ムーミンの消失からスナフキンの音楽は始まる──『ムーミン谷の十一月』
かげはら史帆さんが「非音楽小説」を「音楽」から読み解く新連載。第1回は、出版から50年を経てなお、世界中で愛されるトーベ・ヤンソンのムーミンシリーズの最終作。ある秋、失われた「5つの音色」を取り戻すためにスナフキンが旅から戻ると、ムーミン一家は消えていた。音楽家スナフキンにとって、そして作者トーベ・ヤンソンにとって、ムーミンとはなにを意味していたのか?
東京郊外生まれ。著書『ベートーヴェンの愛弟子 – フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 – 名プロデューサ...
「5つの音色」を求めて帰ってきた音楽家スナフキン
スナフキンは音楽家だ。
ムーミンたちが冬眠を意識しはじめる秋、スナフキンはひっそりとムーミン谷を発つ。彼は眠らない。冬は彼にとって旅のシーズンであり、音楽活動のシーズンだ。中世の吟遊詩人さながら、彼はさまざまな土地をたずね歩き、ハーモニカを吹く。
南へ向かって黙々と歩きながら、あるいは夜にたき火をみつめながら、彼は楽想が「降りてくる」のを待つ。待つときの彼は真剣そのものだ。待っているさなか、小さなはい虫に邪魔をされ、彼らしくもなく八つ当たりしてしまった過去もあった。だから彼の旅はいつもひとりだ。ひとりでなければ音楽は作れない。
けれど、その年の秋は様子がちがった。
彼は夏に、ムーミン谷で「5つの音色」と出会っていた。今年の旅のモティーフはこれだ。そう決めた彼は、秋までその音色を大切に心にしまっていた。ところがいざ秋になり、ようやく念願の旅に出た彼は、その「5つの音色」が失われてしまったのに気がついた。手にしたハーモニカは無音のままだ。いったいなぜだろう。スナフキンははたと気づく。
あの五つの音色は、ムーミン谷においてけぼりになったんだ。ぼくが谷に帰らなくては、ぼくのところには帰ってこないんだ
ところが来た道を引き返し、ようやくたどりついたムーミン谷でスナフキンが見たのは、思いがけない光景だった。
“くまで”を手にしてどなるへムレンおじさん。ピリピリしたフィリフヨンカ。思いつめた顔をした小さなホムサ。小川のほとりで寝ているスクルッタおじさん。われ関せずとばかりに長い髪をとかすミムラねえさん。
いったいなんなんだ。このちぐはぐなメンツは。ムーミントロールは、ムーミンパパは、ムーミンママは、みんなどこへいってしまったのだろう?
やがてスナフキンは、おどろくべき事実を知る。ムーミンたちがもうこの谷にいないということを。
ムーミン谷で苦悩する5つの不協和音
トーベ・ヤンソンの全9作のムーミン物語の最終作『ムーミン谷の十一月』は、こうして幕を開ける。
ムーミン一家がどこに行ってしまったかは、読者にはあらかじめ明かされている。第8作『ムーミンパパ海へ行く』で、一家がムーミン谷を離れて島暮らしをする様子が描かれているからだ。
スナフキンが出くわした5人は、そうとは知らず、それぞれの理由でもって、ムーミンたちに会うために谷にやってきたひとびとだった。
スナフキンは戸惑いを隠せずにいる。
ムーミンたちがいなくなってしまったからではない。自分もまた、ムーミンに救いと癒しを求めている奇妙な連中の一員であるという事実に直面したからだ。妹のミイに会いに来たミムラねえさんをのぞけば、だれもが心に病や傷をかかえている。家事をしすぎてノイローゼになったフィリフヨンカ。平凡な日常に嫌気がさしたへムレン。子どもや孫とのつきあいを放棄したスクルッタおじさん。ムーミンママの姿を毎晩妄想しているホムサのトフト。そして、——楽想を失ってしまったスナフキン。
いったい、どうして、ぼくは、この谷へもどってきたんだろう
後悔がうずまく。
あいつらは、音楽のことなんて、ちっとも知りやしないんだ
ムーミンとは何なのか
