいしかった。
――ぜひこれからも日本のあちこちで歌っていただき、新しい出会いを!
日時: 2018年10月28(日) 14:00開演(13:30開場)
会場: 東京文化会館 小ホール
チケット: 一般4,000円 学生2,000円
ピアノ : 山田剛史 ピアノ : 塚田佳男
プログラム:
レオンカヴァッロ:オペラ「道化師」よりプロローグ
ラフマニノフ:「朝」
「夜の神秘な静けさの中」
シューベルト:「小人」「タルタルスの群れ」
「 万霊節のための連禱 ~リタニ~」
4つの即興曲 D899 より 第3番 変ト長調(ピアノ・ソロ)
ジョルダーノ:オペラ「アンドレア・シェニエ」より「祖国の敵」
瀧廉太郎:「秋の月」
信時潔:「鴉」
平井康三郎:「平城山」
「甲斐の峡」
「九十九里浜」
トスティ:アマランタの4つの歌
「私をひとりにしてくれ!息をつかせてくれ」
「夜明けは光から暗闇を分かち」
「むなしく祈り」
「賢者の言葉は何を語っているのか?」
お問い合わせ: サンライズプロモーション東京
0570-00-3337(全日10:00~18:00)
【富山公演】
日時: 2019年1月20日(日) 14:00開演
会場: 富山市芸術文化ホール
チケット: S席 10,000円/A席 8,000円/B席 6,000円 C席 4,000円/U25券 2,000円
【東京公演】
日時: 2019年01月26日 (土) 14:00開演(ロビー開場 13:00)
2019年01月27日 (日) 14:00開演(ロビー開場 13:00)
会場: 東京芸術劇場 コンサートホール
チケット: S席 10,000円/A席 8,000円/B席 6,000円/C席 4,000円/D席 3,000円/E席 1,500円/SS 席 12,000円/高校生以下 1,000円
【熊本公演】
日時: 2019年2月3日(日) 15:00開演
会場: 熊本県立劇場演劇ホール
チケット: S席 8,000円/A席 6,000円
総監督・指揮: 井上道義
演出: 森山開次
管弦楽: 読売日本交響楽団
合唱: 東響コーラス
ドン・ジョヴァンニ: ヴィタリ・ユシュマノフ
レポレッロ: 三戸大久
ドンナ・アンナ: 高橋絵理
騎士長: デニス・ビシュニャ
ドンナ・エルビーラ: 鷲尾麻衣
オッターヴィオ: 金山京介
ツェルリーナ: 小林沙羅(1月26日出演)、藤井玲南(1月27日出演)
マゼット: 近藤圭
ダンサー:浅沼圭 碓井菜央 梶田留以 庄野早冴子 中村里彩 引間文佳 水谷彩乃 南帆乃佳 山本晴美 脇坂優海香
Art Direction / Illustration : 森本千絵(goen°)
Design : 高橋亮(goen°) 撮影:Hikaru.☆
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