「装いせよ、おおわが魂」BWV180——三位一体後第20主日
音楽の父ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生涯に約200曲残したカンタータ。教会の礼拝で、特定の日を祝うために作曲されました。
「おはようバッハ—教会暦で聴く今日の1曲—」では、キリスト教会暦で掲載日に初演された作品を、その日がもつ意味や曲のもととなった聖書の聖句とあわせて那須田務さんが紹介します。
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...
おはようございます。秋たけなわの本日は、《装いせよ、おおわが魂》BWV180をお送りします。
1724年の三位一体後第20主日(10月22日)にライプツィヒの教会で行なわれた礼拝では、「マタイによる福音書」第22章1から14節までの「王の婚宴のたとえ」が朗読されました。
天の国は、ある王が王子のために催した婚宴に似ている。町に家来を送って招待客を誘うが誰も来ようとせず、家来を殺してしまうので怒った王は町を滅ぼす。そこで今度は誰かれ構わず声をかけたので、婚宴はいっぱいになった。王は満足して会場を見渡すと、礼服を着ていない人がいたので家来にその人を放り出させた。イエス曰く「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。
22:01イエスは、また、たとえを用いて語られた。 22:02「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 22:03王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 22:04そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 22:05しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 22:06また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 22:07そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 22:08そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 22:09だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 22:10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 22:11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 22:12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 22:13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』22:14『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
新共同訳聖書より「マタイによる福音書」22章1〜14節
ご専門家の方々のご意見を伺っていると、このお話を理解するヒントは最後の一節にあるようです。婚礼は天の国の宴。花婿はキリスト。婚礼には誰でも招かれるけれども、本当に招かれる資格のある人は、婚宴の意味を知り、心の用意が出来ている人。つまり選ばれる人とは、それにふさわしくあろうと心を開いている人、神と人との関係は双方向でなければならないということでしょうか。
バッハのカンタータはこうした天の国の宴席に招かれる人の心を歌っています。編成はソプラノ、アルト、テノール、バスのソロと合唱、リコーダー2、フルート、オーボエ、オーボエ・ダ・カッチャ(狩のオーボエ)、ヴァイオリン・チェロ・ピッコロ(小型のチェロ)、弦楽と通奏低音。フランクの同名のコラール(賛美歌)によるコラール・カンタータです。
第1曲はコラール合唱。へ長調の晴れやかな響きや躍動感に満ちたリズムが、祝宴に集う人の浮き立つような気分や華やかな気持ちを伝えています。「装いせよ、おお愛する魂よ、暗い罪の洞穴から去り、明るい光のもとへ出ておいで。美しく輝くのだ。救いと慈悲に満ちた主が、お前を客人として招いている」。
第2曲テノール(アリア)ではフルートが大活躍します。歌い出しの「元気いっぱいに頭を上げよ。救い主が戸を叩く」のところは、あまりの嬉しさに居ても立ってもいられないという感じですね。でもダ・カーポ・アリア(ABA´形式)の中間部Bでは「たとえお前が、嬉しさのあまりイエス様に無茶苦茶な言葉を喋ってしまっても」と少し心配そう。
続いてソプラノ(レティタティーヴォとコラール)が、聖なる宴席でいただく贈り物の尊さを語り、後半で小型のチェロに伴われてコラールの第4節「ああ、私の心は人の友であるあなたの恵みにどれほど飢えていることでしょう」と歌います。
神の国の宴席に招かれることは、神秘的な出来事を体験することでもあります。そこでアルト(レチタティーヴォ)が喜びと不安の、ないまぜになった気持ちを語ります。「私の心は怖れと喜びを感じています」。神の偉大さを思うときやその神秘が理性で理解できないときに怖れが高まります。ただ神の霊だけが、その言葉を通して私たちに教えてくれる。そして神の愛の偉大さを知るときに、私の喜びは強められる。リコーダーの響きが、神の愛の甘美な神秘性を表わしているようですね。
ここまで来ると招かれた客の想いは確信に満ちています。ソプラノ(アリア)が晴れやかに「命の太陽、感性を照らす光、主よ、私のすべて! あなたは私の誠実な心をご覧になり、その信仰をはねつけるようなことはしません。たとえそれがまだ弱くて怖がっていても」。
そしてバス(レチタティーヴォ)が「主よ、ご自分を天から地上へと駆り立てたあなたの誠の愛が、私のことで無駄にならないようにしてください。愛のうちに私の魂に火を灯してください。そうすれば魂は信仰によって天の国をひたすら目指し、あなたの愛を想い続けるでしょう」と述べ、コラールの第9節で曲を閉じます。「誠の命の糧であるイエス様。あなたの招きが無駄にならず、私に災いがもたらされず、あなたの正餐の食卓につくことができますようにお助けください。……この地上と同様に天上でもあなたの招待客としてください」。
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