《すべては小さな帽子のせい》〜風変わりなタイトルのオペラを作り続けたジークフリート・ワーグナー
青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。iPhone、iPad、MacBookについては、新機種が出るたびに買い換えないと手の震えが止ま...
オペラ作曲家としてのデビューを《熊の皮を着た男》で果たしたリヒャルト・ワーグナーの息子、ジークフリート・ワーグナー。バイロイト音楽祭では父親の作品の指揮を手がけ、音楽面・事務面における手堅い劇場運営には、当時から評判が高かったようです。
父親は溢れる才能を音楽の世界に注ぎ込むと同時に、自身の才能を支えるための贅沢が必要、と称して、数々の(他人にとっては迷惑な)振る舞いに及び、男女ともに泣かされたひとは数知れず。ジークフリートは、そんな父親の子とは思えぬほど穏やかな性格であったようで、おなじく気難しい指揮者アルトゥール・トスカニーニが、ジークフリートの人柄に惚れ込んだ、というエピソードが残るほどです。
ただ、浮いた噂のひとつもなく、いわれるがままにヴィニフィレート・クリントヴォルトとお見合いし、そのまま結婚してしまったというところから見ると、穏やかな性格というのは、圧倒的に強い母コジマに対しての服従、そして他者に対する無関心と紙一重であったのかもしれません(ジークフリートに同性愛的な傾向があったため、ともいわれます)。
その後もジークフリートは、ほぼ1年1作の割合で、ドイツの童話をもとにしたオペラを作り続けました。父親の強烈な個性の前には影が薄く感じられることもまた事実ですが、本人の人柄を反映させたような音楽もまた、心温まるものです。このコラムに即したタイトルを挙げるならば、《すべては小さな帽子のせいAn alle mist Hütchen schuld!》(1915年)、そして亡くなる前年の《それぞれのひとたちが被った小さな呪い Das Flüchlein, das Jeder mitbekam》(1929年)あたりをご紹介すべきでしょう。ぜひ一度、実際の舞台で体験してみたいものです。
1930年、ジークフリート・ワーグナーは、母コジマの死後4ヶ月で、あとを追うように、突然の心臓発作で急逝します。争いを好まぬ性格から、この時期台頭していたナチス党とも距離を取っていましたので、その後も存命であれば、バイロイトの運命はかなり違ったものになっていたに違いありません。
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