読みもの
2020.10.19
週刊「ベートーヴェンと〇〇」vol.35

ベートーヴェンとゲーテ~再会編~

年間を通してお送りする連載「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第35回は、文豪ゲーテとの決別の後日談を紹介します。テプリツェで気まずい別れ方となってしまったようですが、2人の関係には亀裂が入ったままだったのでしょうか?

山之内克子
山之内克子 西洋史学者

神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...

ヨゼフ・カール・シスラーによるベートーヴェン(1820年)とゲーテ(1828年)

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テプリツェでの決別は“永遠の別れ”だったのか?

互いに強く惹かれあいつつも、素直に歩み寄れない芸術家同士の感情的相克。広く語り継がれた避暑地テプリツェでの決別のエピソードは、数世代にわたって多くの文学、音楽愛好家の心に切ない思いを湧き上がらせてきた。

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しかし、その一方で、テプリツェの遊歩道でのいかにも出来すぎたハプニングに対して、茶番劇じみた不自然さを感じる人びとも、決して稀ではなかったはずだ。長い憧憬のときを経てようやくかなった出逢いが、そもそもこれほど些細なきっかけで容易に崩壊にいたるものなのだろうか。

在野の研究者としてベートーヴェンの生涯にアプローチした青木やよひ氏は、著書『ゲーテとベートーヴェン』(2004年、平凡社)の中で、この謎に鋭く切り込んでいる。

青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』(2004年、平凡社)

当時、隣接して立ち並び、それぞれが賓客を集めたカールスバート、テプリツェ、フランツェンスバートという3箇所の湯治場の宿泊客リストを綿密に調査した青木氏は、1812年7月末、テプリツェを引き払った後のベートーヴェンが、その西側に比較的小規模で落ち着ける雰囲気をまとって佇むフランツェンスバートへと居を転じたこと、さらに、彼が滞在した宿の真向かいのホテルに、ゲーテ夫人クリスティアーネおよび、ゲーテ家の親しい友人アントーニア・ブレンターノ夫妻が、時期を同じくして滞在していたことを突き止める。

テプリツェとフランツェンスバートの位置関係

この優しき人びとは、ベートーヴェンとのあいだにも心のこもった交流を持っていた。当時すでに難聴が悪化していたベートーヴェンは、相手の言葉を十分に聞き取れず、誤解から激しく憤慨するようなことがしばしばあった。テプリツェでのゲーテとの熱に浮かされた1週間を補うかのように、静かなフランツェンスバートで過ごしていたベートーヴェンに対して、フランチェスカやアントーニアは、ゲーテが若い作曲家を実際にどれほど高く評価していたかを、書簡やメモなども交えてじっくりと伝えていたのではないか、とするのが青木氏の推論である。

実は再会して仲直りしていた?!

そして、事実、7月のテプリツェは、ふたりの邂逅の幕引きの場ではけっしてなかった。フランツェンスバートでの癒しの時間を経て、ベートーヴェンは9月8日、ゲーテが湯治の本拠地としていたカールスバートの宿を再び訪ねているのである。ゲーテのメモによれば、この日、ベートーヴェンは上機嫌で昼に来訪、さらに、夜になってプラハ通りでもう一度約束してふたりで会っていたようだ。ほんの数行のメモではあるが、誤解とルサンチマン(屈折した反感)を解消した、楽しい共感の時間を垣間見せるには十分であろう。

ナポレオン戦争の終結と、それにつづくウィーン会議。当時のヨーロッパはまさしく世界史の激流に呑まれようとしていた。その最中にあって、ふたりの芸術家が以後も時期を約して同じ避暑地で過ごすことはかなわなかったようだ。ベートーヴェンはそののち保養の旅路をボヘミアにまで伸ばすことは二度となかった。

しかし、ドイツの文学と音楽をそれぞれ輝き立たせたふたりの芸術家は、よく言われるように、反発と無理解のうちに袂を分かったわけではけっしてない。ベートーヴェンが晩年に至るまで、ゲーテとともに過ごした時間を誇りに満ちた思い出として周囲に語り続けていたことは、当時を知る音楽評論家ロホリッツが詳しく伝えるところである。

ベートーヴェンの音楽を高く評価していたゲーテ

また、ゲーテの側でも、1821年、ツェルターが愛弟子フェリックス・メンデルスゾーンを伴って来訪した際、この12 歳の天才少年に誇らしげにベートーヴェンの手稿譜を弾かせたというエピソードが残っている。

テプリツェでの邂逅から2年、ベートーヴェンがゲーテの戯曲に曲をつけて仕上げた《エグモント》が、いよいよワイマール宮廷劇場にて上演を迎えることになる。すでに1812年の出会いより前に、ベートーヴェンがゲーテ本人からの批評をしきりに乞うていた作品である。ゲーテ自身の監督下に、両者の共同作品が舞台に上がったとき、ベートーヴェンはこの上ない感動に打ち震えたに違いない。

さらにその2年後、ゲーテがオペラ《フィデリオ》をワイマール劇場のレパートリーに取り入れたことは、楽聖を真の意味では理解しえなかったとされる詩人が、実際にはその作品と音楽をきわめて正当に評価していたことの証といえるだろう。

舞台劇(悲劇)《エグモント》

ゲーテとベートーヴェン。ロマン・ロランをはじめ、多くの文筆家や文化史家が数世紀にわたって紡いだ伝説は、あまりにも偉大な芸術家の魂を、まるで自身の存在を焼き尽くしながら時代の天空を飛ぶまばゆい彗星のごとき存在として描きだした。しかし、その陰には、いかにも人間らしい誤解や優しさ、和解を秘めた、より日常的で親密な真実が密かに隠されているのだ。

ふたりの邂逅をめぐるエピソードは、今日の私たちに、歴史史料を丁寧に紐解くことのおもしろさとその意義をも十分に伝えてくれるようだ。

山之内克子
山之内克子 西洋史学者

神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...

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