ベートーヴェンと不滅の恋人 後編:30歳から晩年まで
年間を通して楽聖をお祝いする連載、「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第41回は、平野昭さんがベートーヴェンの恋にについて迫る「不滅の恋人は誰だ?! 」後編! 恋多きベートーヴェンの恋愛事情を明かします。
1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...
30歳の恋! 「結婚したいなあ!」ジュリエッタと
1801年11月16日、31歳の誕生日を目前にするころベートーヴェンはボンの親友である医師フランツ・ゲアハルト・ヴェーゲラー(1765~1848)に宛てた長文の手紙で近況報告と耳の病と慢性腸カタルの具合などについて述べた中で、「この2年、難聴という亡霊が、いついかなるところでも僕を脅かしている。自分は人嫌いではないのに、(難聴のため社交を避けているのだが)世間からは厭世主義者のように思われているに違いない。でも、今、いくらか愉快に過ごしている。この変化はひとり可愛くて魅力的な乙女のためなのだ。彼女は僕を愛してくれるし、僕もまた彼女を愛している。2年ぶりにいくらか幸福な時間を楽しんでいます。結婚すれば幸福になれるだろうと思ったのは今度が初めてだ。でも、どうしようもないことに、身分が違うのだ。だから、結婚なんかできない」と告白している。
この乙女こそ17歳のジュリエッタ(ユーリエ)・グイッチャルディ(1784~1856)であり、オーストリアの高級官僚フランツ・グイッチャルディ伯爵の娘で、2年前にベートーヴェンがピアノのレッスンをしたブルンスヴィク姉妹テレーゼとヨゼフィーネの従妹である。ベートーヴェンは作品27の「2つの幻想曲風ソナタ」の第2番となるピアノ・ソナタ(第14番)嬰ハ短調をプレゼントしている(ベートーヴェンの生前に《月光》ソナタの愛称はない)。
ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調《月光》
上: 中央にジュリエッタへの献辞が書かれたピアノ・ソナタ第14番の初版譜。
39歳の恋! テレーゼ・マルファッティ
1801年以来、ゲアハルト・フェーリング(1755~1823)やゲアハルト・ヴェーゲラー(1765~1848)とともに長年ベートーヴェンの主治医であったヨハン・アダム・シュミット博士(1759~1809)が他界したあと、シュミット博士に代わって主治医となったのがヨハン・マルファッティ(1775~1859)であった。マルファッティ博士の従兄ヤーコブ・フリードリッヒ・フォン・マルファッティ(1769~1829)には2人の娘がいた。1792年1月1日生まれのテレーゼが姉で、同年12月6日生まれのアンナが妹だ。
このころのベートーヴェンが親交を深めていた旧知の友の一人に音楽愛好家でアマチュアのチェリスト、イグナツ・フォン・グライヒェンシュタイン男爵(1778~1828)がいた。ベートーヴェンは彼から姉妹を紹介されたのである。2人の男はかなり頻繁にマルファッティ家を訪れていたようだ。そうした中でグライヒェンシュタインとアンナ・マルファッティが1811年5月28日に結婚式を挙げることになるのだが、どうやらベートーヴェンは姉のテレーゼがお気に入りであったようだ。
グライヒェンシュタインはベートーヴェンに「君もテレーゼと結婚すればお似合いだぞ!」と言われたか否かは不明だが、一時期ベートーヴェンがその気になっていたということも確かなようだ。コーブレンツに住む親友ヴェーゲラーに頼んでボンまで出向いて自分の洗礼証明書を取ってきてほしい、と頼んだ手紙(1810年5月2日)の意味も、結婚の準備ではなかったかと考えることもできる。一説にはプロポーズを断られたとも言われている。
テレーゼが“エリーゼ”なのか?
