フィクションにおけるリアルとは?〜木ノ下歌舞伎×岡田利規が生み出す新たな『桜姫東文章』
舞踊・演劇ライターの高橋彩子さんが、「音・音楽」から舞台作品を紹介する連載。今回は、木ノ下歌舞伎が岡田利規を演出に迎え上演する『桜姫東文章』。フィクションならではの奇想天外なエピソードが展開する歌舞伎の名作は、いかにしてリアリティを持たせ、現代の我々に伝えてくれるのでしょうか。
早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心に執筆。『The Japan Times』『E...
人は人工的な音・音楽に「本物の鳥のさえずりのようだ」とうっとりしたかと思えば、森の木々から水が滴る音の美しさに「精巧に作られた音楽のようだ」と感動したりもする。
さまざまなレベルの虚構と現実があふれ、それぞれの中で自分たちに響くもの=“リアリティ”を追い求める私たち。それは舞台にも言えることだろう。舞台というフィクションにおけるリアルをめぐるスリリングな試みを、木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』で観ることができそうだ。
奇想天外な物語
歌舞伎で以前から上演されていた“清玄桜姫物”をもとに鶴屋南北が書き、1817(文化14)年、江戸歌舞伎の大スター、七代目市川團十郎と美貌の名女方、五代目岩井半四郎により初演された『桜姫東文章』。
以後、ある時期には上演が途絶え、ふたたび脚光を浴びるということを繰り返してきたこの作品の歴史は、浮き沈み激しく流転する登場人物たちともどこか重なるかもしれない。1959年には作家・三島由紀夫の監修、1967年には歌舞伎研究者・郡司正勝の補綴により上演され、今に至る。
一昨年には歌舞伎座で片岡仁左衛門と坂東玉三郎が、黄金コンビならではの密度と美しさのある芝居を見せたし、同年、舞踊家・藤間勘十郎が素踊りの舞踊公演で上演した戸部和久作『清玄桜三囲入相』は、勘十郎が清玄・権助・浪平・桜姫の霊を、尾上菊之丞が清玄と同名の清玄(きよはる)を演じ、原作の世界を換骨奪胎して送る快作だった。
さらに昨年はルーマニアの鬼才演出家シルヴィウ・プルカレーテが海外の目から見た歌舞伎の不思議さ・面白さをデフォルメして用いつつ、独自の洗練や退廃、寂寥感と共に構築した『スカーレット・プリンセス』も上演された。このように“桜姫”は近年も注目される機会が多い題材と言える。
ともあれ、現在上演されている歌舞伎の『桜姫東文章』の物語を見ていこう。
発端は、僧・清玄が稚児・白菊丸と海で心中を図る場面。二人はその際、香箱の蓋に清玄、本体に白菊丸と名を書いて交換する。白菊は入水自殺を遂げるが、清玄は飛び込むことができず自分だけ生き残ってしまう。
それから17年。清玄は高僧となっている。そこへ、生まれつき片手が開かないことから、許婚の入間悪五郎から婚約を破棄された吉田家の姫君・桜姫が、出家を決意して清玄のもとを訪れる。桜姫は屋敷に入った盗賊に父と弟を殺されており、大事な家宝・”都鳥の一巻”もその時に失われたため、お家取り潰しとなっていた。
ところが、清玄が桜姫のために念仏を唱えるとその手が開き、中から「清玄」と書かれた香箱の蓋が出てきた。ちょうど17歳の桜姫は白菊丸の生まれ変わりだったのだ。
さて、桜姫の手が開いたと知った悪五郎は釣鐘権助と呼ばれるならず者に恋文を託すが、その権助の腕の刺青を見た桜姫は、彼こそ、父と弟が殺された晩に自分を犯した男だと気づく。桜姫はそれ以来、男を恋い慕い、同じ彫り物を腕に彫るほどで、しかも彼とのあいだにできた赤子を産み落としていた。喜ぶ桜姫が出家の決意を捨てて権助にふたたび身を任せようとしていると、事が露見。権助は逃走し、悪太郎の讒言で相手の男は清玄であるとされてしまう。桜姫と清玄は不義密通の罪で非人となり、流浪の身となる。
桜姫は一緒になりたいと望む清玄を拒み、二人は離れ離れに。やがて桜姫は権助と再会してその女房となると同時に女郎屋に売られ、一方、清玄はひょんなことから桜姫の赤子をそうとは知らぬまま育てることになるが、やがて殺され、幽霊となって桜姫につきまとう。清玄の手を離れた桜姫の赤子は偶然にも桜姫と権助のもとへ。しかし桜姫は、実は権助こそ、父と弟の敵であり、都鳥の一巻を奪った張本人であると知って、権助と子どもを殺害。一巻も権助から取り戻し、吉田家はめでたくお家再興となるのだった。
現代からの応答〜リアルとは何か〜
