読みもの
2022.12.25
ジャケット越しに聴こえる物語 第6話

「鍵と扉」はどこへ続く?〜リュリとルイ14世の礼拝堂

配信だけではもったいない! 演奏が素晴らしいのはもちろん、思わず飾っておきたくなるジャケットアートをもつCDを、白沢達生さんが紹介する連載。12cm×12cmの小さなジャケットを丹念にみていると、音楽の物語が始まります。

白沢達生
白沢達生 翻訳家・音楽ライター

英文学専攻をへて青山学院大学大学院で西洋美術史を専攻(研究領域は「19世紀フランスにおける17世紀オランダ絵画の評価変遷」)。音楽雑誌編集をへて輸入販売に携わり、仏・...

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前回に引き続き、ジャケットに使われる写真素材が「なんとなく」では選ばれていない例をもう一つ。こちらも17世紀の音楽を扱ったものです。こうした古楽の音盤は、演奏者が作品ごとに使う楽器や楽譜の読み方、作品の成立背景などを深く探っていることが多いためか、外装も読み解き甲斐があるものが少なからず見つかります。

白地の壁と、金色に彩られた装飾彫刻を近くから撮った写真。

壁はやや影が差していて薄暗く、全体に趣きある画面になっています。

アルバムに収められている音楽は、フランス王の中央集権を揺るぎないものにした“太陽王”ことルイ14世の王室音楽総監督、ジャン=バティスト・リュリの作品3編。

音楽が絶え間なく流れる城、ヴェルサイユ宮殿

幼少で王位に就き、王国内の反乱を押さえ親政をスタートさせて間もなく、ルイ14世はパリから少し離れた場所に建てさせたヴェルサイユ宮殿に拠点を移し、実に72年以上に及ぶ長大な在位期間を全うしました。

世継ぎ候補は一人、また一人と王より早く亡くなり、1715年の崩御の後に後継者となったルイ15世はなんと息子でも孫でもなく、孫の子=曾孫だったのでした。

イヤサント・リゴー作《ルイ14世の肖像》(1701年 ルーヴル美術館所蔵)

領土拡張にも熱心で対外戦争も相次ぐ一方で、戦場を駆け巡る合間には文化施策にも深い情熱を注ぎ、多くの知識人・芸術家たちを王室に招いては資金を授けて技芸を磨かせていました。立派な王宮建築やすぐれた芸術家の仕事を前に、賓客たちが圧倒されフランス王室の確かさに一目置くようになることを、ルイ14世は誰よりもよく知っていました。

この試みは確実に奏功し、17世紀末から18世紀にかけては王国外の為政者たちの中にもフランス王室の暮らしをまね、領内にヴェルサイユ風の宮殿を建てたり、フランス宮廷風の服装や舞踏、音楽などに興じる君主が数多く現れました。

こうしたフランス文化の普及によって、単なる外交関係を越えて人々が続々、今に至るまでフランスという国の発展に寄与する土壌を作ったという意味では、莫大な借金を残しもしたルイ14世の文化施策は間違いなく歴史的偉業だったと言えます。

ピエール・パテル作《ヴェルサイユ宮殿》(1668年)
当時高価だった鏡をふんだんに配した、王の部屋に続く全長約75メートルの回廊「鏡の間」
36,000人を投入して作られた噴水庭園

精鋭楽隊を朝から晩まで宮殿内で自分の行く先々に配し、自身ひたすら音楽漬けになって暮らしていたのも、ヴェルサイユを訪れる諸外国の大使などにフランス王国の存在感を強く印象づけるため。

ひいては礼拝の時間まで、聖職者たちが儀式を続けているあいだ、宮廷に雇ったプロ音楽家たちに(聖職者たちの祈りとは別の歌詞をあてた)大規模な合唱曲を演奏させ、場を盛り上げるのをよしとしていたほどでした。

王の愛した作曲家、リュリ

そんな中、王が何よりも愛した舞踏のための音楽ですぐれた実績をあげると同時に、王室アカデミーが洗練の極致へと導いた言語=フランス語を台本に使った演劇に音楽を持ち込んだのがリュリでした。

