音メシ!作曲家の食卓#5 チャイコフスキー~親友を招いた音楽会で囲んだパイ料理
歴史料理研究家の遠藤雅司さんが、作曲家をその食卓からクローズアップ。毎回、実際に再現したレシピもご紹介します。人間の根源的な欲求=食のエピソードからは、大作曲家の人間くさい一面が見られるかも!?
歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...
ロシアの自然とチャイコフスキー
19 世紀ロシアを代表する作曲家チャイコフスキーは、1840年5月7日(ユリウス暦4月25日)にロシア中部の鉱山都市ヴォトキンスクで生まれました。
4歳のころに父親が持ち帰ったオルケストリオン(手回しオルガンの一種)に夢中になり、ほどなくモーツァルトやイタリア音楽の虜となります。
とてつもなく広く美しく、一方で厳しいロシアの自然は、その中で育ったチャイコフスキーの音楽の源となりました。自然の中で歩いた風景から、脳裡に湧き上がってくる旋律を楽譜に仕上げていったのです。
1850年8月、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクの帝室法律学校の予科に入学しました。学校の聖歌隊で音楽を学び、音楽室でピアノの即興や変奏を何時間も続ける日々を迎えます。ただし、学友たちや、チャイコフスキーが習っていたピアノ教師は、彼が音楽家になるとは思いもしませんでした。
1859年5月、19歳となったチャイコフスキーは法律学校を卒業し、法務省に勤めます。しかし実務には興味がなかったようで、仕事の退屈さと職場のストレスを音楽で発散していました。
1861年秋には帝室ロシア音楽協会(RMO)の存在を知り、この協会の音楽クラスは翌 1862年にアントン・ルビンシテインによってペテルブルク音楽院に改組され、ここでチャイコフスキーは音楽を本格的に学び、音楽にのめりこんでいきました。
1863年春、音楽院と役所勤めの二足のわらじを履く生活にピリオドを打ち、休職願を提出。2年間音楽院で学んだ後、1865年12月31日にペテルブルク音楽院を卒業し、音楽家の道を歩み始めることとなりました。
弟モデストへの手紙に綴られたロシアの伝統蜜菓子
チャイコフスキーはロシアの料理をとても好んでいました。食のエピソードでは、1869年12月に弟の劇作家、モデスト・チャイコフスキーへの手紙で以下の通りしたためています。
親愛なるモデンカ!
そこで暮らしているP. P. オコネシュニャコフは知っているね、
きみに会いたがっていたよ。
またプリャーニク代として8ルーブル送ったが
休暇向けにあと少し送る。
明日また書く、話はまだあるんでね。
P.チャイコフスキー
(『П. И. Чайковский. Полное собрание сочинений, том V (チャイコフスキー全集第5巻)』より。訳:白沢達生)
8ルーブル送るから、プリャーニクというロシアの伝統蜜菓子を買っておくようにと弟に綴る、微笑ましいエピソードです。
プリャーニクは、ロシア語の「香り高い」「味が鋭い」という形容詞に由来しています。ジンジャーブレッドと訳される場合もありますが、その起源はライ麦粉にハチミツとベリージュースを混ぜたもので、特にハチミツは他の材料のほぼ半分を占めていました。
その後、時代が下るにつれてジンジャー(生姜)のみならず、いろいろな香辛料が使われていきます。そのため、プリャーニクの実態としては、ハチミツと粉と香辛料を練り上げた伝統的なお菓子という意味合いで捉えるといいでしょう。
チャイコフスキーが弟モデストに捧げた『12の小品集』Op.40(1878)より第10曲
チャイコフスキーが主催した料理つき音楽会のメニュー
もう一つ、チャイコフスキーが36歳の頃の印象的な食のエピソードがあるので、その料理を紹介します。
1876年10月3日(ユリウス暦9月21日)、生徒のセルゲイ・タネーエフに宛てた手紙には、チャイコフスキーの主催による集まりにタネーエフも招待する旨を記しています。
セルゲイ・イヴァノヴィチ、