奇想天外なエピソードが次々に展開する『桜姫東文章』。まさにフィクションでしかあり得ない面白さだが、そこにリアリティを見出すことができるとしたら、まずは演者の確かな存在感と演技が第一だろう。片岡仁左衛門と坂東玉三郎の舞台は、その好例と言える。
また、高貴な姫君ながら零落し流転してもどこか生き生きと順応する桜姫の姿も、観る者を引きつける。例えば遊女となった桜姫が、姫言葉と聞き覚えた女郎言葉のまぜこぜで喋るとき、その可笑しさと愛らしさがこのキャラクターに親しみを抱かせずにはおかないし、ひたすら落ちぶれていく清玄の哀れさとのコントラストも鮮やかだ。
そうした流転を経て、桜姫が何事もなかったように元のお姫様に戻るラストは荒唐無稽だし、実子とその父親を平然と殺すのだから残酷なことこの上ないのだが、なんとなくめでたく華やかな幕切れとして成立するのが歌舞伎のマジックであり、独自のリアリティゆえかもしれない。
とはいえ、果たしてこのラストは本当に桜姫にとってハッピーエンドなのだろうか。自分の欲求のままに生きた桜姫がすべてを清算してもとの身分に戻ることは、家制度の中にふたたび自らを閉じ込めることとも言える。そこは、手が不自由だというだけで婚約を破棄されるような世界であり、家のためなら犠牲をいとわない世界なのだ。もっとも、男に女郎屋へ売られる人生も自由とは言えないけれども。
このように、現代的な目で物語を見ると湧いてくる違和感にも、木ノ下歌舞伎版『桜姫東文章』は、応えてくれる舞台になるかもしれない。
歌舞伎研究者でもある木ノ下裕一が主宰する木ノ下歌舞伎は、「歴史的な文脈を踏まえつつ、現代における歌舞伎演目上演の可能性を発信する」(公式ウェブサイトより)ことをミッションに、歌舞伎の古典演目を、小劇場などの俳優により上演している団体。木ノ下は監修や補綴を務め、毎回、外部から招いた複数の演出家が演出を手掛けるスタイル。
特長と言えるのは、滅多に上演されない場面を入れるなど古典と真っ向から向き合いながら、現代的な衣裳、音楽、演技などと融合させているところにある。これまで、いずれも5~6時間の上演時間の『義経千本桜』『東海道四谷怪談』『三人吉三』のほか、『黒塚』『勧進帳』『糸井版 摂州合邦辻』など、印象的な舞台を数多く上演してきた。
今回、演出を担うのは、劇作家・演出家の岡田利規。木ノ下の補綴をもとに自身が書いた脚本を用いる。岡田といえば、整わずダラダラと続く台詞や、それとは無関係のようにして行なわれる仕草などが、その演劇の代名詞となっているが、どちらも狭義の演劇的リアリズムからは離れた日常的な、つまりある意味でとてもリアルな世界だ。
劇中劇的なスタイルを採る今回の『桜姫東文章』でも、その要素は健在。明かせない設定もあって歯切れが悪くなってしまうが、岡田が一昨年演出したオペラ《夕鶴》にも通じるような、原作に対する現代からの応答が、テキストにも演出にも見受けられる。
この《夕鶴》は、男性たちによるつうの搾取を顕在化させた点で大きく評価できるものだった。詳しくはバレエ専門ウェブメディア『バレエチャンネル』の拙連載「ステージ交差点」第19回に書いたので検索してお読みいただければと思う。
出演は、清玄/権助ほかに成河、桜姫/白菊丸ほかに石橋静河、など。サウンドデザインの荒木優光が、レゲエのサウンドシステムも使いながら舞台上でオペレートする音にも注目だ。
江戸の感性と様式美で成り立つ歌舞伎の世界を、現代の感覚で捉え直す舞台。そこに私たちはどんなリアルを見出すのか。そしてその意味とは何か。ぜひ劇場で味わい、考えたい。
作: 鶴屋南北
監修・補綴: 木ノ下裕一
脚本・演出: 岡田利規
出演: 成河、石橋静河、武谷公雄、足立智充、谷山知宏、森田真和、板橋優里、安部萌、石倉来輝
東京公演
日程: 2023年2月2日(木)〜2月12日(日)
会場: あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)
豊橋公演
日程: 2023年2月18日(土)、
2月19日(日)
会場: 穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホール
京都公演
日程: 2023年2月22日(水)、
2月23日(木・祝)
会場: ロームシアター京都 サウスホール
久留米公演
日程: 2023年3月4日(土)、
3月5日(日)
会場: 久留米シティプラザ 久留米座
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