ムーミンがいないムーミン谷で、みなが答えを求めて自問自答する。そしてみな他人の答えを許容できない。トフトはムーミンママに会ったことさえないのに、ママを聖母のごとく崇拝している。主婦としてのプライドを捨てきれないフィリフヨンカは、みなのムーミンママへの賞賛を聞くたびに深く傷つく。だからあるとき、耐えきれずにこう叫ぶ。「そんなにムーミンママがえらいんですかね!」
とんだ不協和音だ。へムレンおじさんは勝手に川辺に看板を立てるし、トフトはスナフキンに対してどこかけんか腰だ。あなたはみんなから尊敬されている。けれどぼくは尊敬されない。やってることなんてたいして違わないのに、なんでさ。そんなひねくれたコンプレックスさえも見え隠れする。ほとほとうんざりだ。
「連中ときたら、ムーミンたちとは大ちがいだ」……そう思ったところで、スナフキンははっとする。「ムーミンだって、うるさいことはうるさい」「でも、ムーミンたちといっしょのときは、自分ひとりになれる」
だからこそ、スナフキンはムーミン谷を愛した。「5つの音色」を見つけたのも夏のムーミン谷だった。音楽家である彼にとって、ムーミンとはインスピレーションの源泉であり音楽生活の庇護者だったのだ。
けれど、変わりゆく世界を押しとどめることはできない。ここはもうかつてのムーミン谷ではない。秋は深まり、やがて冬がやってくる。たとえムーミンたちがいなくても。
待つことから、暮らすことへ。彼らは、静かなあきらめとともに互いを受け入れていく。
ある日の夜、彼らは親睦のためのパーティーを催す。ヘムレンおじさんは自作の詩を読み、ミムラは美しい髪を垂らしてダンスをおどり、フィリフヨンカはムーミン一家の影絵を見せる。スナフキンはハーモニカに唇をあて、その影絵にさりげなくBGMを添える。
スナフキンのハーモニカは、気がつかないくらいしずかで、かげ絵がおわってから、やっと、ハーモニカをふいていたのがわかったほどでした
彼はついに、じぶんのアイデンティティである音楽を、彼ら5人のために捧げるのだ。それは、ムーミンが消失した世界に寄せる、ひそやかなレクイエムでもあった。
ムーミンの消失から音楽は生まれる
夜あけの光が、しらじらとさしはじめるころ、スナフキンは、自分の五つの音色をつかまえに、海べへ出かけていきました。こんなだったらいいなあと思っていたよりも、もっとさわやかで、美しい音色でした
物語の終盤、スナフキンはついに探し求めていた楽想をつかまえる。「5つの音色」——それはいうまでもなく、ムーミン谷にやってきた自分以外の5人を象徴している。5人を受け入れたとき、彼の芸術は「もっとさわやかで、美しい音色」へと変容をとげた。
秋の旅路でスナフキンが直面したのは、ある種の創作上のスランプだったのだろう。夏をムーミンとともに過ごし、その暮らしのなかから楽想の種を得て、秋になると曲を完成させるための旅に出て、春にふたたびムーミン谷に戻ってくる。その創作スタイルに別れを告げるべきときが来たのだ。スナフキンは新しい楽想をたずさえて旅に出る。谷に戻ってくるのかどうかは、物語のなかでは明言されない。
スウェーデン文学者の冨原眞弓によれば、トーベ・ヤンソンは、ムーミンシリーズを支えてきた最愛の母の死を目前にこの最終作を書いたという。とき1970年、いまからちょうど50年前のことだ。すでに世界的ベストセラーとなり、キャラクターコンテンツとしても成功をおさめていたムーミン。それを手放すとは、作家であり画家でもあった彼女自身の創作の神と別れることにほかならなかった。
ヤンソンはその後、ムーミンの世界を離れ、大人向けの小説を手がけるようになる。スナフキンが新しい「5つの音色」とともに歩む旅路とは、ヤンソンの未来そのものだったのかもしれない。
本: トーベ・ヤンソン鈴木徹郎訳『ムーミン谷の十一月』(講談社、1990年)
参考文献: 冨原眞弓『ムーミンを生んだ芸術家 トーヴェ・ヤンソン』(新潮社、2014年)
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