今日はアルブレヒトの一行がお客に来ます、クレビャカとヴィツィガをバタリナ、ハムをフーベルト、イワシをカシュキン、ウォツカをサマーリン、甘味系のピローグを[ニコライ]・ルビンシテインが持参します。
第3四重奏曲のピアノ編曲版もあり。あなたも同席いただけますか。お越しであれば8時頃に。お会いできるのを心より楽しみにしています。
P.チャイコフスキー
(『П. И. Чайковский. Полное собрание сочинений, том VI(チャイコフスキー全集第6巻)』より。訳:白沢達生)
手紙の内容を少し補足します。「チャイコフスキーの夕べ」と名づけてもよいこの集まりは、日常的な音楽家たちの交流会で、食事会つきの余興という趣旨でした。料理はクレビャカ、ヴィツィガ、ハム、イワシ、ピローグの5品と「ウォツカ」(ウォッカのこと)です。
参加者はピアノ奏者のアレクサンドラ・バタリナ(後に結婚し、アレクサンドラ・フーベルト)、ニコライ・フーベルト、ニコライ・カシュキン、イヴァン・サマーリン、ニコライ・ルビンシテインで、チャイコフスキー作曲「弦楽四重奏曲第3番 変ホ短調 Op.30」をピアノ編曲で演奏するという、何とも楽しみな「チャイコフスキーの夕べ」が開催されるという内容です。なお、ピアノ版の編曲はアレクサンドラ・バタリナが行なっています。
タネーエフがチャイコフスキー門下で学んでいた頃の作品「アレグロ 変ホ長調」(1874)
チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第3番 変ホ短調 Op.30(トラック1~4)
富と豊かさを象徴するロシア伝統のパイ料理“クレビャカ”
改めて料理を詳しく取り上げてみます。
クレビャカとは、ロシア伝統のパイ包みオーブン焼き料理です。ヴィツィガはチョウザメの脊髄のゼラチン状の部分を丸ごと乾燥させたもので、クレビャカの食材にも使われていたりします。アレクサンドラ・バタリナがクレビャカとヴィツィガの両方を持ってきているので、もしかしたらクレビャカのおつまみとしてヴィツィガを味わったのかもしれません。
イワシはおそらく水揚げされたものを加工して、酢漬けか油漬けにしておいしく味わっていたと思われます。今でも、ロシア産やラトビア(当時ロシア帝国領)産のイワシのオイル漬けの缶詰が、日本のスーパー等で見かけられます。
ピローグはパイの総称のことで、中の詰め物は甘いものや野菜、肉、魚、米などさまざまなバリエーションがありますが、ここでは「甘味系」と記してあり、クレビャカとの区別がしっかりなされています。
今回は、このロシア伝統料理の中から、クレビャカに注目してみましょう。19世紀のロシアの料理書『新版 完全・完璧なるロシアの料理番、またの名を汎用料理書』(1811年)には、クレビャカのレシピが載っています。
これを作る時は、普通のパン種を使う。パン生地ができたら麺棒で伸ばし、そこに後述する詰め物をのせる。生地の縁を折り返しておいた上で、長い方の辺の真ん中で折りたたみ、さらに縁を外側から折り返して練り閉じる。形が整っていることを確認したら天板にのせ、オーブンで焼く。適切なタイミングで表面にバターを塗っておくこと。
詰め物は以下のようにすべし。
・鮭のクレビャカ……もっさりしたカーシャに植物油を混ぜて厚めに盛り、その上に薄切りにした塩鮭をのせる。
・斎のネギ添えクレビャカ……ネギを油で炒め、詰め物にする。
(『新版 完全・完璧なるロシアの料理番、またの名を汎用料理書』より。訳:白沢達生)
*この料理書は、現代のロシア語とは異なり、帝政時代の表記法(歴史的用字法)で記されています。ロシア革命直後の1918年にボリシェヴィキ政権が正書法を導入し、アルファベットの数を整理しました。現在でもこの正書法が使われています。 例えば、Ѣは帝政時代の表記法の文字で、現在のロシア語ではеになっています。
*斎(ものいみ):ロシアなどの正教会のカレンダーで定められた、肉や卵を避けるなどの食事制限のある日や期間。西方教会でいう復活前の受難節にあたる「大斎」の他にも細かく設定されており、厳密に守ると1年の半分ないしそれ以上の日に食事制限がなされます。
ロシア伝統のパイ包みオーブン焼き料理であるクレビャカ。これは、手の込んだ贅沢なパイのことで、一品料理として提供されます。
