インタビュー
2022.12.12
「音大ガイド」音大・音大卒業生関連の取材

ここが私の居場所だ! と信じてからは人が変わったように行動しました

音楽雑誌『音楽の友』(音楽之友社)の編集者、掛川桃花(かけがわ ももか)さんにインタビュー。おっとりとおだやかで、子どもの頃はなんとなくピアノの先生になるんだろうなあと思っていたという掛川さんが、なぜメディアの仕事をするに至ったのでしょうか? 掛川さんの今のお仕事や将来の夢とともに、そこへ至る道のりを伺いました。

*記事は内容の更新を行っている場合もありますが、基本的には上記日付時点での情報となりますのでご注意ください。

取材・文:青野泰史

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――月刊誌『音楽の友』編集部でのお仕事の様子を教えてください。

掛川 今年2022年の10月号で担当しました、特集「BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)とバッハの世界」を例にお話ししますね。まずはどういうページ構成にするのか、編集長と相談しながら企画を練ります。BCJの創設者で音楽監督の鈴木雅明さんのお話は欠かせませんので、それを巻頭のロング・インタビューとしました。 また、BCJの主要メンバーによる座談会で、バッハ自身や《マタイ受難曲》について語ってもらったり、BCJの手掛ける主要曲について評論家の方に書き下ろしていただいたり、と。特集の趣旨を魅力的に読者に届けられるような27ページの構成にまとめました。

掛川さんが担当した特集「BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)とバッハの世界」のとびらページ(中央)と、掲載された『音楽の友』2022年10月号の表紙(左)

――企画がまとまったあとは、どのような仕事があるんですか?

掛川 取材なしで書いていただくいわゆる「書き原稿」では、執筆者に趣旨を伝えて原稿を依頼します。いっぽう取材が必要なページでは、取材対象者に承諾していただいてから、カメラマンやインタビュアーの手配、日程や場所の設定・調整などをする必要があります。また当日の現場では、取材が滞りなく進むように、あらゆる観点からディレクションをする「現場監督」のような役割を担います。
その後、原稿や写真があがってきたら、確認・吟味をし、見出しやリード文を付けてデザイナーにレイアウトを依頼、相談します。そして何度か校正を行ってから「校了」となり、印刷、製本を経て雑誌の記事の一つとなるんです。

――大変なお仕事ですね。さて掛川さんがどうしてこのような仕事に就くことに至ったのか、子どもの頃からのお話を聞かせてください。

自然の流れで進学した音楽高校で ほかの生徒のエネルギーに圧倒されました

――子どもの頃は、どのような音楽環境だったんですか?

掛川 地元に評判のピアノの先生がいると聞いて、幼稚園の年長のときにレッスンを受け始めました。両親の仕事は音楽関係ではなかったのですが、私に何か手に職を付けさせたいと思ったようで、それで私が得意そうな音楽をさせたのではないのかな。仲良しの幼なじみも同じ先生に習っていたので、楽しかったですね。その友人と一緒にコンクールにも出たりしていました。

――高校から音楽高校に進んだのは?

掛川 そのピアノの先生が桐朋学園大学の出身でいらしたこともあり、なにも違和感なく桐朋女子高等学校音楽科に進むことになっていました。そもそも私は普通高校に行くというイメージがあまり持てなかったので、それはごく自然な流れでした。私のまわりにはずっとこのまま音楽があって、私はピアノの先生になるんだろうなと、この頃までは漠然と思っていました。

――名門の音楽高校に入学して、いかがでしたか?

掛川 教室からあふれる熱量に圧倒されましたね。ほかの生徒のエネルギーが、とにかくすごいんです。演奏をやる人ってこんなに音楽に対する情熱を発するものなのか、と。みんな真面目だし練習もすごくするし。私は、性格ものんびりしていて、負けず嫌いなところはそのころ皆無で、音楽に関する大きな野望もなく、いわば流されるように自然に高校に入ったので、驚いてしまいました。

高校最後の年、同級生が企画してくれたコンサートに友人と2台8手で出演(写真左手前が掛川さん)。高校、大学で苦楽を共にした友人は、私の人生にとってかけがえのない存在となりました。

――その後、高校生活はどんな感じだったのでしょう?

