
楽器の「再開」は脳にいい! ~脳科学者・瀧靖之さんインタビュー前編

「昔習っていた楽器をもう一度弾いてみたい」。そんな気持ちはあっても、一歩を踏み出せない人も多いのではないでしょうか。“大人のピアノ再開”が、実は脳や心の健康につながる可能性があるとして、東北大学と河合楽器製作所、島村楽器、ピティナ、ヤマハによる共同研究が2026年6月に始まりました。なぜ「再開」が鍵なのか。研究を率いる東北大学加齢医学研究所教授の瀧靖之さんに、オンラインインタビューでその理由を伺いました。

フランス文学科卒業後、大学院で19世紀フランスにおける音楽と文学の相関関係に着目して研究を進める。専門はベルリオーズ。幼い頃から楽器演奏(ヴァイオリン、ピアノ、パイプ...
「大人になってからピアノをもう一度始めることは、心や脳にどのような影響をもたらすのか」。そんな問いを科学的に検証するため、東北大学加齢医学研究所と河合楽器製作所、島村楽器、ピティナ、ヤマハの5者が共同研究をスタート。10年以上のブランクがある30〜60歳を対象に、ピアノ再開が心身や認知機能に与える効果を調べています。
今回は、この研究を主導する東北大学加齢医学研究所 スマート・エイジングセンター長の瀧靖之さんにお話を伺いました。

