【連載】プレスラー追っかけ記 No.6
<リサイタル編:その3>
94歳の伝説的ピアニスト、メナヘム・プレスラー。これは、音楽界の至宝と讃えられる彼の2017年の来日を誰よりも待ちわび、その際の公演に合わせて書籍を訳した瀧川淳さんによる、来日期間中のプレスラー追っかけ記です。
(「その2」からのつづき)
『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン』(ウィリアム・ブラウン著)訳者。 音楽教育学者。音楽授業やレッスンで教師が見せるワザの解明を研究のテーマにしている。東京芸術...
プレスラーはさまざまな文脈で「魔法を」と『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン』の中で発言していますが、すでに観客全員がプレスラーの魔法にかかっているかのようでした。
演奏から伝わる、彼の真摯な態度と優しさが満ちた不思議な空間。決して大きな音ではありません。どちらかというと、聴き手のほうが一音も聴き逃すまいと、異常なまでの静寂がその場を支配していました。
実は休憩時間早々、この日準備していただいた『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン』は、嬉しいことに完売。それほどこの演奏を聴いた人たちは、プレスラーさんに魅了され、彼のことをもっと知りたいと思ったのでしょう。
◇ ◇ ◇
前半だけでも圧倒的な存在感を示したプレスラーさんの後半(とアンコール)は圧巻の一言でした。
10月16日のチラシ
まず、ドビュッシーの《前奏曲集》第1巻からの5曲、〈デルフィの舞姫たち〉〈帆〉〈亜麻色の髪の乙女〉〈沈める寺〉〈ミンストレル〉。そして小品2曲、〈レントより遅く〉と〈夢〉です。
ソリスト活動を再開してからは録音のない作曲家ですが、パリ公演のDVDでは《版画》が聴けますし、マグデブルク・フィルと共演したモーツァルトの協奏曲の新譜にはアンコールに〈亜麻色の髪の乙女〉が収録されています。またすでにグラモフォンに収録済みのフレンチ・アルバム「月の光?ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ作品集」(UCCG-1792、3月21日発売予定)は発売を待つばかりです。
しかも、デビューのきっかけは1946年ドビュッシー国際コンクールでの優勝。『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン』内でもドビュッシーへの思いは熱く語られ、とりわけ響きのブレンドやペダルの使い方の指導は入念ですので、彼のピアニズムにとって重要な作曲家であることは想像に難くありません。
個人的に、実演でどんな響きが聴けるのか興味津々でした。結果として、実にユニークな、しかし楽譜を見れば納得させられるプレスラーならではの解釈だったと思います。
◇ ◇ ◇
特に度肝を抜かれたのが、〈デルフィの舞姫たち〉の冒頭をノンペダルで弾いていたこと。
確かに楽譜には3つの和音からなるフレーズを示すスラーが書かれた中で和音ごとにスタッカートが付されています。その内声には順次進行で上行するラインがあります。
よく耳にする演奏では、ここはペダルを使用した響きの切れない流れるような演奏が多いように思います。ところが、プレスラーのそれは一般的な演奏とは逆の解釈だったのです。
このように意表をついた箇所がいくつもありましたが、少しオーバーに言えば(ピアニストの方々には大変失礼を承知の上)、これまで幾多も演奏され手垢にまみれた楽曲を真っさらにして、とりわけドビュッシーの思い描いた多彩な「響き」を浮き彫りにした演奏と言えるのではないでしょうか。
「響き」をカッコで括ったのは、どの音とどの音をブレンドして新たな音を作り出すとか、フレーズとフレーズを溶け込ませるとか、ある音を残して他の音を消す、といった(ピアニストには当たり前のことかもしれませんが)ドビュッシー独特の「響き」の感性に対して、プレスラーさんの絶対的な“意図”を感じたのです。
そしてそれを聴かせるのに必要なのは、鍵盤に対するテクニックはもとより「古典よりも多くの技術を要するペダル」(『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン』p.203)のテクニックなのでしょう。
プログラムの表紙になっていたプレスラーさんの手は、小さな身体に不釣り合いなほどふっくら、ガッシリ。握手もギュッと力強かったです。
〈沈める寺〉でホール全体を湖の中へと誘い、その中に静かに佇む古寺を魅せた深い響き。そしてミンストレル・ショーをリズミカルに表現した〈ミンストレル〉で聴かせた、触れるだけながら響きの芯を捉えた軽快なタッチ。
プレスラーさんにとってドビュッシーは、五感すべてで感じるフランスと切っても切り離せないものだと言います。そのような彼の音楽的な世界観に私たちは魅了されます。そしてそれは、長年のアンサンブル活動で培ったオーケストラにも勝る多彩な色彩感と表現力によって創りだされたものなのでしょう。
(つづく)
ドビュッシーについてプレスラーさんはこのように表現しています。
「ドビュッシーは、すばらしく独特な方法で、匂いを嗅ぐことも、感じることも、また味わうこともできる響きを作ったのです。味わってごらんなさい。」
(『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン』第19章より)
1923年、ドイツ生まれ。ナチスから逃れて家族とともに移住したパレスチナで音楽教育を受け、1946年、ドビュッシー国際コンクールで優勝して本格的なキャリアをスタートさせる。1955年、ダニエル・ギレ(vn.)、バーナード・グリーンハウス(vc.)とともにボザール・トリオを結成。世界中で名声を博しながら半世紀以上にわたって活動を続け2008年、ピリオドを打つ。その後ソリストとして本格的に活動を始め、2014年には90歳でベルリン・フィルとの初共演を果たし、同年末にはジルベスターコンサートにも出演。ドイツ、フランス国家からは、民間人に与えられる最高位の勲章も授与されている。また教育にも熱心で、これまで数百人もの後進を輩出してきた。世界各国でマスタークラスを展開し、またインディアナ大学ジェイコブズ音楽院では1955年から教えており、現在は卓越教授(ディスティングイッシュト・プロフェッサー)の地位を与えられている。
『メナヘム・プレスラーのピアノ・レッスン(原題:Menahem Pressler : Artistry in Piano Teaching)』著者。
インディアナ大学でメナヘム・プレスラーに師事し、その間、ピアノ演奏で修士号と博士号を取得。ソリスト、室内楽奏者として活躍するかたわら、アメリカ・ミズーリ州にあるサウスウエスト・バプティスト大学の名誉学部長ならびにピアノ科名誉教授でもある。ミズーリ州音楽教師連盟前会長、パークウェイ優秀教師賞受賞。『ピアノ・ギルド・マガジン』や『ペダルポイント』誌などへの寄稿も多数。
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