ベートーヴェンとゲーテ~出会いと決別編~
年間を通してお送りする連載「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第34回は、「ヨーロッパの二大精神の邂逅」と言われるベートーヴェンと文豪ゲーテの出会いを紹介します。
神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...
偶然、避暑地の公園で出会う
独唱曲にかぎっても生涯を通じて100におよぶ歌曲を手がけたベートーヴェン。同時代のドイツ文学にきわめて造詣が深く、難聴と体調を改善しようと夏ごとに湯治に出かけた際にも、おびただしい冊数の詩集と文学作品を携えていたと言われる。
そんなベートーヴェンと、ドイツの二大文豪、ゲーテとシラーを結んだ関係についていうなら、シラーがほぼ半生にわたり《第九交響曲》への壮大なインスパイアを与え続けた一方で、ゲーテと楽聖との関係は、どうやらいささか複雑な要素を含んでいたようだ。
©MjFe
ゲーテによる3つの歌(ゲザング)Op.83
文学界に君臨したゲーテと、ドイツ音楽のカリスマとなりつつあったベートーヴェンとの出会いを最初にドキュメントしたのは、1930年、フランスの文筆家ロマン・ロランによるエッセイ、『ゲーテとベートーヴェン』であった。ふたりの芸術家をめぐる同時代人の書簡やメモを検証しつつ、ロマン・ロランは、両者が互いにどのようなイメージと先入観を抱いていたのかを点描し、そしてその後実際に華やかな夏の避暑地で会見して苦い別れを体験するまでの顛末を、情感のこもった筆致で再現する。
ロランによれば、幼少の頃からゲーテ作品に傾倒し、詩人を崇拝して過ごしたベートーヴェンに対して、ゲーテのほうでは、古典主義的な美の規範を突き崩す若い作曲家の破壊性を恐れ、また、その革新性に対して多少のコンプレックスを抱いていたらしい。
複雑に相克する感情を抱いたまま、ふたりは1812年、ボヘミアの湯治場、テプリツェにて邂逅する。
かねてから近郊の高級保養地カールスバートを逗留場所としていたゲーテは、たまたまこの夏、主君であったワイマール公、カール・アウグストの命でにわかにテプリツェに召喚されたのだった。ゲーテのファンを標榜していたオーストリア皇后、マリア・ルドヴィカが、公とともに当地を訪れていたことが理由であった。この機に、ゲーテは皇后と主君を前にして自作の朗読を披露し、食卓をともに過ごしたようだ。
そして奇遇にも、ベートーヴェンもまた、このとき当地テプリツェに足を伸ばしていたのである(テプリツェでの出来事については「ベートーヴェンと1812年失踪事件」参照)。
小さな避暑地で「ふたりの巨匠の奇跡の出会い」が実現するまでに、さして時間はかからなかった。テプリツェに呼び出されて5日後の7月19日、たまたま公園を散策するベートーヴェンを見かけたゲーテが声をかけ、ふたりはすぐさま意気投合したらしい。
ゲーテの対応に落胆し、残念な結末に……
だが、ここに生まれた交流は、20歳違いの芸術家が相互に抱いた傲慢の念から少しずつ行き違い、やがて言いようもない落胆の感情で幕を閉じることにになる。
ゲーテの前で数度にわたりピアノ演奏を披露したベートーヴェンは、詩人の喝采を「表面的でおざなりなもの」としてしか受け取れなかった。ベートーヴェンはやがて、幼い頃から心底崇拝してきた作家の実際の人格のなかに、鼻持ちならない俗物性を感じるようになった。
そして、出会いからわずか1週間後、ふたりの仲を引き裂く決定的な事件が起きる。昼下がりにプロムナードを散策中、皇后マリア・ルドヴィカとその取り巻きを見かけたゲーテが彼らに敬意を表して道を空け、恭しく頭を下げた儀礼的行為を、ベートーヴェンが激しく揶揄したのである。
若い作曲家は、「われわれに道を空けなければならないのは彼らのほうですよ!」と言い放ち、両手を大きく振って遊歩道の真ん中を堂々と歩み続けた。ベートーヴェンはゲーテのあまりにも宮廷風な振る舞いを大袈裟に罵って、知人らを相手に怒りをあらわにし、ほどなくテプリツェの宿を引き払う。他方、ゲーテはこの無礼な行為に心底辟易し、ベートーヴェンを嫌う知人の音楽家ツェルターに宛てて、苦言に満ちた書簡をしたためた。
こうして、ドイツ文学と音楽を代表した2つの星、2つの太陽の一期一会は、あまりにもはかない終わりを迎えたという。
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