連載
2026.01.31
ハプスブルク帝国の音楽世界 第12回

パッヘルベルの謎多き生涯〜「カノン」の作曲家はウィーンにいたのか?

近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第12回は、「カノン」で知られるパッヘルベルを取り上げます。ウィーンでオルガニストをしていたと伝記に記述があるのに、真偽は不明!? 史料と時代背景から真相を探ります。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

パッヘルベル「カノン」の自筆譜

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世界一有名な「カノン」と謎だらけの作曲家パッヘルベル

あらゆる音楽の中で、もっとも有名な部類に入るであろう「カノン」。しかし、その作曲者パッヘルベルの生涯は謎に満ちている。以前、彼がウィーンにいたと書いたことがあるが、それもどうやら怪しいらしい。というわけで、今回はこの謎に迫ってみよう。

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まずは基本情報を確認しておこう。ヨハン・パッヘルベルは1653年、ドイツ中南部の都市ニュルンベルクに生まれた。同名の父はワイン商だったというから、社会的地位は申し分ない。パッヘルベルは向学心が旺盛で、特に音楽に強い興味を示した。理解のある両親の支えにより、彼は熱心に学業に励む傍ら、オルガンの腕も磨くことができた。

パッヘルベルがウィーンに赴いたとされるのは、1673年のことである。彼はこの地に足かけ四年滞在し、シュテファン大聖堂のオルガニスト補佐の職に就いて名声を博し、優れた音楽家たちから多くを学んだという。その後ドイツ中部の都市アイゼナッハで宮廷オルガニストの地位を得るが、一年ほどで退職し、近隣の有力都市エアフルトのプレディガー教会のオルガニストとなって、十年余りを過ごした。

ウィーンのシュテファン大聖堂

このエアフルト時代に、パッヘルベルはいわゆる「大バッハ」の父である、ヨハン・アンブロジウス・バッハと親しくなった。その長男ヨハン・クリストフはパッヘルベルに弟子入りし、オルガニストの修業を積んでいる。また、パッヘルベルはこの地で家庭も持った。最初の結婚では早くに妻子を亡くしたが、ほどなく再婚し、5男2女に恵まれた。

プレディガー教会でパッヘルベルが弾いたパイプオルガン

1690年、パッヘルベルはシュトゥットガルトに移り、ヴュルテンベルク公国の宮廷音楽家となった。しかし、さほど時が経たないうちにドイツ中部に舞い戻り、ゴータで教会オルガニストの職を得る。ここで過ごした三年の間に、彼はイギリスのオックスフォード大学、そしてシュトゥットガルトから再度の招請を受けたが、家庭の事情などから断った。

最後となる転機が訪れたのは、1695年のことだった。故郷ニュルンベルクのゼーバルト教会のオルガニストの職に就いたのである。ここで10年ほどにわたって活動したのち、パッヘルベルは1706年に52歳でその生涯を閉じた。

パッヘルベルのオルガン作品集

パッヘルベルは本当にウィーンにいたのか?

さて、それではパッヘルベルとウィーンの関わりについてみてみよう。まず現時点で確実なのは、彼のウィーン滞在を確認できる史料は存在しないということだ。また、彼の事績を確認できる一次史料自体も極めて少ない。もっとも、これは不思議ではない。かなりの名望を得ていたとはいえ、近世に生きた一人の庶民の事績を十分に辿れるだけの史料が残ることは、一般に稀だからだ。同じ事情により、あの大バッハやヴィヴァルディ(連載第7回参照)の生涯にも、いまだ多くの謎が残っている。

ここで頼りになるのが、ヨハン・ドッペルマイアーによるニュルンベルクの知識人に関する記録(1730年)、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターが編集した『音楽事典』(1732年)、そしてヨハン・マッテゾンが著した音楽家の伝記群(1740年)といった二次史料である。これらはいずれも、パッヘルベルのウィーン滞在について触れている。しかし確たる証拠がないとなると、それらは誤りだったとみるのが正しいようだ。

ヨハン・マッテゾン(1681〜1764)

しかし、事はそう簡単ではない。上記三名のうちヴァルターとマッテゾンは、どちらも豊富な人脈を有し、博識をもって鳴るドイツ楽壇の名士だった。しかもヴァルターはパッヘルベルの息子と遊び友達で、バッハ家とも親しかった。

一方マッテゾンは、ヴァルターの『事典』を強く意識しており、同書におけるパッヘルベルの記述について、事細かに誤りを指摘している。こうしたことを勘案すると、この事情通の二人が、そろってこの件でミスを犯したとは考えにくい。

宗派の対立〜出身地はプロテスタント、ウィーンはカトリック

ただ、論文ではない気安さで、あえて推測に基づき話を続けると、やはりパッヘルベルはウィーンに行かなかったのではないかと思われる。なぜなら彼が生きた17世紀後半のヨーロッパは、政治と宗教が密接に絡み合って争乱が頻発した「宗派化」の時代の終盤にあたるからだ。中世に起きたと思われがちな異端審問や魔女狩りも、実はこの「宗派化」を主因とする、近世(16〜18世紀)の事象だった。

パッヘルベルがウィーンに赴いたとされる1673年、イギリスでは、イギリス国教会の信徒しか公職に就けないと定められた。また1685年、フランス王ルイ14世は約20万人のプロテスタントを国外に追放した。ハプスブルク帝国においても、時の皇帝レーオポルト1世は「異端が領内に蔓延するくらいなら、乞食になった方が良い」とまで述べて、異教徒はもとより、カトリック以外の宗派も頑なに拒絶していた。

スペインで国王臨席の下で実施された異端審問(1680年)

そうした事情を踏まえると、パッヘルベルがわざわざ自分からウィーンに赴き、都心に今日も鎮座するあのシュテファン大聖堂で働いたとは考えにくい。さらに、大聖堂付きの音楽家ともなれば、宗教行事には始終付き合わなければならない。当時のカトリック圏では、1年のほぼ3分の1が何らかの形で祝祭日となっていたから、宗派を異にする身にとって、これはかなりの苦痛だろう。

また、プロテスタント圏の有力都市であり、ハプスブルク領のプロテスタントの主な亡命先でもあったニュルンベルク出身の人物を、シュテファン大聖堂が雇うだろうかという疑問もある。

ルナルド・ベロットが描いたウィーンの景観画の一つ(18世紀中葉)。教会から出てくる宗教行列に、人々が深く敬意を払っている様子が見て取れる

時流の変化によってウィーン滞在が記載されたか

では、なぜヴァルターたちは、パッヘルベルはウィーンにいたと書いたのだろうか。ここには、時流の変化があるように思われる。宗派化の動きは18世紀に入る頃から沈静化し、啓蒙思想が広がる中、宗教的寛容が説かれるようになった。このためヴァルターたちは、その自分たちの時代感覚に基づいて、パッヘルベルがウィーンで活動したという風聞を無批判に取り入れたと考えられるように思う。

ちなみに例の「カノン」は、作曲の経緯も年代も不明である。知られるようになったのは20世紀になってからで、ジャン゠フランソワ・パイヤールらの録音によって、70年代から急速に知名度を増した。私はこの曲を小学校の卒業式におけるBGMとして初めて聴いたが(たぶんパイヤール盤だったと思う)、同様の経験を持つ人は多いだろう。

原曲を大いに損なっているのかもしれないが、この曲はやはり「時代錯誤」に、情緒纏綿(てんめん)とやってくれたほうがしっくり来る。また、そのように演奏されたからこそ、この曲はかくも人気になったのではないだろうか。

おなじみのパイヤール盤とはイメージが違う?

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

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