プレイリスト
2021.04.05
おはようバッハ—教会暦で聴く今日の1曲—第48回

《喜べ、心よ》BWV66——復活節2日目

音楽の父ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生涯に約200曲残したカンタータ。教会の礼拝で、特定の日を祝うために作曲されました。
「おはようバッハ—教会暦で聴く今日の1曲—」では、キリスト教会暦で掲載日に初演された作品を、その日がもつ意味や曲のもととなった聖書の聖句とあわせて那須田務さんが紹介します。

那須田務
那須田務 音楽評論家 

ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...

レンブラント作『エマオの食事』。

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おはようございます。本日は復活節2日目。1724年の復活祭の翌日(その年は4月10日)に、ライプツィヒで初演されたカンタータ第66番《喜べ、心よ》を聴きましょう。

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その日の礼拝で朗読された福音書は、ルカ第24章第13~35節。エマオというところで弟子たちの前にイエスが現れたというエピソードです。

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14この一切の出来事について話し合っていた。 24:15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 24:32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 24:33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

新共同訳聖書より「ルカによる福音書」24章13〜35節

これもケーテン時代にケーテン侯の誕生日の祝賀会のために作曲した世俗カンタータ「天はアンハルトの誉れと幸いを心にかけたまい」BWV66aに、別の歌詞を当てはめたパロディ。世俗曲を教会カンタータに書き換えたわけですが、こうしたことは珍しいことではありませんでした。

世俗歌曲をの旋律をコラールに用いることもその例の一つですね。つまり世俗の音楽を、神聖なものへと高めるのです。でもニコラウス・アーノンクール(1929〜2016/指揮者・チェロ奏者)によれば、バッハはその反対、つまり神のために書かれた音楽を世俗曲に仕立て直すことは決してありませんでした。

さてカンタータ第66番の編成はアルトとテノール独唱、合唱にトランペット、オーボエ2、ファゴット、弦楽と通奏低音。アルトを「恐れ」、テノールを「希望」に擬人化し、バスが司会をするオペラのような対話形式で音楽が進みます。

1曲目は合唱。復活祭オラトリオと同様に、ニ長調でトランペットを伴う壮麗で、エネルギーに溢れた音楽です。「喜べ、心よ、消えよ、痛みよ、主は生きてお前たちを治められる。お前たちは悲しみや恐れや不安に満ちた心を打ち破るのだ。主はご自分の霊の王国を元気づける」。

続いてバス(レチタティーヴォとアリア)が「墓が破れることで私たちの苦しみも終わる。口は神の御業を告げ知らせる。主は生きておられ、苦境と死の中にあっても、信じるものにはすべてが良き助けになると」と語り、「いと高き主に感謝の歌を響かせよ。主の憐れみと永遠の誠の前に。イエスは我らに平和を与えるために現れた。イエスは彼とともに生きるために私たちを呼ぶ。その慈しみは日々新しくなる」と歌います。躍動感にあふれる舞曲風です。

そしてアルト(恐れ)とテノール(希望)のレチタティーヴォ。テノール「生きているイエスと共にある喜びは、輝かしい太陽の光。慰めとともに主を仰ぎ見、自らの中に神の御国を築くことこそが、キリスト者の真の財産なのです。天の慰めが得られたから、私の霊は主の喜びと安らぎを求める。私の墓と死が、おまえたちに慰めをもたらすと、主は力強く私を呼ぶ、私の口は賛美を捧げるけれども、私の勝利と感謝の歌はあまりにも貧弱です」。ここからテノールとアルトが同時に別々のことを歌います。テノールが「私の目は主の甦りを見る」と歌えば、アルトが「誰の目も主の甦りを見ない」と平行線を辿るばかり。「死はもう彼を網目につけない」と歌う前者に、後者は「死はまだ彼を網目につけている」というありさま。テノール「どうして恐れることがあろう」。アルト「墓が死人を解放することなどあるものか」、テノール「もし墓に横たわる者が神なら、何物も彼をとどめ置くことはできない」、アルト「ああ神よ、死に打ち勝ち、墓石を覗き、封印を破られる方よ、信じましょう。どうぞ私の弱さを助けてください。私の疑う心を征服してください。神はわたしの霊を強め、復活のイエスに出会わせてくださったのです」

アルトとテノールの二重唱も同様です。相変わらず「私は闇に覆われた墓を恐れず/恐れ」「私の主が奪われないことを願う/奪われたと嘆いた」と異なったことを歌うのですが、最後はともに、「今こそ私の心は慰めに満ちている。どれほど敵が怒っても、私は神に護られて勝利する」と声を合わせます。独奏ヴァイオリンの濃やかなパッセージが曲を美しく彩ります。

最後は合唱によるコラールです。「ハレルヤ、喜ぼう、キリストこそ、私たちの慰め、主よ、我らを憐れみたまえ」。

那須田務
那須田務 音楽評論家 

ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...

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