2つの夜想曲 Op.27――最初で最後になった両親との再会
ショパンの作品を全曲聴いてみよう! ショパン自身がつけた作品番号順に聴くことで、ショパンの“設計図”が見えてきます。
東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
2つの夜想曲 Op.27
この2曲の夜想曲はパリでの生活も軌道に乗り、その名声がポーランドにも届くようになっていた1835年に作曲されました。
その夏、ショパンの両親がワルシャワからチェコ・ボヘミア地方西部にある温泉保養地カールスバード(カルロヴィ・ヴァリ)に来るという手紙が届きました。
もちろんショパンは、大喜びでカールスバードへ向かいました。
感激の出会いは8月16日の朝方で、先に来て寝ていたショパンを到着した両親が起こしにきた。何度も抱き合っては、どんなにおたがいのことを考えてずっと暮らしてきたかを繰り返し語り合った。幸福の絶頂だとショパンはポーランドに残っている姉のルドヴィカに、手紙を書いた。
——小坂裕子著 作曲家◎人と作品シリーズ『ショパン』(音楽之友社)88ページより
この地で3週間を過ごしたショパンは、ワルシャワへ帰る両親をポーランド国境の街テッチェンまで送り届けます。これが、ショパンと両親の今生の別れとなりました。
「2曲の夜想曲」は、翌年1836年に出版、作品はアポニー伯爵夫人に献呈されました。ショパンは、1833年から1836年までの日曜の午後を、パリ・サン=ドミニク通り107番地にあったオーストリア大使邸宅で頻繁に過ごしていましたが、その主であるアポニー伯爵の妻アポニー伯爵夫人は、社交界で「ラ・ベル・テレーズ/美しきテレーズ」または単に「女神」と称えられた女性でした。
音楽の大ファンで、歌手でもあり、ショパンのピアノの生徒でもあった彼女は、その広い人脈(夫の大叔父はオーストリア皇帝)で、ショパンの庇護を惜しみませんでした。ショパンの死の知らせを訊いたときに「生まれて初めて泣いた」と伝えられています。
2つの夜想曲 Op.27
作曲年代:1835(ショパン25歳)
出版:1836年
献呈:A la Comtesse d’Appony
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