ヴィーナス——ギリシャ神話ではアフロディテと呼ばれる美しい女神は海で生まれた!
作曲家が題材にしている古代ギリシャやローマ神話の神々を、キャラクターやストーリー、音楽作品から深掘りする連載。
第7回はギリシャ神話でアフロディテ、ローマ神話でヴィーナスの名で親しまれている女神を取り上げます。ワーグナーの楽劇《タンホイザー》の登場人物ヴェーヌスと、レスピーギ、フォーレ、リュリが作曲した「ヴィーナスの誕生」の場面を聴き比べてみましょう。
音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...
世界一美しい女神ヴィーナスだけど《タンホイザー》ではキリスト教の聖女との対比に
前回、トロイア戦争の発端となった事件、「パリスの審判」について記した。ゼウスが羊飼いのパリスに妻のヘラ、娘のアテナ、愛と美の女神アフロディテの3人の女神から、いちばん美しい者をひとり選ぶように命じたところ、パリスはアフロディテを選んだ。アフロディテは世界一美しい女神なのである。ギリシア神話ではアフロディテ、ローマ神話ではヴィーナス。音楽の世界ではヴィーナスの名で目にする機会が多いと思う。
まっさきに思い出されるのは、ワーグナーの楽劇《タンホイザー》に登場するヴェーヌス(=ヴィーナス)だ。このオペラは、騎士タンホイザーがヴェーヌスの住むヴェーヌスブルクで愛欲の日々を送っているところからスタートする。タンホイザーはふと、反省する。こんな快楽三昧の暮らしを送っていてはダメ人間になってしまう。そこで強い意志の力でヴェーヌスブルクを離れ、領主のもとに帰る。そこには清き愛で結ばれたエリーザベトがいた。これからはまっとうに生きよう。そう思いながらも、うっかりタンホイザーはヴェーヌスを讃えてしまい、追放処分になってしまう。タンホイザーは巡礼の旅に出て、教皇に赦しを乞うが、破門を告げられる。
ワーグナー:《タンホイザー》
つまり、このオペラではヴィーナスは邪悪な存在という役どころだ。エリーザベトは聖女なのに、ヴィーナスは邪悪。え、ヴィーナスは本来、愛と美の女神なんだから、そんなにひどく描かなくてもいいじゃないの。そう思わなくもないが、エリーザベトは教皇の側、つまりキリスト教サイドにいるのに対して、ヴィーナスはキリスト教以前のいにしえの多神教サイドにいるのであって、両者は相容れない関係にある。
海の泡の中で成長したヴィーナス
ヴィーナスはよく絵画の題材にもなる。よく目にするのは、ヴィーナスの誕生の場面を描いた作品だろう。有名なのはなんといってもボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》。ほかにもアレクサンドル・カバネル、ウィリアム・アドルフ・ブグロー、オディロン・ルドンらに同じ《ヴィーナスの誕生》と題した作品がある。
これらには共通して、ヴィーナスの裸身と海、貝殻の小舟が描かれている。というのも、神話ではヴィーナスは海で生まれたことになっている。クロノス(ゼウスの父)が、その父である天空神ウラノスの男性器を鎌で刈り取って海に投げ捨てたところ、その肉塊から泡が湧きだし、泡の中からヴィーナスが生まれた。ヴィーナスは泡のなかで成長し、西風の神ゼピュロスに吹かれてキプロス島に上陸した。これがヴィーナスの誕生だ。だから、ヴィーナスは海からやってくるし、赤ん坊ではなく最初から成熟した女性の姿で現れる。
レスピーギ、フォーレ、リュリが描くそれぞれの「ヴィーナスの誕生」
このようなヴィーナスの誕生の場面は音楽にもなっている。レスピーギの管弦楽曲《ボッティチェリの3枚の絵》の第3曲が「ヴィーナスの誕生」。まさしくボッティチェリの絵画の場面が、壮麗なオーケストレーションによって表現される。
レスピーギ:管弦楽曲《ボッティチェリの3枚の絵》第3曲「ヴィーナスの誕生」
フォーレは「ヴィーナスの誕生」を合唱曲に仕立てた。独唱と合唱、オーケストラからなる規模の大きな作品で、オーケストラの波打つようなリズムが海を連想させる。曲の終盤では高らかにトランペットが奏でられ、力強く愛と美の女神を讃える。
フォーレ:《ヴィーナスの誕生》
フランスのバロック期の作曲家リュリも「ヴィーナスの誕生」を作曲した。こちらは声楽入りのバレエ音楽。一部に声楽が入るが、中心となるのはバレエだ。リュリの宮廷バレエはもっぱらルイ14世が踊るために書かれており、この作品では王の義姉がヴィーナスを踊ったという。ヴィーナスの誕生だけではなく、アポロンやバッカスやアリアーヌ、オルフェオとエウリディーチェなど、神話の登場人物たちが次々と現れる構成になっており、音楽もバラエティに富み、愉悦にあふれている。王様気分で優雅に楽しみたい。
リュリ:《ヴィーナスの誕生》
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