《マタイ受難曲》最終日——聖金曜日:キリストが十字架にかけられた受難日
音楽の父ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生涯に約200曲残したカンタータ。教会の礼拝で、特定の日を祝うために作曲されました。
「おはようバッハ—教会暦で聴く今日の1曲—」では、キリスト教会暦で掲載日に初演された作品を、その日がもつ意味や曲のもととなった聖書の聖句とあわせて那須田務さんが紹介します。
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...
本日は聖金曜日(キリストが十字架がかけられた日。受難日、受苦日とも)。6回にわたってお送りしてきたバッハの《マタイ受難曲》もいよいよ最終回。
本日は第55曲から終曲までです。最高法院の裁判によって有罪判決を受けたイエスが十字架刑に処せられる場面です。
福音書記者「彼らはイエスをこのように侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。外に出ると、シモンと言う名のキレネ人を見つけたので、彼を敷いてイエスの十字架を負わせた」(第55曲)。
ここからイエスは自ら十字架を背負わされ、刑場のゴルゴタの丘を登って行きます。その様子を目撃しているバスⅠが「そうです。もちろん私たちの肉と血は、十字架に向かわなければならない。私たちの魂によいものほど、その味は苦くなる」と語り(第56曲)、ヴィオラ・ダ・ガンバの独奏とともに「来たれ、甘い十字架よと私は喜んで言おう。私のイエスよ、いつでも与えてください! そしていつの日か私が私の苦しみの重荷に耐え切れないときに、自分自身で担えるようにお助けください」と歌います(第57曲)。バスのガンバの重い足取りにもかかわらず、透明な美しさと優しさを感じさせるアリアです。
ゴルゴタとは、されこうべ=頭蓋骨を意味し、アダムの墓があるとされたエルサレムの丘。
福音書記者「そしてゴルゴタという所、すなわちされこうべの場所と訳される場所に着くと、彼らはイエスに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとしなかった。彼らはイエスを十字架につけると、その衣服を分けるためにくじを引いた。このことによって預言者によって言われた、『彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引く』という言葉が成就した(この予言者の箇所は「ヨハネによる福音書」)。そして、彼らはそこに座って、見張りをしていた。イエスの頭の上には、彼の死の原因となった罪状書きが掲げられ、それには『これはユダヤ人の王イエス』と書いてあった。折から、二人の強盗も一緒に十字架につけられた、一人は右に、もう一人は左に。そこを通りかかった人々は、イエスを罵って首を振りながら言った」。(第58a曲)
これに続く群衆の叫びは、2群の合唱と器楽による大変に緊張感の高いものです。合唱Ⅰ・Ⅱ「神殿を打倒して 、三日で建てる者よ。神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」。(第58b)
福音書記者「同じように、祭司たちも律法学者や長老たちと一緒に侮辱して言った」(58c)。その群衆の言葉は合唱Ⅰ・Ⅱ(58d)が歌います。「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。福音書記者「一緒に十字架につけられていた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(第58e曲)。
ここでアルトⅠが、2本のオーボエ・ダ・カッチャとともに、イエスの十字架刑の象徴であるゴルゴタに呼びかけます。「ああ、呪われたゴルゴタよ、栄光の主が、侮辱の中で破滅されなければならないとは。この世の祝福と救い主、十字架の呪いにつけられた。天と地の作り主が、大地と空気を奪われようとしている」(第59曲)と述べ、続くアリアでは合唱Ⅱが合いの手をいれます。アルトⅠ「見てください。イエスが、私たちを抱こうと両腕を広げている。さあ、来なさい!」、合唱Ⅱ「どこへ?」、アルト Ⅰ「イエスの御腕の中へ、救いを求めよ。憐れみを受け入れよ。求めよ」、合唱Ⅱ「どこに?」、アルトⅠ「イエスの腕の中に。生きよ、死になさい、憩えよ」(第60曲)。
福音書記者「さて昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時頃、イエスは大声で叫ばれた」(61a)、イエス「エリ、エリ、ラマ・アザブタニ」、福音書記者「これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。そこにいた数人が、これを聞いて言った」。合唱Ⅰ「彼はエリヤを呼んでいる」(61b)。福音書記者「そのうちの一人がすぐに走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の先につけて彼に飲ませようとした。だが他の人たちは言った」(61c)。合唱Ⅱ 「待て! エリアが来て、彼を助けるかどうか見ていよう」(61d)。福音書記者「しかし、イエスはもう一度大声で叫び、そして息絶えられた」(61e)。
