「主イエス・キリスト、真実の人にして神よ」BWV127——復活祭前第7日曜
音楽の父ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生涯に約200曲残したカンタータ。教会の礼拝で、特定の日を祝うために作曲されました。
「おはようバッハ—教会暦で聴く今日の1曲—」では、キリスト教会暦で掲載日に初演された作品を、その日がもつ意味や曲のもととなった聖書の聖句とあわせて那須田務さんが紹介します。
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...
本日は復活祭前の第7日曜日(主日)であり、ここでご説明するレント(四旬節)前の、最後の日曜日なので五旬節ともいいます。
本日ご紹介するのは、1725年のこの日にライプツィヒの教会で演奏されたカンタータ第127番「主イエス・キリスト、真実の人にして神よ」です。
レント(受難節)とは?
さて、復活祭はいうまでもなく、十字架に架けられたイエス・キリストの復活を記念する重要な祝日で、今年は2020年は4月4日の日曜日(移動祝日なので毎年異なります。また西方教会と東方教会でも違います)。
その前の46日間を英語でレント(受難節・四旬節・大斎節)といいます。数字の40のことですが、「日が長くなる季節」という語源から、春の到来をも意味します。「灰の水曜日」(今年は2月17日)に始まるレントは、ドイツ語で「ファステンツァイト(断食期間)」ともいうように、人々はキリストの受難に備えて肉食などのごちそうや、歌舞音曲を控えるなど節制に務めてきました。その間、バッハの時代のライプツィヒでは、教会カンタータも上演がありませんでした。というわけで、レントの始まる「灰の水曜日」から「おはようバッハ」はしばらくお休みです。
それから復活祭前の1週間を受難週、そしてイエスの受難日を「聖金曜日」といい、ドイツやオランダなどでは、この時期に集中してバッハの《マタイ受難曲》や《ヨハネ受難曲》が演奏されます(「おはようバッハ」では、大曲《マタイ受難曲》を、受難週の5日をかけてお届けします。どうぞお楽しみに)。
ちなみに、謝肉祭(カーニヴァル)は「灰の水曜日」直前の3日間ですが、教会ではなく世俗のお祭りです。ヨーロッパのキリスト教国では、断食と節制の生活に入る前に、人々は思い切り羽目を外すというわけです。私が暮らしたドイツのケルンの謝肉祭の凄かったこと! それはまたいつか別の機会にお話ししましょう。
さて、バッハのカンタータが初演された礼拝で朗読されたのは、「ルカによる福音書」第18章31~43節。イエスが12人の弟子たちに自らの受難と復活について預言し、その後、盲人を癒すのを目撃した民衆が神と賛美してイエスに従ったという箇所です。
18:31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。 18:32人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。 18:33彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」 18:34十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。 18:35イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。 18:36群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。 18:37「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、 18:38彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。 18:39先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 18:40イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。 18:41「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。 18:42そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」 18:43盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
新共同訳聖書より「ルカによる福音書」18章31〜43節
バッハのカンタータはトランペット、リコーダー2、オーボエ2、弦楽と通奏低音の編成。同名のコラール(賛美歌・歌詞はエーバー)に基づくコラール・カンタータで、受難と復活の預言を信徒が、自らの死に重ね合わせて考察します。
1曲目はコラール合唱。同名のコラールの旋律の冒頭による、ひろがりのある管弦楽の前奏に続いて合唱が、コラールの歌詞を歌います。「主イエス・キリスト、真実の人にして神よ、あなたは責め苦や不安や嘲りに堪えて、わたしのために十字架の上で亡くなり、私に父の慈しみを与えてくださいました。あなたの苦しみを通して、この罪人のわたしに憐れみをください」。
興味深いのは器楽が「キリストよ、汝神の小羊よ、世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみたまえ」という別の「受難のコラール」を奏でていることです。むち打ちの象徴的表現である器楽の付点リズムも含めて、やがて訪れる受難日への想いが、いたるところで聴かれます。
続いてテノール(レチタティーヴォ)が、臨終を前にした人の想いを語ります。「たとえ、最期の時に恐怖のあまり取り乱しても、死の汗にまみれて心臓が破れても、イエスが私の傍におられることを知っていれば十分。ご自分の受難へと向かう苦しい道行きに私に寄り添い、安らぎを与えてくださることを」。
今度はソプラノが、オーボエに伴われて「魂は主の御手の中で安らぐ。たとえ土がこの肉体を覆ったとしても。ああ、死の鐘よ、私を呼ぶがよい。恐れずに死に向かおう。主イエスが私を目覚めさせてくれるのだから」と歌います。木管のスタッカートは「死の鐘」でしょうか。
ここで音楽が一転、最後の審判の場面になります。バス(レチタティーヴォとアリア)が「ついに最後のラッパが鳴った。この世が天とともに砕け散るときに、わたしの神よ、わたしの最も善きことを考えください。イエスよ、わたしの裁きの場でどうかわたしの弁護人となり、このようにわたしの魂を慰めてください」と言い、「はっきりあなた方に言っておく。たとえ天と地が燃え尽きようと、信じる者は永遠の命を得る。その者は裁きの場に行くことなく、永遠に死を味わうことがない。我が子よ、しっかり私と結びついていなさい。私は強い手を差し伸べて、堅い死の網目を打ち破る」と力強く歌います。
そして最後に合唱が、穏やかにコラールの終節を歌って曲を閉じます。「ああ、主よ、わたしたちのすべての罪を赦し、わたしたちが忍耐を持てるように助けてください。わたしの最後の時が訪れるまで、そしてまた、わたしの信仰がいつも目覚め、あなたの言葉を信じ、わたしたちが祝福のうちに眠りにつくまで」。
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