掛川 午後に授業を終えたあと友達とおやつを食べて、自宅に帰って家事をやってからドラマや映画を観たりラジオを聴いたり。そして夕食を食べて、8時~9時くらいからピアノの練習や勉強を開始していました。親が防音室を作ってくれたので、時間は気にしなくていい環境だったんです。そんな感じで、わりとのほほんと過ごしていましたね。

大学での沼野先生との出会いが 私の大きな転機となったんです

――大学は内部進学ですね。進学したときはいかがでしたか?

掛川 再度、大学から入学してきた人たちのエネルギーに圧倒されました(笑)。高校のときと同じような人が2倍になったような印象でしたね。

――そんななかで、何か転機のようなものはあったんですか?

掛川 沼野雄司先生との出会いが転機になったと思います。まずは先生の音楽史などの授業を履修したのですが、講義はおもしろかったものの、先生はかなり厳しかった(笑)。私はそれまで自分の意見を言うのは苦手、というよりも意見があまりなかったんです。先生はそんな私に「きみ、二十歳になるのにそんなことも言えないなんてダメだよ」とズバっと言いました。グサグサっと胸に刺さりましたね。

――それはなかなかショックだったでしょう。

掛川 はい、でもいっぽうで先生は褒めるときは褒めてくれたんです。先生の授業はすごくおもしろいしやりがいがあったので、徐々に「この人についていきたい」と思うようになりました。

――授業はどんなところが魅力だったんですか?

掛川 参加型の講義で様々な気づきを得ること自体もおもしろかったのですが、自分でレポートを書くのが楽しかった。私が一生懸命書いたものを、沼野先生は「おもしろかったよ」と言ってくださって、それは人生でいちばん嬉しかったことです。レポートの内容は、「ショパン《別れの曲》のヘアピン記号はアクセントなのか強弱記号なのか」、「<イタリアふう>と感じる音楽はどういうものなのか」などです。

――掛川さんご自身に変化はありましたか?

掛川 音楽の見える世界が広がりました。それで、それまでよりも少しだけ、一生懸命になって意見が言えるようになって真面目になったと思います。また今までかたちにできなかったものを、かたちにできるようになりました。

ふと使命のようなものがおりてきて 出版の仕事にしか道はないと思いました

――学生時代に、自分の将来の仕事についてはどのようにイメージしていましたか?

掛川 大学に入った頃には、私は卒業したら働くことが決まっていました。それで、低学年の頃から学校のキャリア支援センターに顔を出していたんです。このセンターが企画する、職業体験のツアー、講座、インターンシップなどに参加していましたね。とてもお世話になりました。

――いわゆる本格的な「就活」はいつ頃から?

掛川 3年生から始めて、4年生の初めには、一般の会社から内定が出たんです。でも「なんか違うなあ、仕事が嫌になりそうだなあ」と感じていました。そのことを予見できたのは、教育実習やチェーンの飲食店でアルバイトをしていたときに「自分の居場所はここじゃない」と思いながら働くのが辛かった、という経験があったからでしょうね。たとえ自分のレベルがそこに達していなくても、自分が根を張れる場所に行きたいと思ったんです。

――その場所はやはり音楽関係だったんですね。なかでも出版社の編集を選んだのは?

