4つのマズルカ Op.24――ベッリーニとの友情
ショパンの作品を全曲聴いてみよう! ショパン自身がつけた作品番号順に聴くことで、ショパンの“設計図”が見えてきます。
東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
4つのマズルカ Op.24
1836年に出版されたマズルカ集、作曲は3年遡った1833年のことです。そのころからショパンはレッスンと楽譜出版が軌道にのり、自分の演奏会を開くことはなくなっていました。友人のリストやヒラー、ベルリオーズが主催する演奏会にゲストのように登場することはあっても、ショパンの活動の場はサロンになっていました。
自分の演奏会は開かなかったが、友人たちのコンサートに出演したり、サロンに顔を出したりで、さまざまな芸術家たちとの友情を育んでいた。ちょうどそのころ、パリへやってきたヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801〜1835)は、ショパンが親しくしていた芸術家のグループに顔を出すようになり、意気投合した二人の間には、深い友情が生まれた。
——小坂裕子著 作曲家◎人と作品シリーズ『ショパン』(音楽之友社)71ページより
生涯、オペラを深く愛したショパン。シチリア・カターニア生まれの天才オペラ作曲家ベッリーニは、ミラノでの《夢遊病の女》、《ノルマ》などで成功していましたが、新天地を求め1833年パリに移住。
手紙などにお互いの記述は残っていないものの、ショパンがベッリーニを尊敬していたことは、残されたほとんど唯一の編曲作品がノルマのアリア「清らかな女神」であることからもわかります。
ベッリーニはパリでも《清教徒》で大成功を収めますが、1835年に33歳の若さで亡くなり、パリ東部のペール・ラシェーズ墓地に埋葬されます。のちにショパンが亡くなった時に埋葬されたのは、このペール・ラシェーズのベッリーニの墓のすぐそばでした。それぞれの遺体はカターニアとワルシャワに再埋葬されています。
「4つのマズルカ Op.24」は、1830年の7月革命で誕生したオルレアン朝(7月王制)唯一の王ルイ・フィリップの廷臣、ルイ・フィリップ・ぺルテュイ伯爵に献呈されています。妻ペルテュイ伯爵夫人はショパンのピアノの弟子であり、のちにピアノ・ソナタ第3番を献呈されています。
4つのマズルカ Op.24
作曲年代:1833(ショパン20-25歳)
出版:1836年
献呈:A Mr. le Comte de Perthuis ルイ・フィリップ・ぺルテュイ伯爵
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