富と豊かさを象徴する料理とも言われ、レシピに記されている通り、小斎という肉を食べない時期にも野菜を使ったクレビャカがあり、常に食卓の中心にあった料理です。
「チャイコフスキーの夕べ」で食された19世紀クレビャカのレシピ
ロシアの食におけるクレビャカの重要性を理解したところで、1811年の料理書によるクレビャカのレシピを見ていきましょう。
大まかにはパイ皮部分と詰め物の作り方が記されています。今回は、サーモン(鮭)とカーシャというなかなか想像しがたい詰め物を使った19世紀クレビャカのレシピに挑戦して、「チャイコフスキーの夕べ」に彩りを添えてみたいと思います。
カーシャとは、古くからロシアの人々などスラヴ諸民族の間で親しまれてきた料理です。穀物を水もしくは牛乳で煮た伝統的な粥で、1,000年以上も前から親しまれてきました。ロシアの古い言葉に「シチーとカーシャは我々の食べ物だ(Щи да каша — пища наша)」とある通り、食卓の主役でした。
伝統的なレシピでは、穀粒や挽き割りした小麦などを牛乳で煮込むシンプルな調理法で、小麦以外にもそばやオート麦、米で作られることもありました。塩とバターで味つけしたり、甘みとして砂糖を加えることもあったそうです。
今回は「甘味系」のピローグと区別するために甘みを加えず、ロシアでは穀類の主役と言うべきそばの実を、バターと塩と共に牛乳と水で煮込んで、カーシャを作ります。ウクライナでは、「母はそばの実のカーシャ、父はライ麦のパン Гречана каша — то матір наша, а хлібець житній — то батько рідний.」ということわざがあるほどなじみのある料理です。
そばの実を具材にしてサーモンと併せてパイ生地の詰め物として焼き上げるという、日本ではなかなかお目にかからない料理となりますが、先入観を捨てて19世紀ロシア人、すなわちチャイコフスキーにプレゼントするんだという気持ちになって作ってみると、なかなかどうして美味しい味わいです。
【材料】(2人分)
【生地】
パイシート(20cm×10cm) 2枚
【フィリング(詰め物)】
サーモン(塩鮭) 100g
白ワイン 50ml
カーシャ 200g
植物油 大さじ1
*ロシアを意識してひまわり油が望ましいが、べに花油でもサラダ油でもかまわない。
【つや出し用】
卵黄 1個
【作り方】
1.市販のパイシートを解凍し、隙間ができないように真ん中を少し重ね合わせ、めん棒で伸ばす。
2. 煮込んだカーシャ(別掲「そばの実のカーシャ」のレシピを参照)をボウルに入れ、植物油を加えて混ぜ合わせる。
3. サーモンを2cm幅に薄くそぎ切りにする。バットに載せて白ワインを注ぎ、サーモンの塩味と臭みを抜く。
4.鍋に3.を入れ、弱火で5分煮込む。
5. 1.のパイシートの上に2.と4.を順に重ねていく。
6.具材をのせ終わったらパイシートの長辺を折り返して覆い、縁を外側から折り返して練り閉じる。
7.パイ生地の閉じ目が下になるようにし、成形する。生地に溶いた卵黄をぬる。
8.200℃に予熱したオーブンで 45 分焼いて完成。
Point
*カーシャ作りに加え、パイ生地も一から作るとなると工程が増えるため、今回はパイシートを選択した。時間に余裕があれば、1811年のレシピに従ってパン種を使ったパン生地を作ってみるのもよい。
*1811年のレシピに基づいたサーモンとカーシャのクレビャカだが、現代風にサワークリーム、マッシュルーム、ほうれん草、ゆでたまごなどを加えても楽しい。
パイの断面図
【材料】( 200g分)
そばの実 100g
牛乳 250ml
水 250ml
塩 2つまみ
バター 15g
【作り方】
1. 鍋に牛乳と水を入れて、弱火にかける。
2. ふつふつと煮立ったら、塩、バターを加える。
3. そばの実を入れて、弱火で10分煮込む。汁気をとばしたら完成。
*そばの実は、amazonや楽天などの通信販売や輸入食材店などで入手可能
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