当初は演劇の途中に舞踏や歌の場面を挟む程度だったのが、やがて台本のすべての箇所を音楽にして歌う「抒情悲劇」という本格音楽劇形式を確立。王が愛した宮廷舞踏をパフォーマンスの一部に組み込み、舞踏・演劇・音楽が混然一体となった新しい総合芸術を生み出したのです。

ポール・ミニャール作《リュリの肖像》
ジャン=バティスト・リュリ(出身のイタリア名はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ)

王はリュリの音楽作りが大いに気に入っていたので、彼を宮廷内で行なわれる音楽余興の総監督に据えただけに飽き足らず、お祈りの時間にも彼の書いた宗教曲を演奏させていました。

宗教曲の作曲はリュリの職務外で、王室礼拝堂には専属の音楽責任者も置かれ、本来であれば彼らの書いた音楽だけあればよかったのですが、そのような状況下でもリュリは12作もの大がかりな合唱曲(グラン・モテ)を書き残しました。それらは礼拝堂で演奏される時こそ現場の音楽監督たる礼拝堂副楽長が指揮したものの、より公式な場で、王室の臨席する祝典儀式などの演目になった場合は、催事の一環を司る音楽家たるリュリ自身が指揮をとるのが常でした。

このアルバムに収録されている「テ・デウム」も、新年祝いや王室の結婚行事の定番演目としてさかんに演奏されたものでした。1687年1月、前年の無麻酔大手術を生き延びたルイ14世の快気祝いとしてフイヤン教会で行われた音楽礼拝でも、リュリが指揮杖を突きながらこの大作を華々しく響かせたのです(その時に何が起こったか……その話はいずれ、またの機会に)。

200年ぶりに発見された「王の礼拝堂」に続く鍵

さて――いま「王室礼拝堂」と書きましたが、実は現在知られているヴェルサイユの礼拝堂は、リュリが生きている間には完成していません。戦乱も重なり国王ルイ14世の礼拝堂構想も細かく確認できない中、王や王家の人々は別の部屋に設置された祭壇で礼拝を行ない、そこに王室の楽隊も来ていたのです。リュリが亡くなってから約四半世紀後、1710年に現在知られる礼拝堂が完成しますが、老王ルイ14世はわずか5年後に世を去ってしまいました。

1770年、ルイ14世の死から55年後に王室礼拝堂で行なわれたルイ16世(当時ドーファン・ド・フランス ルイ=オーギュスト)とマリー・アントワネットの結婚式

現在、王室礼拝堂に通じる大きな扉は基本的に開かれていますが、その鍵はナポレオン戦争の時代に紛失したまま、長く行方知れずになっていました。しかし2009年、当の鍵が200年ぶりに発見され、ちょっとした話題となりました。このアルバムのジャケットはまさにその時、宮殿で公式に撮影されたものです。

200年ぶりに発見された「王室礼拝堂への大門の鍵」

© Château de Versailles, Dist. RMN / © Christophe Fouin

ヴェルサイユ宮殿という閉鎖空間を彩り続けたリュリのグラン・モテ群は、作曲家が亡くなる数年前にまとめて楽譜出版され、後続世代の王室音楽家たちが式典音楽を書くときの重要な手本となり続けました。さらにその300年後、音楽学者や古楽演奏家たちの情熱豊かな研究を経て、今では録音物を通じて万人がアクセスできるようになりました。

フランス語圏を中心に欧州各地の最前線で目覚ましい活躍を続けるレオナルド・ガルシア・アラルコンとその共演者たちも、まさに秘められた世界への扉を私たちに大きく開くべく、楽譜に秘められたさまざまな「鍵」を探り当て、在りし日の作品そのものの脈動を鮮やかに「今、ここ」に伝えてくれるのです。

リュリ:テ・デウム、怒りの日、深き淵より
今回のCD
リュリ:テ・デウム、怒りの日、深き淵より

レオナルド・ガルシア・アラルコン指揮 ナミュール室内合唱団&カペラ・メディテラネア(古楽器使用)

Alpha(フランス)2019年8月発売

ALPHA444(原盤)/NYCX-10079(日本語解説添付版)

白沢達生
白沢達生 翻訳家・音楽ライター

英文学専攻をへて青山学院大学大学院で西洋美術史を専攻(研究領域は「19世紀フランスにおける17世紀オランダ絵画の評価変遷」)。音楽雑誌編集をへて輸入販売に携わり、仏・...

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