《貧しい人たちは食べて満ち足り》BWV75——三位一体節第1主日
音楽の父ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生涯に約200曲残したカンタータ。教会の礼拝で、特定の日を祝うために作曲されました。
「おはようバッハ—教会暦で聴く今日の1曲—」では、キリスト教会暦で掲載日に初演された作品を、その日がもつ意味や曲のもととなった聖書の聖句とあわせて那須田務さんが紹介します。
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...
おはようございます。本日は聖霊降臨節第3主日であると同時に、先週から始まった三位一体節の最初の日曜日でもあります。そこで1723年の三位一体節第1主日(日曜/5月30日)に演奏された75番をお送りしましょう。
ライプツィヒのトーマス・カントルおよび市の音楽監督の仕事は、トーマス学校における音楽などの授業の他、市内の教会の礼拝で音楽を提供することでしたが、75番はその記念すべき第一作。そんなこともあって、バッハは全2部14曲からなる大規模な作品を書きました。
楽章数の14は、いうまでもなくバッハ BACH(アルファベットの進行順に、B=2、A=1、C=3、H=8)の総数。いわばサインのようなもの。就任式後の最初の仕事への意気込みが感じられます。バッハはこれ以後、ほぼ毎週1曲のペースでカンタータを作曲、演奏していくのです。
この日の礼拝の朗読箇所は、ルカによる福音書の第16章第19~31節。あなたがたは神と富の両方に仕えることができないという「不正な管理人」や、お金に執着するファリサイ派の人々に対してイエスが語る「律法と神の国」に続く箇所です。貧しいラザロに同情心を示さなかったお金持ちは、死して冥府にくだり、一方ラザロは天国にいる。ラザロと違って、お金持ちは神の御言葉に耳傾けなかったからです。
16:19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 16:20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 16:21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 16:22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 16:24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 16:25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 16:26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 16:27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 16:28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』16:29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 16:30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 16:31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
カンタータの編成はソプラノ、アルト、テノール、バスの独唱に合唱、トランペット、オーボエ2、オーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)、弦楽と通奏低音。さっそく聴いていきましょう。
第1部
1曲目は、フランス風の歌劇の序曲のようなシンフォニア。深く考え込んだ悲しみを表すホ短調で、合唱が詩篇(第22章27)の「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美する。あなたたちの心は永遠に生きるでしょう」と歌います。最後の「あなたたちの心は永遠に生きる……」はフーガで書かれています。
続いてバス(レチタティーヴォ)が、「緋衣の王権が何の助けになろう。時間が経てばなくなってしまうのだから。過剰な富もおなじ。わたしたちが見るものすべてはやがて消え失せる。富や快楽や栄光が霊を地獄に落とす」と言い、テノール(アリア)が、オーボエを伴う弦楽で「わたしのイエスこそわたしのすべてでありますように! わたしの緋衣はイエスの尊い血、イエスご自身がわたしのいと高き善。イエスの御霊は愛に燃え、わたしの甘き喜びの酒となる」と歌ったのちに、「神は突き落とし、そして高めてくださる。この世に天国を求める人は、彼の地で呪われ、この世の地獄に打ち勝つ人は彼の地で喜ぶ」と語ります。
ソプラノ(アリアとレチタティーヴォ)が、愛のオーボエとともに「わたしはわたしの苦難を喜んで引き受けましょう。ラザロの苦しみを忍耐とともに担った者を、天使たちは受け入れてくれるでしょう」と歌い、「一方、神は真の良心を贈ってくださる。キリスト者が大いなる喜びとともに慎ましい善を楽しむことができるのです。長い苦労の先に死があっても、最後に神のご意思が成就する」と言い、合唱がローガストのコラールを歌います。「神のなさることはすべてうまくいく。この杯を味あわなければならないとしても、その苦しみはわたしの妄想。最後に楽しみを得るから私は驚かない。すべての痛みは心の甘い慰めとともに消え去るのだから」。
第2部
第2部は明るいト長調のシンフォニアで始まります。アルト(レチタティーヴォとアリア)の不安は隠せず、「キリスト者の心をただ一つのことを傷つける。それは私の霊の貧しさ。心はすべてを創造された神の慈しみを信じているけれど、心にはこの世を超えた生命を成長させる力がない」と言うのですが、いまひとたび思い直し、軽い足取りになって「イエスはわたしを霊的に豊かにし、わたしの命を育ててくださる。イエスの霊を受けることができるなら、わたしは何も求めません」と歌います。
バス(レチタティーヴォとアリア)も言います。「ただイエスのなかにとどまって無心になり、愛する神のもとで信仰を鍛錬する者は、地上のものが消えても自分自身と神を見出すだろう」と。そして、しっかりとした足取りでトランペットとともに歌います。「わたしの心は信じ、愛します。なぜならイエスの甘い炎が、わたしを燃え上がらせ、その炎とともにわたしの頭上で燃えるのだから。イエスがわたしに自らを与えてくださるのだから」。
そしてテノール(レチタティーヴォ)が、「おお、どれほどの富にも比べられない貧しさよ。心からこの世界のすべてが亡くなって、ただ一人イエスが支配者となるとき。キリスト者は神へと導かれる。神よ、わたしたちがその機会を逃がしませんように」と言い、最後にふたたび、先のコラールを歌って曲を閉じます。「神のなさることはすべてうまくいく。わたしはそこにとどまろう。苦難と死、悲惨に満ちた荒れた道に追いやられたとしても、神はわたしを父のように両の御腕に抱いて下さるでしょう。だからわたしは神にのみ身を委ねるのです」。
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