
チェルニーとは何者? ベートーヴェンの弟子・リストの師となった練習曲作曲家の生涯

近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第13回は、カール・チェルニーを取り上げます。“練習曲の人”というイメージの向こうには、ハプスブルク帝国の音楽世界を支えた教育者・演奏家としての顔がありました。巨匠たちとの交流から、その知られざる実像に迫ります。

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...
“練習曲の作曲家”チェルニーはどんな人物だったのか
みんな大好きチェルニー。多くのピアノ初心者の前に立ちはだかり、苦しみを与えてきたこの人物も、まぎれもなくハプスブルク帝国の音楽世界の担った一人である。ピアノを習ったことのない気安さで、彼に対しては特に含むところもないので、今回はこの「偉人」を取り上げることとしよう。
カール・チェルニーは、1791年(モーツァルトの没年)にウィーンで生まれた。チェコ系の家庭の出身で、祖父の代から音楽家である。父のヴァーツラフはプラハ近郊の修道院で教育をうける傍ら、ボーイソプラノやオルガン奏者としても活動した。しかし変声期を迎えて修道院を去ると、家が貧しかったために軍隊に入り、そこで15年を過ごした。結婚後は音楽教育者として生きる道を選び、一時期ポーランドに移住したものの、後半生をもっぱらウィーンで過ごした。
チェルニーは早熟だった。父の指導の下で3歳でピアノを弾き、7歳で作曲を手掛けるという、モーツァルトに似たエピソードを持つ。やがて彼は音楽により深く接する中でベートーヴェンの存在を知り、この新進の奇才の熱烈な支持者となる。
10歳のときに念願かなって対面を果たし、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第25番」や《悲愴》などを御前演奏したところ、才能があるので弟子にすると告げられる。ピアノの指導にあたってベートーヴェンが強調したのはレガート奏法で、彼が何度も聴いたというモーツァルトについて、フォルテピアノには合わない奏法だったと語ったという。

バッハの再評価にも貢献したチェルニー
10代のうちから、チェルニーの交流の範囲は広がっていった。フンメルとは、モーツァルト未亡人コンスタンツェの家で毎週土曜日に開かれていた家庭音楽会に顔を出すうちに知り合った。モーツァルトやベートーヴェンの重要なパトロンであったリヒノフスキー侯爵には、得意とする暗譜演奏でベートーヴェンの作品を求められるままに披露したことで気に入られた。
ボヘミアの名門ツェルニン伯爵家の御曹司と懇意になったこと、そしてその教育の場や、シュヴァルツェンベルクやロプコヴィッツといったハプスブルク帝国屈指の名門貴族に連なる人々との歓談の場に同席したことは、彼の知的好奇心を大いに発達させた。
このような交流を通し、チェルニーはヨハン・ゼバスティアン・バッハの偉大さを深く知るに至った。チェルニーは「平均律クラヴィーア曲集」などの校訂を手掛けたが、その際には自分のアイデアに加え、ベートーヴェンのバッハ演奏も参考にして手を入れた。この行為はのちに厳しく批判されたが、バッハが世に広く知れ渡るうえで、チェルニーのこの活動は重要だった。バッハの「復活」といえばメンデルスゾーンが名高いが、チェルニーの貢献も忘れてはならない。

ピアノ教育者チェルニーの成功〜練習曲はなぜ生まれたのか
チェルニーは15歳という若さで教育活動を開始し、やがてこちらに軸足を移すことになった。この際には、1810年に知り合ったクレメンティのレッスンを見学したことが大いに参考になったという。彼の指導は好評を博し、本人いわく、エリート層の家庭で朝8時から夜8時まで教えるという過酷な日々が、以後20年以上も続くことになる。
一方、このような多忙の中でチェルニーは作曲にも精を出し、1000を超える作品を生み出して、多額の収入を得た。しかし現在その評価は低く、ほとんど演奏されることがない。1830年代に集中的に手掛けたピアノのための練習曲群が、結局は彼の最大の「ヒット作」ということになるのだろう。

チェルニーは実はピアノ協奏曲も作曲している
リスト、ベートーヴェン、ショパンからも信頼された指導者
この教育活動で出会った最大の才能が、フランツ・リストだった。初対面の際には酔っているのかのように不規則なリストの演奏を聴かされて困惑したが、天性のピアニストであることはすぐに察した。天才がえてして技術をおろそかにしがちであることを経験から熟知していたチェルニーは、しっかり技術に重点をおいて指導した。そしてリストもよく師の意図を汲み、期待に応えた。
のちにチェルニーは、「私はこれまで、これほど熱心で、これほど才能が豊かで、しかもこれほど勤勉な弟子を持ったことがなかった」と述懐し、パリでの生活では誤った方向に向かったが、ウィーンの優れた聴衆を前にしての演奏を通し、「絢爛としながらもいっそう明確」なスタイルを確立した、と評している。リストのほうでも師に対する感謝を忘れず、「24の大練習曲」とその改訂版である「超絶技巧練習曲」を献呈した。
ベートーヴェンとの交流も続いた。この気難しくて癇癪持ちの「楽聖」と衝突することなく、長きにわたって交友関係を保ったのは、チェルニーくらいのものだろう。その信頼は厚く、1812年にはピアノ協奏曲第5番《皇帝》のウィーンでの公開初演を任されている。さらに1815年には、甥のカールの養育も委ねられた。ベートーヴェンはツェルニー家の落ち着いた雰囲気を愛し、この家に住めるなら安心なのだが、とたびたび口にしたという。
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番《皇帝》
ショパンも最初のウィーン滞在(連載第9回参照)の折に、チェルニーと出会っている。彼いわく、自分で音楽の良し悪しを判断する自信のないウィーン人はチェルニーの評を頼りにしていたというから、かなりの名士となっていたことがわかる。
ただ、ショパン自身のチェルニー評は辛辣だった。「チェルニーと知り合って、すっかり仲良くなった——彼の家で何度も一緒に二台のピアノを弾いた。いい人だが、それだけだ」「チェルニーは、彼のどんな曲よりも本人の方が情がこまやか」。
こうして長きにわたりハプスブルク帝国の楽壇で名を馳せたチェルニーだったが、晩年には痛風に苦しみ、1857年に66歳でウィーンに没した。生涯独身で近親者もいなかったため、彼の音楽上の財産はウィーン楽友協会に遺贈された。その生涯は、身分を越えるつながりが音楽を通じて生じ、それが相乗効果的に音楽活動の発展をさらに促進したという、18〜19世紀転換期のハプスブルク帝国の状況を伝える貴重な一例となっている。
♪チェルニーを弾くなら……





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