藤田嗣治が見た風景——波乱万丈の人生を歩んだ画家が響かせた音
東京都美術館で「没後50年 藤田嗣治展」が開催されている。乳白色の画家としてパリの寵児となり、美しい女性像を生み出した藤田だが、その人生は波乱万丈だった。祖国・日本を捨てなければならなかった藤田嗣治が晩年に聴いた音は、一体どんなものだったのだろう?
アートライター・藤田令伊さんが、作品から画家の人生を辿ります。
アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる...
いま、上野の東京都美術館で「没後50年 藤田嗣治展」という展覧会が開催されている(~10/8)。藤田は、日本人画家として実質的に世界で初めて評価された、いわば画期的な人物である。にもかかわらず、これまであまり展覧会が開かれることはなかった。著作権などの問題があったからだと聞いているが、そのため藤田の生涯を見通す機会は案外少なかった。今回は彼の画業を初期から最晩年まで通覧できる内容となっているので見に行った。
乳白色を見出した藤田
藤田嗣治といえば、独特の乳白色の表現で知られており、それが彼の特徴と認められている。だが、画業人生を改めて見渡してみると、時期によってけっこう画風が異なっていて、ONTOMO的にいえば「聴こえてくる音」が違っていることがわかる。
1913年、藤田は26歳のときにパリへ出、ひとかどの人物にならんと道を模索した。異邦人がフランスという異文化に適応しようと、フランスの文化を少しずつ身につけていった。第一次世界大戦が勃発して多くの日本人がパリを離れても、藤田は留まることを選ぶ。日本からの送金が止まり、窮乏生活を強いられたが、やがてギャラリーで個展が開かれるようになり、またフランス人の伴侶を得たこともあって、パリでの暮らしも地に足のついたものになっていく。
《私の部屋、目覚まし時計のある静物》はそんな時期に描かれた作品である。題材になっているのは、藤田が暮らした部屋。愛着のある小物がいくつも並べられている。この絵から聴こえてくるのは純粋なパリの音楽である。アコーディオンの音色が柔らかな旋律を描き、幾分気怠さを醸しながら、ゆるやかに耳をくすぐる。平穏な調べであり、明るい未来を信じて精進した画家の姿が目に浮かぶ。
その後、藤田は例の乳白色を見出す。鮮やかで透明感のある白は、とくに女性が喜んだという。それはそうだろう。あの曇りなき白で肌を描いてもらえるとなれば、女性なら誰しも嬉しかったに違いない。《タピスリーの裸婦》はそんな一枚だ。乳白色の肌と柔らかな曲線でフェミニンな空気が伝わってくる。それはフランスの香りであり、絵から聴こえてくる音もますますフランスの磨きがかかり、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」とかがピッタリはまるように思われる。多くの人にとって、藤田の絵とはこのタイプのものと了解されていることだろう。
南米、それから再び日本へ
しかし、藤田の人生はそのままでは終わらなかった。1931年、藤田は南米へと旅立つ。ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、エクアドル、パナマ、キューバ、メキシコと、まるでディアスポラの如く旅から旅への暮らしを続ける。中南米でも名前の通っていた藤田は、行く先々で絵を描き、個展でそれを売り、お金を得るという道行きであった。
《町芸人》は、旅のさなかに描かれた作品である。ピエロと思しき男が大声を張り上げ、横の小男はラッパのようなものを吹いている。喧噪と嬌声が支配した世界で、ここにはもはやシャンソンは似つかわしくない。ただ画風が変わったというだけではなく、藤田の人生のステージそのものが大きく転回したことをうかがわせる。
1933年、2年間にわたる旅を終え、藤田は日本へ戻る。日本での藤田はふたたび画風を変える。《自画像》に描かれている場面は純和風の座敷にほかならない。絵から聞こえてくる音に西洋のものはなく、日本の猥雑な音そのものである。とりたてて何かの楽曲が聞こえてくるふうでもなく、ただ生活音がするばかりに感じられる。焼き魚の臭いなんかもしてきそうである。パリのエスプリを描いた画家と同じ人物とはにわかに思われないものがある。
祖国・日本を捨てた藤田は、パリを終の棲家とする
太平洋戦争が始まると、藤田は従軍画家となる。父親が軍医だった藤田にとって、軍の画家となるのは決して不自然なことではなかっただろう。多くの戦争画を描いているが、《アッツ島玉砕》はなかでも自身で「快心の作」と評した大作である。おびただしい数の兵士が描かれており、耳に入ってくるのは銃声、荒い息、うめき声そして断末魔の叫び。地獄絵図といっても過言ではない。藤田のシリアスな一面である。
戦後、藤田は戦争画を描いたかどで糾弾される。もはや日本に居場所なしと悟り、1949年、羽田から逃げるようにして日本を去った。その後、藤田が日本の土を踏むことは二度となかった。
アメリカを経由してフランスへ再び渡った藤田は日本の国籍を捨て、フランスに帰化する。そしてパリ郊外に小さな家を買う。そこが終の棲家となった。
《十字架》は最晩年に制作されたもの。手づくりの十字架に幼子のイエス・キリストが描かれている。幼子イエスの眼差しには、ある種の諦念にも通じる、透徹した心が現れているように私には見える。
若き日、芸術家として身を立てることを志して単身フランスへ向かい、中南米の新世界を見、戦争の荒波に揉まれ、そして追われるように故国を捨てた。波乱万丈というほかない人生行路。たどり着いたのは悟りを思わせる境地だったろうか。そして、ここから聞こえてくるのは静かな讃美歌の調べである。人生を通じて多彩な音を響かせた数々の絵は、藤田が決して“乳白色の画家”だけではなかったことを物語る。
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