読みもの
2021.11.10
洋楽ヒットチャートの裏側で Vol.7

マドンナ狂騒曲 1987~史上最も売れた女性アーティストの13日間

インターネットがなかった時代、自らの手で数々の大ヒットを生み出した元洋楽ディレクター、田中敏明さんによるエッセイ。
前回はクイーン・オブ・ポップ、マドンナが、デビューからスターダムを駆け上がる様子を紹介しましたが、後編では満を持しての世界ツアーのお話。日本から始まったツアーは「マドンナ台風」「狂騒曲」と報道されましたが、その裏にはスターであり続ける努力を惜しまない、心優しいマドンナの姿がありました。

田中敏明
田中敏明 元洋楽ディレクター

1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...

1987年6月16日京都にて。撮影はオフィシャル・カメラマンのハーブ・リッツ。

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80年代は「マドンナの時代」! 約束通りワールドツアーは日本から

「Dreams Come True!/夢は叶います!」

マドンナが唱えたこの言葉は、日本のポップス・シーンを代表するグループ名となりました。

1985年、CNNは「’50年代はプレスリー、’60年代はビートルズ、’70年代はエルトン・ジョン、そして’80年代はマドンナの時代」と高らかに宣言。世界中に旋風を巻き起こし、社会現象となった‘80年代、彼女を担当したことは忘れられない思い出です。

1985年プロモーション来日時のインタビューでの「海外ツアーは必ず日本に真っ先に行くわ」の約束通り、1987年6月、”フーズ・ザット・ガール” ワールド・ツアーは日本から口火を切りました。

私はマドンナの魅力についてセールス・トークする日々が続き、通信社から新しい写真やインタビュー記事が入るたびに、彼女を表紙に使ってもらうように週刊誌に飛び込みでアプローチして、かなりの数が実現しています。

洋楽で社会現象を作っていくことが究極の目標だったのですが、マドンナの初来日のフィーバーぶりはそれを可能にし、この年はマドンナ(6月)、マイケル・ジャクソン(9月)と2人のスーパースターの来日コンサートが続いたことは、特筆すべき洋楽のエポックとなりました。

1987年6月11日から13日間の「6月のマドンナ狂騒曲」——。

ツアーのタイトルにもなった「フーズ・ザット・ガール」(1987)

来日直後から巻き起こった「マドンナ台風」

マドンナ一行40名は、大阪伊丹空港に到着(前日クルー50名が先乗り)。TVカメラ10台以上を含む取材陣、ファン、大阪府警・警備員など1,000名以上で空港は大騒動となりました。NHKは「大阪空港は昨年のダイアナ妃以来の大混乱!」と報道。ホテルまで多くの車と空にはヘリコプターが舞い、ショーン・ペンとの結婚式にヘリコプターが空中から取材し、慣れっこになっていたマドンナが「こんな経験は初めて!」と驚いていました。

14日、いよいよマドンナ初のワールド・ツアー“フーズ・ザット・ガール”の火ぶたが切られます。大阪スタジアムには、昼過ぎから数千人のファンが集まり、刻々と人波は膨れ上がりました。トレードマークの十字架ネックレス、ブレスレット、へそ出しルック、サングラスを身につけた和製“ウォナビーズ”も大勢出現! 

マドンナの歌って踊りまくるスタミナの秘訣は、ジョギングや毎日欠かさずに行う2時間のワークアウトにありました。ハードな日課を休むことなく自らに課す彼女はただ者ではありません。彼女の成功物語は、決してシンデレラ・ストーリーではないことを証明するステージでした。

翌日も成功裏にコンサートを敢行。同時期に来日し、大阪城ホールでコンサートを行なったビリー・ジョエルは、彼女に敬意を表し、「リヴ・トゥ・テル」「マテリアル・ガール」の一節をピアノで披露しました。

コンサート中止に号泣!? 心優しきレジェンド

東京への移動日(16日)には、夢に見た京都を訪れています。マドンナは古都の静けさと美しさに心打たれ、「ここに住みたい。とても平和だから……」とため息を漏らしました。昼食は好物の野菜の天ぷら、味噌汁、揚げ出し豆腐を。‘85年のプロモーション来日では穴子や鰯のお寿司が大好きだった彼女でしたが、完全な菜食主義となったため、小鉢の小魚には手をつけません。

同行したカメラマンが舞妓さんと一緒に撮影を行ない、他のメンバーが乗っている新幹線に京都駅から乗り込んで、マドンナは一路東京へ。駅にはカメラマン、記者など約70人が待機していましたが、追跡を振り切ってホテルへ移動。

“マドンナ台風”“狂騒曲”と報道される来日フィーバーを、パブリシストは「ビートルズ以来」「ダイアナ妃以上」と世界へ発信しました。

19日午後、ホテル宴会場でレコード協会による日本ゴールド・ディスク大賞グランプリ贈呈式が開かれ、‘86年洋楽で最も売れたアルバム『トゥルー・ブルー』、最も売り上げに貢献したアーティスト、マドンナにトロフィーが贈られました。ニューヨークからロサンゼルスへの弾丸出張で叶わなかった私の悔しい思いが、ようやく満たされることに。

日本ゴールド・ディスク大賞グランプリの贈呈式で

20日、東京初日。後楽園球場を下見に行ったマネージャーから、ステージは雨風が強く危険なため公演中止の報がマドンナに伝えられると、彼女は大声で泣きじゃくりました。これまでキャンセルの経験がないだけに、悲しみは大きかったのです。

翌21日、起床するとジョギングとワークアウトで心機一転。来日前から原宿へ行くことを楽しみにしていたマドンナでしたが、リハーサルを完璧にするために断念して、ライブに臨みました。

コンサート最終日の22日、後楽園球場のバックステージで、ささやかな出来事が。大好きな原宿へ行くことが叶わなかったマドンナのために、マネージャーが原宿で見つけてきた3人のダンサーを呼んできたのです。マドンナは盛んに拍手を送っていました。コンサート終了後、ホテルのペントハウスで10時過ぎから打ち上げパーティーが開かれ、マドンナはメンバー、関係者に「ありがとう」を連発。

23日夕方ホテルを出て、成田空港に。100人近いカメラマンが待ち構えていました。マドンナは彼らに笑顔を振りまき、「バーイ!」と手を振って、ゲートから18:00発のUA便に乗り込んでいきました。最後に、こんなメッセージを残して。

「全力投球のステージができて満足しています。ただひとつ、ショーが悪天候のためにキャンセルになってしまったことが残念でなりません。日本のみなさん、本当にありがとう。 Dreams Come True!」

それから34年後の今年8月16日、マドンナ63歳の誕生日。彼女とワーナーミュージックは、彼女の全カタログに関するワールドワイドなパートナーシップ契約を結びました。全世界で3億枚以上のレコードを売り上げ、史上最も売れた女性アーティストの新たな金字塔が確立されます。

田中敏明
田中敏明 元洋楽ディレクター

1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...

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