実在のアイドル/作曲家が小説に必然である理由──松田青子『持続可能な魂の利用』
かげはら史帆さんの連載、第4回は話題の小説をピックアップ! 日本の「おじさん社会」に苦しめられながら、「おじさんたち」が演出する女性アイドルグループのファンであることに葛藤を抱く30代女性を主人公にした『持続可能な魂の利用』。ワーグナーが書いた小説『ベートーヴェンまいり』も例にあげながら、小説に実在の「アイドル」が登場する意義を読み解きます。
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 – フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 – 名プロデューサ...
彼女は冷たい、射るような眼差しをして、敬子を見ていた。相手の心を竦(すく)ませるような、まっすぐな目。媚びていない、なんてレベルではなかった。まるで世界に喧嘩(けんか)を売っているようだった。
──松田青子『持続可能な魂の利用』(中央公論新社)
そうして事実その日、私はついにはじめて大ベエトオヴェンを見ることになった。例のイギリス紳士のわきに坐って、ベエトオヴェンが近づくのを見たそのときの私の感激、しかも同時に痛憤(つうふん)は、まったく叙述(じょじゅつ)すべき方法がない
──ワーグナー『ベエトオヴェンまいり』高木卓訳(岩波書店)
ファンフィクションを書いたリヒャルト・ワーグナー
ある音楽家の作品を知り、触発されて、自分も作曲や作詞をはじめる。これはもちろんわかる。SNSに感想や評を書く。これもわかる。しかし、その音楽家あるいは作品が登場する小説やマンガ——いわゆるファンフィクション(二次創作物)を作る、となるとどうだろう。好き嫌い以前の問題として、あまりピンとこない、という人も少なくないのではないか。なぜ本人をわざわざ引っ張り出して、架空の物語を作りたがるのだろう? なぜ「その人をモデルにしたオリジナルキャラ」ではダメなのだろうか? 設定を少し作り変えれば、二次創作ではなく、堂々とオリジナル作品を名乗れるのに。
しかしファンフィクションは、音楽史上において決して珍しい存在ではない。あのリヒャルト・ワーグナーも手がけている。1840年、20代の彼は『ベートーヴェンまいり』という短い小説を書いた。ベートーヴェン・ファンのドイツ人青年Rが憧れの人に会うためにウィーンを訪れるという、タイトルそのままのストーリーだ。
有名音楽家が書いているからにはアリなのだ、と主張したいわけではない。ただ、ファンフィクションという形式の必然性を軽視すべきではない、とはいえるだろう。ロマン・ローランはベートーヴェンをモデルに『ジャン・クリストフ』を書いたといわれているが、ワーグナーにとって、ベートーヴェンはクリストフでも他の名前のオリジナルキャラでもなく、あくまで『フィデリオ』や『第九』を生み出したベートーヴェンそのひとでなければならなかった。そして青年Rは、自分自身(=リヒャルト Richard)を含む、「ベートーヴェン推し」の当時のドイツ人青年たちの映し鏡でなければならなかったのだ。
主人公は「アイドル・ファンの30代女性」
ときは『ベートーヴェンまいり』から180年後。2020年5月に刊行された松田青子の小説『持続可能な魂の利用』もまた、音楽にかかわる実在の団体および個人が登場する作品である。
名前は「××」と伏せられている。しかし、それが実在の有名アイドルグループとその(元)メンバーであることは、作中のあらゆる描写から明白だ。
『ベートーヴェンまいり』の主人公がベートーヴェン・ファンの青年であるのと同じく、本作の主人公もそのアイドルのファンだ。その主人公は、いわゆるアイドルオタクの男性ではないし、アイドル志望の少女でもない。30代の女性「敬子」である。
敬子はアイドル・コミュニティとは無縁の世界で生きてきた女性だった。とくに直近の1ヶ月は、ある事情から妹を頼ってカナダに滞在しており、日本のエンターテイメント文化からは距離を置く生活を送っていた。しかし帰国してまもなく、大きな転機が訪れる。元同僚の歩と会った帰り道の雑踏で、彼女は「場を圧するような大きな音」を出している街頭ビジョンをふと見上げ、そこに映し出されたミュージックビデオに心を奪われる。
映っていたのは、一目でアイドルグループだとわかる女の子たちの姿だった。(……)彼女は冷たい、射るような眼差しをして、敬子を見ていた。相手の心を竦(すく)ませるような、まっすぐな目。媚びていない、なんてレベルではなかった。まるで世界に喧嘩(けんか)を売っているようだった。
敬子は動画サイトを漁り、ブログや掲示板に目を通し、そのアイドルのファンになっていく。とくに彼女が心惹かれたのは、彼女たちの歌がどれも「社会の生きにくさ、そして同調圧力に抗(あらが)う強さを謳(うた)って」いることだった。
ところがスカイプで妹の美穂子にそれを打ち明けると、こてんぱんに叩かれる。カナダのリベラルな空気のなかで同性パートナーと共に暮らす妹は「日本のアイドル文化は、ロリコン文化だって、性的搾取だって、海外じゃ評判悪いよ」と姉をさとす。
