「交響曲第9番ニ短調《合唱付き》」第1楽章——始まりは愛弟子の依頼から
生誕250年にあたる2020年、ベートーヴェン研究の第一人者である平野昭さん監修のもと、1日1曲ベートーヴェン作品を作曲年順に紹介する日めくり企画!
仕事終わりや寝る前のひと時に、楽聖ベートーヴェンの成長・進化を感じましょう。
48歳となったベートーヴェン。作品数自体は、これまでのハイペースが嘘のように少なくなります。しかし、そこに並ぶのは各ジャンルの最高峰と呼ばれる作品ばかり。楽聖の「最後の10年」とは、どんなものだったのでしょう。
東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
始まりは愛弟子の依頼から「交響曲第9番ニ短調《合唱付き》」第1楽章
ついにベートーヴェン最後の交響曲、通称「第九」を4日間にわたってご紹介します。
完成から遡ること5年前の1818年に、ベートーヴェンは「ニ短調の交響曲」(「第九」の原型)のスケッチに着手しています。それは、ロンドンのフィルハーモニー 協会の依頼による「2曲の新しい交響曲」ためのものだと思われますが、この時は結局、実現はしませんでした。
そして4年後の1822年に、ロンドンから再度、手紙が届きます。
ロンドン側はベートーヴェンの新作交響曲を諦めていたわけではなかったのである。11月のロンドン側からの依頼は「新しい交響曲1曲に50ポンド」という条件であったが、ベートーヴェンは12月10日付で了承の返事を送っている。
——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)179ページより
この依頼をしたのは、ロンドンにいた同郷の愛弟子フェルディナント・リースでした。
「フィルハーモニック協会のための大きな交響曲を二曲書いてほしい」——1817年に行った依頼は、当時スランプ状態にあった師に新たなる創作のエネルギーを与えていた。弟子からの願いに触発されたベートーヴェンは、遅々としたペースではあったものの新作の交響曲の作曲を進めていた。そして弟子の新作『シラーの詩「あきらめ」による幻想曲』が出版された1823年、ベートーヴェンは、いつの日にか用いたいと青年時代から考えていたシラーのもう一編の詩「歓喜に寄す」を、この交響曲の終楽章に合唱として取り入れる決断をした。
——かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社/2020年)142,143ページ
こうしてベートーヴェンは第8番以来、10年ぶりの交響曲創作に打ち込むことになります。
ちなみに、リースが作曲した幻想曲のテーマとなったシラーの詩「あきらめ」は、1786年刊行のシラーの自主雑誌『ターリア』第2巻に掲載されています。この雑誌には「歓喜に寄す」も掲載されています。
最初の交響曲の依頼をしたやりとりの中で、ベートーヴェンは1816年、愛弟子リースに「作品を献呈してくれた、私もお返しする」旨の手紙を送り、リースは自作2作品を献呈していました。
1823年5月初頭のフェルディナント宛の手紙に、見落とせない一文がある。
「新作の交響曲は、きみに献呈することになるだろう」
新作の交響曲とは『交響曲第9番 ニ短調』のことだ。最終的にこの作品の献呈先は、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世に変更され、弟子に献呈されることも、ロンドンで初演されることもなかった。だが約束された「お返し」は、交響曲の完成によって間接的に実現された。
——かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社/2020年)144,145ページ
作曲の依頼、お返し、同じ雑誌から取られた2つの詩……。最後の交響曲の創作には、愛弟子リースが大いに関わっていたようです。
フェルディナント・リース作曲: シラーの詩「あきらめ」による幻想曲
交響曲第9番ニ短調《合唱付き》
作曲年代:1818年、22~24年2月(ベートーヴェン48歳、51〜53歳)
出版:1826年8月ショット社(マインツ、パリ、アントワープ)
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