
ブラームスとウィーン〜ハプスブルク帝国が育んだ音楽家の居場所

近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第14回は、ブラームスとウィーン。「私はここでも、ずっとよそ者だと思うだろう」。そう語っていたブラームスは、やがてこの街を離れがたい創作の拠点とし、生涯を過ごすことになります。音楽と人々が交差するハプスブルク帝国の都で、彼はどのように生きたのでしょうか。

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...
ウィーンへ〜「よそ者」ブラームスの新しい人生
月曜日にウィーンへ出発する! まるで子どものように楽しみだ。もちろん、どのくらい滞在するかはわからない。その点は未定にしておこう。冬の間にいつか君に会えることを願っている。手紙をまったく書かないなんてことは、どうかやめてくれよ。
1862年9月、ブラームスは友人の一人にこう言い残してウィーンへ発った。文面にある通り、このときの彼は、ウィーンが終の棲家になろうとは知る由もなかった。到着後の11月には、クララ・シューマンに宛ててこう書いている。
ご存じのように、私は多くの点でかなり古風な人間です。とりわけ、この点において。私はまったくコスモポリタンではなく、母なる故郷の街[ハンブルク]に固執しているのです。[中略]ここには満足すべき理由が数多くあるにもかかわらず、私は今なお、そしてこれからもずっと、自分がよそ者であると感じるのです。
ロベルト・シューマンに激賞されたにもかかわらず、ブラームスはウィーンであまり知られていなかった。しかし知人たちの力添えもあり、「ピアノ四重奏曲第1番」などで成功する。そしてウィーンの歴史ある音楽文化の豊かさに、次第に心惹かれていった。
偉大な音楽家たちの神聖な記憶がここにはあり、彼らの生涯と作品が日々思い起こされる。特にシューベルトに関しては、彼が今も生きているかのように感じる! 彼を親しい知人として語る人々との新たな出会いが絶えないのだ。
ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番
故郷への未練を感じながらもウィーン移住を決意
この後ブラームスはしばらく定住地を持たなかったが、ハンブルクで望んだ地位が得られなかったなどから、1869年にウィーンに移り住むと決めた。それでも故郷に未練を残していた息子を、父親はこう励ました。
ウィーンはハンブルクと交換するにはあまりにも重要だ。ハンブルクでは誰もが商売のことしか考えていない。ウィーンでは理解と評価を得て、創作に専念できる。
初めは仕事がなかった。そのため1871年にドイツ帝国が成立すると、ビスマルクを熱烈に信奉するドイツ・ナショナリストだったブラームスは、ウィーンを去ってその域内に移ることを真剣に考えた。
しかし、徐々に状況は好転し、生計を立てるに十分な出版収入を得られるようになる。その支えとなったのは音楽家たち、そして官僚、実業家、弁護士、学者、芸術家、作家といった教養市民からなる音楽愛好家たちだった。
1890年代前半にウィーンに留学した幸田延は、帰国後の談話でブラームスを現下の最大の音楽家として挙げたが、それは同地でローザ・フォン・ゲロルトという裕福で教養豊かなブラームスびいきの婦人と懇意になったことと無縁ではないだろう。
音楽家、医師、評論家……ウィーンで広がった交流
この結果、ブラームスは1875年に楽友協会の音楽監督の地位を退くと、もう定職には就かなかった。かつてはデトモルトで宮仕えしたこともあったが、ハプスブルク帝国では王侯貴族とほとんど接点を持たなかった。
ただ彼は、王侯貴族の支援が音楽芸術の発展に寄与したことを認めていた。「王侯の選択を批判してはならない—宮廷は委員会よりも多くの音楽を産み出してきた」。栄誉を追い求めることもなかったが、ハプスブルク政府はその晩年になってレオポルト勲章と芸術科学栄誉章を授与し、その功労を讃えた。
近代外科学の父とも称される医師テオドール・ビルロート、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリック、そしてヨハン・シュトラウス2世—ちなみに現在、2人は隣り合ってウィーンの中央墓地に眠っている—といった名士たちと交遊できるほか、至るところで音楽が盛んなウィーンでの生活は、ブラームスにさまざまな刺激や作曲の機会をもたらした。

晩年には、若き日(幼き日)のワルター、クライスラー、シュナーベル、フーベルマン、バックハウス、モントゥーなどに出会っている。
また、ハインリヒ・ボクレットがピアノ用に編曲した「日本民謡集」を入手し、日本公使夫人の戸田極子(岩倉具視の娘)による筝の実演を耳にした可能性が取り沙汰されるのも、このような環境にあったればこそだろう。
ちなみにブラームスは知的好奇心が旺盛で時事問題への関心も深く、日清戦争勃発の際には、日本の勝利とその後の列強による干渉まで予想したという。
ウィーンからハプスブルク帝国の各地へ
ゆかりの地はウィーンだけではない。少し遠出をすれば、「交響曲第2番」「ヴァイオリン協奏曲」「ヴァイオリン・ソナタ第1番」などを作曲したペルチャッハのような、オーストリア各地の風光明媚な保養地に憩うことができた。

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(クライスラーによる演奏)
また、チェコとの関わりはドヴォルザークとの交流程度にとどまったが、ハンガリーとの関わりは深かった。ブラームスの出世作は「ハンガリー舞曲集」(1869・1880年)だが、これは若き日にハンガリー出身のヴァイオリニストのレメーニ・エデと接したことから生まれている。レメーニの他にも、ヨーゼフ・ヨアヒム、ハンス・リヒター、アルトゥール・ニキシュ、イローナ・アイベンシュッツなど、ブラームスが深く親交を結んだ音楽家たちにハンガリーゆかりの人物は少なくない。

1867年と1879年にはハンガリー各地を演奏旅行で回り、ブダペストは何度も訪れて、「ピアノ協奏曲第2番」の初演を行なうなどした。1890年にはここでグスタフ・マーラーが指揮した《ドン・ジョヴァンニ》を鑑賞し、本物の《ドン・ジョヴァンニ》を聴きたければブダペストに行くとよいと絶賛している。
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
ブラームスが見たハプスブルク帝国の多文化世界
ときに「オーストリアに真の音楽の都はない」などと憎まれ口を叩きつつ、こうしてブラームスはウィーンを深く愛し、安住の地とするに至った。
しかし、すべてに満足したわけではない。反ユダヤ主義の高まりとカトリック信仰の優遇には、不快の念を抱いていた。「反ユダヤ主義はナンセンスだ!」と言い切り、ユダヤ人であるという理由で楽友協会がマーラーを指揮者に選ばなかったことに反発している。このようなブラームスの生活と信条を、世紀末ハプスブルク帝国における多文化共生の模範的な実践例とみても、的外れではないだろう。
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