ここで合唱Ⅰ・Ⅱのコラール(第62曲)です「いつの日か私がこの世を去るときに、どうか私から離れないでください。私が死を前に苦しむとき、どうか御姿を現してください」。
福音書記者「そして見よ、神殿の垂れ幕が上から下まで二つに避けて落ちた。そして自身がおこり、岩が避け、墓が開いて、眠っていたおおくの成人たちの身体が生き返った。彼らはイエスの復活の後、墓から出て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長と彼と一緒にいてイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った」(63a)。神殿の垂れ幕が避けるときの器楽の描写が聴き所です。それを目撃した人々が声を合わせます。合唱「本当にこの人は神の子であった」(63b)。福音書記者「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くで見守っていたが、この婦人たちはガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々である。その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨゼフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた、夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちで、名をヨゼフと言う人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるよう願い出た。そこでピラトはイエスの遺体をヨセフに渡すように命じた」(第63c曲)。
すべてが終わったときの、本当に美しいバスのレチタティーヴォとアリアです。ゴルゴタの丘にそよぐ風でしょうか、弦楽の柔らかな動きとともに「夕暮れ、涼しくなった頃に、神はアダムの堕落が明らかになった。夕暮れ時になって、救い主はその堕落に打ち勝った。鳩はオリーブの一葉を加えて戻ってきた。なんと美しい時よ、平和の約束が神との間に結ばれた。イエスが十字架を成し遂げられたから。彼の亡骸は安息に入られる、愛する魂よ、憩いたまえ、救いをもたらす、貴き形見よ」と語り(第64曲)、「私の心よ、自身を清めよ。私は心の墓にイエスを葬りたい。今やイエスは私の心にとこしえに、安らかにお休みになるのだから。この世よ出て行け!イエスにお入りいただくのだ」と歌います(第65曲)。
福音書記者「ヨゼフはイエスの身体を受け取ると、きれいな麻布に包み、岩に彫った自分の新しい墓に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアは、そこで墓の方を向いて座っていた。次の日、即ち準備の日の翌日、祭司長たちとパリサイ人が集まってピラトの基に行き、言った」。(第66a曲)
合唱Ⅰ・Ⅱ「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると人々は前よりもひどく惑わされることになります」。(第66b曲)
福音書記者「ピラトは彼らに言った」。ピラト「番兵を出そう。行って守らせるがいい、お前たちの思い通りに」福音書記者「彼らは行って、番兵をおいて墓を見晴らせ、石に封印をした」(66c曲)。
すべてが成就されました。すべてを見ていた人々(ソプラノⅠ・アルトⅠ・テノールⅠ・バスⅠ)が静かな弦楽とともにしみじみとした感慨を語り、後世の人々の合唱が「おやすみなさい」を言います。バス「今や、主は安息につかれました」、合唱Ⅱ「私のイエスよ、おやすみなさい」、テノール「私たちの罪がもたらした主の労苦は終わりました」、合唱Ⅱ「私のイエスよ、おやすみなさい」、アルト「聖なる手足よ、御覧ください。私が懺悔と悔い改めとともに、どんなに嘆いているかを。私の堕落がこの手足にどれほどの苦痛を与えたかを」、合唱Ⅱ「私のイエスよ、おやすみなさい」、ソプラノ「私は一生をかけてあなたの受難に幾千もの感謝を捧げましょう。私の魂の癒しをこれほど価値のあるものにしてくださったのですから」、合唱Ⅱ「私のイエスよ、おやすみなさい」(第67曲)
そして最後のコラールが二群の合唱によって歌われて壮大な受難曲は幕を閉じます。合唱I・II「さあ、涙と共に膝まづき、呼びかけましょう。墓の中のあなたに。憩たまえ、安らかにと。疲れ果てた御体よ。あなたの墓と墓石は不安におののく良心にとって快い憩いの枕、魂の逃れ場となるのです。さあ、涙とともに膝まづき、呼びかけましょう」(第68曲)。
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