さあ、ここでひとつ大きな問題は「テレーゼはエリーゼなのか?」ということだ。
現在は失われてしまって確認のしようがないのだが、1851年4月27日に他界したテレーゼはベートーヴェン自筆の小さなピアノ小品の楽譜を所持していたということだ。その後、バベッテ・ブレードルという人の手に渡り、1865年に音楽学者ルートヴィヒ・ノールがそれを写譜して、1867年出版の『新ベートーヴェン書簡集』の中に初版譜として紹介し、自筆譜には「Fur Elise am 27. April zur Erinnerung an L. v. Bthvn(エリーゼのために、4月27日、ベートーヴェンの思い出のために)」と記されていたと述べたのである。
「バガテル イ短調《エリーゼのために》」
1925年になって、ベートーヴェン学者のマックス・ウンガーは季刊論集『ミュージカル・クォータリー』への寄稿論文で、ノールが「テレーゼ」を「エリーゼ」と読み間違えた、という主張をしたのである。ウンガーは「思い出のために」という記述は、遠くの土地に行ってしまって、二度と会えなくなるような場合に記す言葉であるということに注目。事実、テレーゼの家族が1810年4月27日の数日後にウィーンを去って下部オーストリアのクレムス近郊のヴァルカースドルフに引っ越しているので、この自筆譜には「テレーゼのために」と書かれていたのではないかと主張したのだ。
しかし、やはり、これは「エリーゼのために」であり、その人物は後に作曲家フンメルと結婚し、ベートーヴェンの他界する数日前に病室を見舞って額の汗をぬぐったエリーザベト・レッケルではないか、という研究も発表されている。
41歳のときの「不滅の恋人」アントーニエ(アントーニア)って?
1811年と12年の夏のボヘミア、テープリッツ旅行の目的は、医師ヨハン・マルファッティの転地療養と飲泉療法であった。少なくても1811年はそうだった。しかし、このあいだ、ウィーンのベートーヴェンの周囲にはアントーニエ・ブレンターノの義妹エリーザベト(通称ベッティーナ)・ブレンターノ(1785~1859)もフランクフルトから訪れていた。1810年6月に音楽付きで上演されたゲーテの舞台劇《エグモント》の音楽について、自称ゲーテの弟子を名乗る物書きのベッティーナは、ウィーンのベートーヴェンに関する情報をゲーテへの手紙に綴っていた。
ベッティーナは、詩人で小説家でもある兄クレメンス・ブレンターノ(1778~1842)の友人で詩人・小説家のアヒム・フォン・アルニム(1781~1831)と1811年3月11日に結婚して、ベッティーナ・フォン・アルニムと姓を変えている。このベッティーナの仲介もあって、1812年7月にテープリッツでのゲーテとベートーヴェンの邂逅が実現した。このゲーテと会う約束の数日前に、例の「不滅の恋人」宛ての恋文3通が書かれているのだが、これは投函されることなくベートーヴェンの死後にその机の引き出しの奥から見つかったものだ。
この宛名不明の「不滅の恋人」が、フランツ・ブレンターノ(1765~1844)の妻アントーニエ(1780~1869)であったとしても、フランツ一家(1812年時点で11歳の長男ゲオルクを頭に、10歳の長女マキシミリアーネ、8歳の二女ヨーゼファ、6歳の三女フランツィスカの4人の子どもと一緒に)はウィーンには戻らずフランクフルトに帰っており、二度とベートーヴェンと会うことはなかった。
© Beethoven-Haus Bonn
digitalarchive@beethoven.de
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アントーニエはフランクフルトに帰ってから1813年に次男カール(1813~50)を出産している。ベートーヴェンは1820年に作曲したピアノ・ソナタ(第30番)ホ長調Op.109を、マクセの愛称で可愛がっていたアントーニエの長女マキシミリアーネに献呈。また、1823年完成のピアノ変奏曲の最高傑作《ディアベッリ変奏曲》Op.120をアントーニエに献呈している。そして、マクセの父であり、アントーニエの夫であるフランツ・ブレンターノに宛ててベートーヴェンは1820年から23年までのあいだに10通以上の書簡を送っている。
そのひとつの理由はボンの音楽出版社ジムロック社との取引の仲介としてフランツの銀行が一役買っていたことも関係しているが、その手紙にはフランツに対する敬意と、家族の皆さまによろしくという言葉が添えられており、遠く離れた地に住む者への友情や親愛感も感じられる。
アントーニエを心の底から愛したことは確かだろう。でも、それは自分の愛の対象となる素敵な女性が存在していた、ということだけでベートーヴェンの心は満たされたのかもしれない。
アントーニエに献呈された《ディアベッリ変奏曲》Op.120
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