東北大学加齢医学研究所スマート・エイジングセンター センター長
東北大学加齢医学研究所教授
東北大学発スタートアップ 株式会社CogSmart代表取締役
医師 医学博士
東北大学加齢医学研究所及び東北メディカル・メガバンク機構で脳の MRI画像を用いたデータベースを作成し、脳の発達や加齢のメカニズムを明らかにする研究者として活躍。読影や解析をした脳MRIは、これまでにのべ約16万人に上る。
「脳の発達と加齢に関する脳画像研究」「睡眠と海馬の関係に関する研究」「肥満と脳萎縮の関係に関する研究」など多くの論文を発表している。
著書は、「生涯健康脳(ソレイユ出版)」「賢い子に育てる究極のコツ(文響社)」「回想脳(青春出版社)」「脳医学の先生、頭が良くなる科学的な方法を教えて下さい」(日経BP)」、「本当はすごい早生まれ」(飛鳥新社)、を始め多数、特に「生涯健康脳」「賢い子に育てる究極のコツ」は共に10万部を突破するベストセラーとなり、海外でも複数カ国語で翻訳本が出版されている 。テレビ東京「主治医が見つかる診療所」、NHK「NHKスペシャル」、NHK「クローズアップ現代」、NHK「あさイチ」、「チコちゃんに叱られる!」、Eテレ「バリューの真実」、TBS「駆け込みドクター!」、日本テレビ「DayDay」、「カズレーザーと学ぶ。」など、メディア出演も多数。
楽器の再開は効果が二重三重に効果大!
——今回の研究では「楽器の再開」がテーマですが、まず「再開」にフォーカスした理由を教えてください。
瀧 私たちはもともと、脳の健康を維持し、将来の認知症リスクを下げることをテーマに、若い方からご高齢の方までを対象に、いかに脳を健康に保つかという研究を続けています。その中で、楽器を演奏することは、運動や会話、十分な睡眠など、脳の健康によいとされるさまざまな活動の中でも、特に脳の健康維持や認知症リスクを下げるという観点から、とても効果的であることが多くの研究でわかっています。
もちろん、初めて楽器を始めることも素晴らしいことです。ただ、大人になると、新しいことを始めるにはどうしてもハードルがありますよね。一方でピアノは子どもの頃に習っていた方が非常に多く、もう一度始めるのであれば、まったく初めて挑戦するよりハードルは低いです。五線譜の読み方やドの場所など、基本的な知識は残っていますから。
さらに、ここにはノスタルジーという要素もあります。私たちはこれまで、昔を思い出す「ノスタルジー」が脳によい影響を与えるという研究も行なってきました。楽器を再開すること自体がノスタルジーですし、昔から好きだった曲を弾くこともまたノスタルジーですよね。
つまり、楽器を演奏すること自体が素晴らしいだけでなく、「再開する」という行為には、その効果が二重三重に重なっているだろうと考え、今回の研究では「再開」に着目しました。
——再開だとハードルが下がるというのは、脳への負担が少ないなど、科学的な理由もあるのでしょうか。
瀧 そうですね。何かを始めるときには、「現状維持バイアス」というものがあります。簡単に言えば、三日坊主になりやすいように、人は現状を変えたくないという性質を持っています。ダイエットでも英語の勉強でも、新しいことを始めるのは難しいですよね。楽器も同じです。
再開だからといって、現状維持バイアスがどこまで下がるかを正確に示すのは難しいですが、やはりまったく経験がない場合と比べると、習得するまでの心理的ストレスや、新しい知識を覚える負担は多少下がるだろうと想定されます。
音を聞き分ける能力が高まると言葉の聞き取りにもよい影響が
——先生ご自身もブランクがあって再開されたそうですが、どれくらい空いていたのでしょうか。
瀧 私は小学校3年生でピアノを始めて、小学校5年生くらいで野球のためにやめてしまいました。その後、30代後半、40歳近くになって再開したので、25年くらいブランクがありました。
——ご自身でも研究で示されているような効果を実感されましたか?
瀧 はい、いろんな意味で実感しています。まず、生活が変わったと思います。大人になると、新しいことを一生懸命習得する機会は少なくなりますよね。学生時代までは勉強がありますが、30代、40代になるとそういう機会は減っていきます。その中で、何かを積み重ねて能力を磨いていく経験そのものが、とても大きかったですね。
今回の研究でも扱っていますが、「主観的幸福感」が高まるんです。ワクワクしますし、生活に潤いが生まれ、目標もできます。そういう観点から、心の健康には本当に大きな効果があると感じました。
さらに、ピアノは両手両足を使いますし、身体全体やリズムの感覚も使います。脳がどう変化したかは自分では測定していませんが、心身の健康につながるという実感はありました。
もう一つ、脳科学では、音を処理する脳の領域と言葉を処理する領域はかなり重なっていることがわかっています。ピアノを再開して感じたのは、耳をよく使うようになったことで、音を聞き分ける能力、つまり音の分解能が高まり、英語のリスニングがとても楽になったことです。
——楽器と英語にはそんな関係もあるんですね!
瀧 あります。英語が非常に得意な方、とくに同時通訳者のような高いスキルを持つ方には、楽器経験者が多いと言われています。音の分解能が高まることで、言葉の聞き取りも良くなるということは、多くの研究で示されています。ですから、楽器には本当にさまざまな副次的効果があります。
「演奏する」という能動的な活動はより脳によい
——ちなみに先生ご自身は、どんな曲を弾きたくて再開されたのでしょうか?
瀧 弾きたかった曲はふたつあります。ひとつはベートーヴェン《悲愴》ソナタ第2楽章で、ビリー・ジョエルの「This Night」のモチーフにも使われていて、昔から大好きだったんです。もうひとつは、ラフマニノフ《パガニーニの主題による狂詩曲》第18変奏です。どちらも簡単にアレンジされた楽譜を見つけて、どうしても弾いてみたくて、ピアノを再開しました。
好きな曲を「美しいな」と感じながら自分で奏でることほど幸せなことはありません。もちろん聴くだけでも十分幸せですが、自分で弾くと、それ以上の充実感や幸福感があります。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》第2楽章
——音楽を聴くだけでも幸せというお話がありましたが、やはり聴くだけより演奏するほうが効果は高いのでしょうか。
瀧 もちろん、音楽を聴くことも素晴らしいことです。音楽を聴くと、脳の「報酬系」と呼ばれる、心地よさや快感に関わる部分が刺激されます。特に好きな曲は報酬系を活性化するので、それだけでも幸福感を高める効果があります。
ただ、楽器を演奏するような能動的な趣味は、受動的な趣味よりも脳の健康維持に重要だということがよく言われています。例えば、スポーツ観戦も楽しいですよね。でも、実際にスポーツをするほうが健康にはよりよい。同じように、音楽を聴くことも素晴らしいですが、そこに「演奏する」という能動的な活動が加わることで、さらに効果が期待できます。
能動的な趣味としては、囲碁や将棋、料理、旅行、ガーデニングなど、自分で手足を動かすものは総じてよいと言われています。
病気の一次予防としても期待
——今回の研究はアコースティックピアノに限定されていますが、やはり電子ピアノより効果が高いのでしょうか。
瀧 全身で音の響きを感じられるアコースティックピアノのほうが幸福感が高まりやすいという研究報告はいくつかあります。今回は全身で音を感じられる心地よさを大切にしたかったので、「レッスンではアコースティックピアノを使う」という形にしました。
ただ、それ以上に大事なのは「楽しむこと」と「続けること」です。電子ピアノは集合住宅でも気軽に弾けますし、続けやすさという意味では非常に大切な選択肢だと思います。実は私自身も、ピアノもドラムもアコースティックと電子の両方を持っています。
——この研究によって、社会がどう変わってほしいと考えていますか。
瀧 多くの方が楽器を再開して楽しむことによって、脳や心、体の健康が高まってほしいと思っています。医師の立場から見ても、病気の一次予防は非常に重要です。もし楽器を楽しむ人が増え、認知症リスクが下がれば、国民医療費も抑えられるかもしれません。一人ひとりも幸せになり、社会全体にもよい影響がある。そんな世界をつくることが私の夢です。
インタビュー後編(7月30日公開予定)では脳のしくみを利用した楽器を続けるコツを紹介!
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