リスト最晩年の心と体をホッとさせた 滋味深いスープ
歴史料理研究家の遠藤雅司さんが、作曲家をその食卓からクローズアップ。毎回、実際に再現したレシピもご紹介します。人間の根源的な欲求=食のエピソードからは、大作曲家の人間くさい一面が見られるかも!?
歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...
今回は19世紀を代表するピアノのヴィルトゥオーソ、フランツ・リストを紹介します。リストは1811年10月22日にドボルヤーンに生まれました。現在のオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディングにあたり、当時はオーストリア皇帝が王位を兼任したハンガリー王国に属していました。
チェルニーからピアノを、サリエーリから作曲理論を教わる
リストの家庭ではドイツ語が話され、パリに拠点を移した12歳からはフランス語を使うようになりますが、彼のアイデンティティは常にハンガリーにありました(もっとも、ハンガリー語を流ちょうに操ることは生涯を通じてなく、後年の活動もドイツ語圏の楽壇中心となりました)。
そんなフランツは、6歳より父の手ほどきでピアノを始めると瞬く間にその才能を発揮します。1820年秋に早くも近郊都市エーデンブルク(現ハンガリー、ショプロン)で公に演奏する機会を得ています。
1822年5月、リスト一家はオーストリア帝国の首都で、多くの音楽家が集まって演奏会が開かれていたウィーンへ引っ越しました。フランツ少年はチェルニーからピアノを、宮廷楽長のサリエーリから作曲理論を教わりました。演奏面では初見、即興、移調などの技術を高め、正確なリズム、音色の付け方、正しい運指などを吸収し、数か月でバッハやベートーヴェンなど古今の大家たちの作品を弾いて存分に技量を発揮します。
父親の急死により15歳で独立
1823年12月、リスト一家はウィーンを後にして、パリへと移り住みました。リストは作曲をパエール、音楽理論をライヒャに個人指導を受けました。翌年3月7日のパリ・デビュー演奏会も大成功を収め、その年の6月にイギリス・デビューも果たします。若き天才ピアニストとしてのリストの名は、瞬く間にヨーロッパ中に広まりましたが、ここで父親の急死という悲劇が起こります。
15歳にして独り立ちすることとなったリストは、ピアノ教師として再出発しました。パリでの日々は実りあるものでした。多くの芸術家や音楽家がパリを訪れる環境下で、彼らと交流を図ることができました。
規格外のピアノの名手となった後、波乱の人生を歩む
1831年、並外れたヴァイオリン演奏の技量で話題を呼んでいたパガニーニがパリにやってきます。その演奏会で衝撃を受けたリストは、自分もピアノにおいて彼のような規格外の名手になろうと猛練習を開始。やがて本格的な演奏活動に乗り出し、ずばぬけたテクニックでヨーロッパ中を虜にしてしまいました。大きな手と高度な演奏技術を必要とするピアノの難曲を続々と書き始めたのもこの頃のこと。
1835年には6歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人と手を携えパリを離れ、スイスを皮切りにイタリアまで及んだ逃避行は1839年まで続き、旅中に書きためた音楽は後に「巡礼の年」シリーズに結実。この間に二人は3人の子にも恵まれ、1837年に生まれた2人目の娘コジマは、後に作曲家ワーグナーの妻となりました。
1848年の市民革命とその鎮火を経て、リストはヴァイマールの宮廷に迎えられ、指揮を任されたオーケストラのため一連の交響詩など斬新な管弦楽曲を書き始めます。ワーグナーと共に新しいドイツ音楽の旗手と目された彼の元には、作曲やピアノを学びに続々と才能ある若者が訪れるようになりました。
幼年期以来の宗教的関心からローマに赴き、下級聖職位を授かるのが1865年。1873年にドナウ両岸の都が合併したハンガリーの王都ブダペストで過ごす時間も長くなり、後年のリストの生活はヴァイマール、ローマ、ブダペストと三都にまたがることとなったのでした。
身体を酷使し続けたツケが晩年に
そんなリストの食のエピソード。若い時から酒とタバコを嗜む生活でしたが、最晩年でもコニャック、ワイン、アブサンを常飲するなど、アルコール浸りの日々を過ごし身体を酷使します。歯も悪くなり、アプリコット・ソースの仔牛カツレツを噛み切れず食べられなかったという悲しいエピソードも残されています。
最晩年のリストが味わったひじょうに澄んだスープ
そんな最晩年のリストが味わったのは、ひじょうに澄んだスープでした。おそらくコンソメのようなスープと思われます。リストが長年住んだドイツでは、1864年刊行の『ドイツ市民倹約料理書』に野菜や豆のスープのレシピが収録されていますので、そちらを取り上げてみます。
129. レンズ豆のスープ(いろいろなやり方で)
作り方は先掲のスープ(エンドウ豆のスープのこと)と同じだが、エンドウ豆の代わりに同量のレンズ豆を使う。これは豚の鼻や耳、焼いた牛乳パンなどにも合う。
日用レンズ豆スープというのもあり、これも日用エンドウ豆スープと同様に作るが、レンズ豆は5割ほど減らしても問題ない。ここでもシュペックなどの塩漬肉、セロリとルリジサ*、適量の焼いた牛乳パンなどを合わせても悪くない仕上がりになる。
*ルリジサ:地中海沿岸に自生するムラサキ科の一年草。
レシピに関して追記すると、日用エンドウ豆スープは塩漬肉の類を使って、エンドウ豆のペーストで塩気を調整しながら作り、スープを煮込んだらセロリまたはルリジサを加えます。日用レンズ豆スープも同様に作るというものです。また、一般家庭の食卓で豚の鼻や耳を使うのは難易度が高いので、ベーコンとソーセージで代用しましょう。
ルリジサは当時ヨーロッパでセロリなどと共に食された野菜ですが、
今回は最晩年のリストが味わったスープとして、具材を煮込んだ後に濾して、スープだけで提供しましょう。市民の倹約料理書ならではのレシピでは、手軽に入手できる食材で味わい深い料理が取り上げられていました。
レンズ豆や塩漬け肉が煮込まれた、エキスたっぷりの滋養に富んだスープであれば、リストにとって心も体もホッと一息つける味わいとなったのではないでしょうか。
材料( 4 人分)
乾燥レンズ豆 100g
*水煮の場合は200g
長ソーセージ 4本
ベーコン 50g
セロリ 100g(1本)
水 1ℓ
塩・コショウ 適量
パセリ粉(飾り用) 1つまみ
作り方
1. 乾燥レンズ豆を分量外の水に浸す(水煮の場合は水を切っておくとよい)。ベーコンを3cmの短冊切り、セロリはざく切りにする。
2. 鍋に1. のベーコンと長ソーセージを入れ、弱火で5分炒める。
3. 2.の長ソーセージを取り出した後、レンズ豆、セロリ、水を入れ、火にかけ沸騰したら弱火にする。
4. 時々混ぜながらアクを取り、レンズ豆が柔らかくなるまで40分煮る。水煮のレンズ豆でも同様。
5. 塩、コショウを入れ、味をととのえる。3.で取り出した長ソーセージを入れ、5分弱火で煮る。
6. 5.を濾して、器に注いでパセリ粉をふりかけて完成。
ポイント
*リストに捧げるレシピなので濾して作ったが、リストに思いを馳せ終えたら食材を加えて味わいたい。
*リスト向けレシピに仕上げたが、原文同様に焼いたパン類を千切ってスープに浸して味わうのも楽しい。
*原文をより尊重し、ボリジオイルを入手できたら、
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