掛川 出版社に行きたいと思ったのは4年生の夏の終わり頃でした。沼野先生だけではなく授業全般が好きだったからか、ふと何かがおりてきて「研究者や演奏家の言葉を後世に残せるお手伝いがしたい」と思ったんです。それには音楽の書籍や雑誌を刊行している出版社に入るしか道はない、そう思ったら、もうそれしか見えなくなりました。

掛川桃花さん:神奈川県相模原市出身。幼少時よりピアノを始める。桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)ピアノ専門を経て、桐朋学園大学音楽学部ピアノ専攻を卒業。
ピアノを鈴木香緒里、徳丸聰子、斎木隆、声楽を篠原百合乃の各氏に師事。大学在学中は沼野雄司氏による音楽学のゼミを受講。現在、月刊誌『音楽の友』編集部員。

――なかなか募集も少なかったと思いますが。
掛川 そうなんです。仕方がないので、図書館に行って音楽関係の出版社名をメモして検索し、募集もしていないのに履歴書を送り付け、直談判にも行きました。今考えるととても迷惑な話ですが……。私のそれまでの人生で最大に強い意志を持った瞬間でした。でもやる気はあるのに誰も雇ってくれない。夜も眠れず行き場のない想いがあふれていくばかり。 そんななか、もう冬も近くなった頃、夏に直談判してうまくいかなかった音楽之友社になんと募集が出たんです! 沼野先生にも再度ご紹介いただいて面接に行き、なんとか入社することができました。参加した会社の忘年会では、嬉しくて泣いてしまいましたね。

「意志あるところに道はひらける」  それが私の変わらぬ信念です

――実際に憧れの仕事をしてみて、いかがでしたか?

掛川 一緒に仕事をする人たちの知識量に驚きました。演奏家にしても作品にしても、何でみんなこんなに様々なことを知っているんだろうと。会議でも一つ話題になると、みんなでわっと話が拡がっていきます。持っている引き出しの数が圧倒的に違うんです。
でも、仕事はどの場面も本当にやりがいがあって楽しい。とくに特集など内容やデザインに融通が利くときは、誌面をどういうふうに構成するか、ラフを書きながら考えると愉しくて時間を忘れてしまいます。デザイナーから届いたレイアウトを見るときがいちばんやりがいを感じるかもしれません。 そして職場の上司や先輩、筆者やマネジメント……各方面の方々からお力添えをいただき、自らも全力を尽くしてまとめた記事を、読者の方から「おもしろかった」と言ってもらえた瞬間は何ものにも代え難い喜びがあります。よく面倒をみてくださっている上司から、「あなたは負けず嫌い」と言われたのも実は嬉しかったです。

――音高、音大で学んだことは、仕事に役立っていますか?

掛川 はい、それは今の仕事の土台になっています。わからないことや誤りではないかと思うことは本で調べる、といった仕事は、学校の授業の延長線上にあります。また、ベートーヴェンとはこんな感じ、モーツァルトはこんな感じ、ということは学校で学んだことが大きかった。さらに演奏会を記事にすることも多い仕事ですので、自ら舞台の怖さ、大変さを知っているのは強みですね。取材対象者と同じ目線に立てるのは、仕事において自信につながっています。

――将来の夢はありますか?

掛川 まずは、もっと成長して知識量、判断力のある一人前の編集者になりたい。さらには、雑誌をバックアップするような動画コンテンツを発信したいと思います。また、いつか担当した記事が、<出典:『音楽の友』〇年〇月号>として何かの文献に引用されたらいいなあと。自分が死んだあともそれは当時の貴重な証言として残りますから。さらに、自分が編集した本が海外で翻訳されるのも夢です。

――最後に、これから音高・音大を目指す後輩にメッセージをお願いします。

掛川 少し格好良いことを言いますね。「意志あるところに道はひらける」、「夢をかなえるときには退路を断つ」、それが私の信念です。高校の和声の先生が言っていたのですが、「あなたがどうしても北極に行って氷をさわりたいと言ったら、きっと大人は協力してくれて実際につかむことができるよ」と。やりたいと思って強い想いを持って行動すれば、きっとまわりの人は協力して導いてくれて、夢に近付くことができます。私の体験談が皆さんの背中を押すことになるのなら、こんなに嬉しいことはありません。

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