敬子自身も戸惑っていた。敬子が先ごろまで妹のいるカナダに滞在していた理由。それは、会社でセクハラを受け、退職を余儀なくされたからだった。周りを見回せば、そんな被害に遭っている女性は自分だけではない。元同僚の歩は痴漢に遭いやすく、いつもスタンガンを持ち歩いている。敬子の後任になった真奈にも実は人しれぬ過去があった。敬子は自分を含む女性たちを加害してきた存在を「おじさん」と呼んでいる。単に中年男性という意味ではない。社会でのさばり、他人を見下し、悪意を撒き散らしている人たち。彼ら「おじさん」がいる限り、この世界は腐敗したままだ。
アイドルなんて、どれだけ歌が反骨的であったとしても、そうした「おじさん」が作り出した不快な構造の産物にすぎないのに。
頭ではそう理解しつつ、それでも好きという気持ちを抑えきれない。
高速ビルから直通の地下道に出るとすぐに、敬子はイヤフォンを耳に入れ、××たちの音楽を再生した。
ドラマティックで切実なイントロが流れ出す。たったそれだけで、何度も聴いているのに、敬子の気持ちはもう昂ぶる。
アイドルと自分たちは「鏡のように似通った構造」を生きている
悪しき社会構造がつくりだしたアイドルを、そして彼女たちの歌を愛してしまった。その自己矛盾に敬子は悩みつづける。アイドル・ファンの悩みを描いた作品は多い。その多くは、ひとことでいえば「推しのアイドルとの距離(の遠さ)をめぐる悩み」だ。握手はしても心はつながれないというジレンマ。敬子の悩みは毛色がちがう。彼女は××たちに強く思い入れるいっぽう、別の側面ではドライでもある。握手会には行かない。グッズも買わない。せいぜいライブに行くくらいだ。ライブ会場では、彼女たちの「女子校」みたいな世界をほほえましく思いつつ、先輩ぶった目線で寸評するような真似もしない。敬子は気づく。自分は彼女たちを純粋に「かっこいい」と感じているのだと。
アイドルにハマったと告白する姉に、妹の美穂子は幻滅し、思わずパートナーのエマに愚痴をいう。だが、意外にもエマは、敬子をそれとなく擁護する。
日本の会社や社会のシステムに問題があるからって、その中で働いたり暮らしたりしている日本女性のことまで否定されたら腹が立つでしょ。
××たちをかっこいいと感じる自分を否定しても何にもならない。「おじさん」構造をはらみながらも、××たちはなおもかっこよく歌い踊る。その姿に敬子は、自分が彼女たちを好きになった理由を見出す。
それは、鏡のように似通った構造の中で生きている敬子たち自身のその先でもあるはずだから。
アイドルと世の女性たちの、音楽を、ダンスを、表現を介した共感。それは「おじさん」構造の内部の話でありながら、「おじさん」を介さずに生まれた不可思議な連帯でもある。
しかし、それはしょせん、一ファンの幻想にすぎないのではないだろうか? その連帯は実際に世界を動かすほどの力を秘めているのか? 革命を起こし、「おじさん」的な存在を社会から消し去ることは可能なのか? その答えは、この小説の随所に、SF風のアナザーストーリーとして描かれている。
実在のアイドルと音楽作品を登場させる必然性
『持続可能な魂の利用』における音楽描写はかなりハイコンテクストである。元ネタとしての楽曲を知らなければ意味がわからない域までに達している。
「ドラマティックで切実なイントロが流れ出す」……これがアイドルグループ欅坂46のデビューシングル『サイレントマジョリティー』の音楽描写だと気づけなければ、この物語は読者の心に生き生きと芽吹かないだろう(敬子が人混みのなかでこの曲を聴くというシチュエーションは、同作の冒頭部の歌詞のオマージュでもある)。
ワーグナーの小説において、ベートーヴェンの音楽が主題として響いているのと同じように、この小説において欅坂46の音楽は轟々と鳴り続けている。徹頭徹尾ファンフィクションであることによってはじめて表現しうる、現代日本に生きる女性の葛藤の物語。それを生み落としたのが、ほかのどのジャンルの音楽でもなく、しばしば表面的に揶揄・批判されがちなアイドルソングであったということ。その意味と意義に思いを馳せるのは、音楽にかかわって生きる人にとって決して無意味ではないだろう。
最後にひとつ、この小説のからくりと現実との接点について触れておきたい。作中で、アイドルは「××」と名前が伏せられており、主人公には「敬子」という名前がある。しかし実際には、架空の存在であり、名前を別の誰かに置換可能なのは主人公のほうだ。『ベートーヴェンまいり』において、青年Rが置換可能な存在であるのと同じように。
2020年8月、香港の民主活動家である周庭氏が、香港国家安全維持法違反の疑いで逮捕され、その保釈の際に発したコメントが話題を呼んだ。「拘束されているときに(欅坂46の)『不協和音』の歌詞がずっと頭の中で浮かんでいました」
それはまさに、主人公がフィクションの世界の「敬子」から現実の「彼女」に置換された瞬間だった。
参考:「自由はいけないことか 周庭氏に「不協和音」が交響した」朝日新聞デジタル、2020年8月14日
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