5つのマズルカ op.7――文化の中心地で燃える愛国心
ショパンの作品を全曲聴いてみよう! ショパン自身がつけた作品番号順に聴くことで、ショパンの“設計図”が見えてきます。
東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
5つのマズルカ op.7
1830年のワルシャワ蜂起時、フランス政府・イギリス政府は、ポーランド独立を積極的に支援しませんでした。結果はロシア軍の圧勝で、ワルシャワは陥落。ショパンは帰る場所を無くしてしまったのです。
パリでは「ポーランド万歳」と群集が集まってデモを繰り広げていた。貴族たちのあいだでもポーランド支持は広がっていた。ロシア、プロシア、オーストリアにたいする国家としての勢力争いからフランスがポーランドを支持するという側面ももちろんあるが、ワルシャワが陥落したとき、ポーランドの悲劇はパリの人々の心を大きく揺さぶっていた。フランスが革命で手にした「自由」を同じようにポーランドも得るべきではないか。そう考える文化人が多かった。
——小坂裕子著 作曲家◎人と作品シリーズ『ショパン』(音楽之友社)64ページより
革命時に活躍したラ・ファイエット将軍に始まり、ヴィクトル・ユゴーや、テオフィル・ゴーティエもポーランド支持を表明していました。
そんな、「ポーランド贔屓」の気運高まるパリに移住したショパンは、多くの音楽家や名士たちと出会い、その名を知られるようになっていきます。
作品7では、文化芸術の中心地パリで活動する音楽家ショパンの姿を想像させる。フランスはポーランドから多くの亡命者を受け入れ、ポーランド支援の気分に満ちていた。ショパンの愛国心はパリで違和感を抱かれることはまったくなかった。
——小坂裕子著 作曲家◎人と作品シリーズ『ショパン』(音楽之友社)183ページより
ポーランドの民族的な旋律やリズムに満ちたマズルカ集は、作曲年代・出版年ともに同時期の「4つのマズルカ op.6」とともに、「パリのポーランド人」ショパンの名刺がわりだったのかもしれません。
曲はポーランド出身で、アメリカに移住後、ベートーヴェンのピアノ協奏曲をニューオリンズでアメリカ初演したピアニスト・作曲家ポール・エミル・ジョンズに献呈されています。1832年にアメリカからの帰国時、パリでショパンと知り合ったようですが、彼もまた帰る場所を失い、ショパンと悲しみを分かち合ったのかもしれません。
5つのマズルカ op.7
作曲年代:1830-32(ショパン20-22歳)
出版:1833年
献呈:Paul Emile Johns
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