《ラ・ボエーム》のパラレルワールド? オペラとあわせて楽しさ2倍の原作初完訳
音楽ジャーナリスト・飯尾洋一さんが、いまホットなトピックを音楽と絡めて綴るコラム。第19回は、プッチーニの不朽の名作《ラ・ボエーム》の原作小説について。今まで原作が日本語で読めなかった本作がこの度翻訳され、オペラファンの間で話題に。オペラ版とはまた違ったユーモア満載の本作を、飯尾洋一さんがご紹介します。
音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...
「ラ・ボエーム」、オペラと原作
昨年末、光文社古典新訳文庫からアンリ・ミュルジェール著『ラ・ボエーム』(辻村永樹訳)が刊行された。あのプッチーニの名作オペラ《ラ・ボエーム》の原作であるが、意外にも全訳はこれが初めて。原題は「ボヘミアン生活の情景」。プッチーニのオペラがあまりにも有名なので、書名はオペラに合わせて『ラ・ボエーム』と題されている。
で、これをようやく読んだのだが、おもしろい! プッチーニのオペラを知っている人なら、いろいろな楽しみ方ができるはず。登場人物は同じだが、ストーリーはそこそこ違っていて、まるでパラレルワールドを覗き込んでいるかのよう。
そして、原作とオペラでは基本のテイストがずいぶん違う。端的に言えば、原作はオペラよりもユーモアの要素が強く、また若者たちの複雑な多面性を描いている。一方、オペラでは甘く切ないラブ・ストーリーが前面に出ており、悲劇的結末に焦点が当てられる。この原作から、あのプッチーニのオペラがよく誕生したものだと感心するばかりだ。
実物を手に取るとびっくりするが、原作の『ラ・ボエーム』は文庫本ながらずしりと重い。680ページもある。原作は23話からなる連作短篇集。ロドルフォ(原作ではロドルフ)だけではなく、ほかの若き芸術家たちの物語もたっぷりと描かれている。
若き芸術家たちはゴロツキ!?
実は読み始めてしばらくの間は、この長い一冊を読み通せるかどうか、心配になってしまった。
というのも、まったく若き芸術家たち、つまりボヘミアンたちに共感できないのだ。彼らは貧乏だけど、芸術に打ち込む純粋な若者たち。オペラではプッチーニの音楽のマジックゆえか「みんな、いいヤツばかり」だと思っていたのに、小説だと「なんだ、この働かずに遊んでばかりいる怠惰な連中は!」とムカムカしてくるのである。こいつらは貧しいのではなく、金が入るたびにパッと派手に使って、不釣り合いな贅沢ばかりをしているゴロツキではないか。家賃はまったく払わない、金は無心する、借金は踏み倒す。そのくせ朝まで飲んで騒いで遊び歩く。お前らが成功などするわけないわ!
……と、つい説教オヤジみたいな気分になってしまう。こんな青春ファンタジーに付き合っていられない。本をパタリと閉じそうになるのだが、そこを乗り越えて中盤でミミが登場するあたりから、話はがぜんおもしろくなってくる。
ロドルフとミミの有名な出逢いのシーンはこうして生まれた!
ミミとの出会いはオペラとはまったく違った形で訪れる。ロドルフは家賃を払えず大家から部屋を追い出されるのだが、その空き部屋にやってきた次の住人がミミだったのだ。たまたまロドルフは「かつてミミと愛の言葉を交わしたことがあった」という関係。そこで、ミミは途方に暮れるロドルフを部屋に迎え入れてくれて、その夜、さっそく口づけをかわすのである。オペラのあの甘酸っぱい出会いの名場面とはずいぶん雰囲気が違って、ざっくりした感じだ。
その後もロドルフとミミは愛し合ったり、ケンカをしたり、別れたり、また付き合い始めたり、お互いにほかの恋人ができたりと、出入りの激しい人間関係が続く。途中、ミミとロドルフの愛は冷め、険悪な関係になる。ミミは気性が激しく、奔放だ。プッチーニのオペラにおけるミミは、男から見て都合のよい可憐で純真な少女だったが、原作のミミは血の通ったひとりの人間である。ただ「白い手のミミ」という設定は、原作とオペラで共通している。
では、プッチーニのオペラにある出会いの場面はどこから来たのかというと、驚くべきことに別人のエピソードとして登場するのだ。「フランシーヌのマフ」というエピソードで、お隣さんに火を借りに行って部屋の鍵を失くして恋に落ちるというくだりがある。なるほど! このサブストーリーが、オペラでは主人公の物語に転化されていたのか!
《ラ・ボエーム》ロドルフとミミの出逢いのシーン
ユーモラスな場面をひとつ紹介しておこう。ロドルフはミミと別れたあと、別の女の子ジュリエットとくっつく。そして、自分をロミオに見立てて「ロミオとジュリエット」ごっこをするために、鳥籠にハトを入れて女の家に持参する。しかし朝になると、ふたりともお腹が空いているのに、食べ物が足りないことに気づく。そこで、ハトを丸焼きにしてしまうのである。
小説中で『マノン・レスコー』(アベ・プレヴォーの原作のほう)や、当時のマイアベーアの大ヒット・オペラ《ユグノー教徒》への言及がある点も興味深い。本連載のVo.14で「シャーロック・ホームズ」シリーズに「ユグノー教徒」が出てくるという話をしたが、ここでも登場するとは。当時の人気ぶりが伝わってくる。
2019年10月13日に、イタリアのモデナにある「テアトロ・コムナーレ・ディ・モデナ」で上演された《ラ・ボエーム》のライブ配信
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